白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 都心の喧騒を見下ろすようにそびえ立つ高層ビルの、最上階近くにその法律事務所はあった。
 全面ガラス張りの洗練された受付で九条が名前を告げると、応対した女性スタッフの背筋が目に見えてわずかに伸びる。私たちはすぐに奥の広々とした応接室へと案内され、一分の隙もない所作で上質なコーヒーが用意された。

「ここ、あなたたちの会社の顧問弁護士事務所なんでしょう?」
「ああ、そうだ」
「ずいぶん丁重に扱われるのね。まるでお殿様のお出ましって雰囲気だけど」
「高い顧問料を毎月律儀に払っているからだろう。ビジネスの場では当然の対応だ」
「それだけには見えないけど。スタッフのあの緊張感、ただのクライアントに対するものじゃないわよ」

 私の追及にはそれ以上答えず、出されたばかりのコーヒーへ静かに口をつけた。
 ほどなくして、重厚な扉が開き、仕立てのいいスーツをスマートに着こなした五十代ほどの男性弁護士と、利発そうな若い女性弁護士の二人が入ってきた。

「玲さん、大変なことになりましたね。まさか遠藤くんがそんな大それた真似を犯すとは」

 親しげな様子で、年配の男性弁護士が九条を親密に名前で呼んだ。

「仕事の場でそのプライベートな呼び方はやめてください、坂上先生。何度も言っているはずです」
「おや、これは失礼。何しろ君が子どもの頃から知っているものだから、どうにも頭の切り替えが上手くいかなくてね。昔、やんちゃをして大怪我を負った君を病院へ担ぎ込んだ夜のことが、つい昨日のことのように思い出されてしまうんだよ」

 隣の席の九条を盗み見ると、彼はこれ以上ないほど露骨に嫌そうな顔をして、不機嫌そうに視線を逸らしていた。いつも冷徹で完璧な経営者として振る舞う彼にも、誰かに手を焼かせていた少年時代の過去があるのだと知り、張り詰めていた私の心がほんの少しだけ緩むのを感じる。坂上先生は九条家の顧問弁護士も長く務めているらしく、その信頼関係の深さは傍から見ていても一目瞭然だった。

 九条がわざとらしく咳払いをした。

「先生、本題に入りましょう。こちらが神崎莉乃さんです。遠藤拓也の婚約者だった方で、結婚式当日に置き去りにされました」
「……わざわざ『だった』を強調しなくていいわよ」
「客観的な事実を正確に伝えているだけだ」

 坂上先生は表情をサッと引き締めると、私に向かって深く頭を下げた。

「神崎さん、お辛い状況の中、これほど詳細に資料をまとめてくださったそうですね。拝見しましたよ。時系列が非常に明快で、我々としても非常に助かります」
「現時点で確実に確認できる会社資金の不正流用は、およそ一千二百万円に上ります。なりすましメールという悪質な証拠も残されていますから、業務上横領だけでなく、有印私文書偽造や詐欺罪にも十分に該当する可能性が高いですね」

 若い女性弁護士が、タブレット端末を滑らせながらテキパキと説明を補足していく。
 テーブルの上には、私たちが昨夜徹夜で揃えた出金履歴の束、偽造された領収書、なりすましメールの写し、そして拓也の不自然な予定表が整然と並べられていた。

「航空券の購入明細と出国記録の照合から、二人が海外へ高飛びしたことはほぼ間違いありません。ただ、相手国との身柄引き渡し条約の関係もありますので、現地警察を動かしてすぐに身柄を確保できるとは限らないのが現状です」
「あいつらが、このまま日本に帰国しない可能性は?」
「持ち出した資金が尽きれば、嫌でも戻らざるを得ないでしょう。海外の口座やクレジットカードの動きも、引き続きこちらで厳重に追います」

 膝の上で、痛いくらいにきつく指を組んだ。一番聞かなければならないことを、喉の奥から絞り出す。

「あの……結婚式の費用などは、あいつに請求できるのでしょうか」
「もちろんですとも。式場の高額なキャンセル料、特注の衣装代、遠方からの招待客への返礼費用や交通費。さらに、神崎さんが結婚に伴って退職されたことや、新居のために以前の住居を解約した件についても、彼の身勝手な言動との因果関係を立証できれば、すべて損害として正当に主張できます」
「でも、仕事を辞めると最終的に決断したのは、私自身の意志です」
「遠藤さんの方から、強く結婚後の退職を求められていたという証拠は、何か手元に残っていませんか?」

 言われて、携帯電話の過去のメッセージ履歴を必死に遡った。そこには、かつて愛を囁き合っていた頃の拓也からの言葉が、無残に残されていた。

『莉乃、結婚したら仕事は辞めて、家のことを全面的に頼みたいんだ』
『俺の収入だけで十分に二人で暮らしていけるからさ』
『新居は俺の会社に近い方が、何かと都合が良くて助かるな』

 当時は、なんて優しくて私を大切に想ってくれている言葉なのだろうと、純粋に感動していた。けれど今こうして見返すと、それは私の経済的な自立を奪い、逃げ道を完璧に塞ぐための、狡猾な檻の準備にしか見えなかった。

「……あります。メッセージ、全部残っています」
「素晴らしい。すぐにその画面をスクリーンショットで保存してください。原本であるその端末自体も、絶対にデータを消去しないように厳重に保管をお願いします」

 息が詰まるような面談は、二時間近くに及んだ。
 帰りのエレベーターに乗り込んだ瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、冷たい壁にもたれかかった。冷房がしっかりと効いているはずなのに、ブラウスの下の背中には、じっとりとした嫌な汗が滲んでいる。

「疲れたか」
「……当たり前でしょう。自分の人生で最も幸せなはずだった結婚が、法律事務所で淡々と『損害賠償の項目』として査定されるなんて、夢にも思わなかったわよ」
「無理に全部の金額を、今日中に決める必要はない。少し休め」
「いいえ、決めるわ。請求できるものは、一円の容赦もなく全部あの男に請求する。あいつが汚く逃げ回っているせいで、私の両親に高額なキャンセル費用を肩代わりさせるなんて、絶対に嫌なの」

 切れ長の目で、私の頑なな表情をじっと見つめてきた。