白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 夕方になる頃には、拓也による不審な支出の総額は、一千万円という莫大な金額を軽々と超えていた。架空の広報費、偽造された出張費、不透明な接待費。会社の運転資金だけではなく、彼らが投資家から必死にかき集めた新規事業のための大切な資金にまで、あいつは無慈悲に手を染めていたのだ。

「これ……進行している上場準備に、どのくらい影響が出るの?」

 不安に駆られて尋ねると、椅子の背もたれへ深く体重を預け、天井を仰いだ。

「当然、致命的な影響が出る。うちは今、証券会社と監査法人からの厳しい審査を受けている真っ最中だ。共同代表による横領の事実を少しでも隠蔽すれば、その時点で上場計画は完全に瓦解する。かと言ってすべてを公表すれば、経営陣の内部管理体制そのものを徹底的に疑われることになる」
「最悪の場合、会社が潰れてしまうの……?」
「潰させない」

 迷いのない強い視線で、デスクの上の資料を見据えた。

「残された社員たちも、信じてくれた顧客も、あいつ一人の身勝手な裏切りのために失う気は毛頭ない。明日、俺がすべてを引き受けて説明する」
「……私も手伝うわ」
「断る。お前はうちの会社の人間じゃない」
「だから何よ。この山のような証拠を見つけたのは私よ?それに、拓也の私生活におけるアリバイの嘘を、時系列にまとめて暴き出せるのは、婚約者だった私しかいないでしょ」
「……そんな作業、お前がただ深く傷つくだけだ」
「もうこれ以上傷つきようがないくらい傷ついてるわよ。今さら嘘の履歴が数枚増えたところで、痛くも痒くもないわ」

 彼は驚いたように、しばらく私の顔をじっと見つめていた。その切れ長の瞳に、微かな熱が宿る。

「……お前、本当に強いな」
「強くなきゃ、白無垢姿のまま一人でタクシーに乗って、ここまで乗り込んできてないわよ」
「……それもそうだな」

 九条の口元が、ほんのわずかに、けれど初めて優しく緩んだ。

 翌日、顧問弁護士との面談に向けて、一晩中パソコンと向き合い、携帯電話のカレンダーから拓也との二年間のすべての予定を洗い出し続けた。
 突然キャンセルされたデート、深夜の不自然な呼び出し。
 当時は『仕事を頑張っているから』と誇らしく思っていた予定のすべてが、今となっては薄汚い裏切りのモザイク画に見えてくる。

 深夜二時を回った頃、カサリと机に軽い音が響いた。
 見上げると、九条が温かいコーヒーの淹れられたマグカップを私の手元に置いてくれたところだった。

「もう寝ろ」
「あなただって、一歩も動かずに作業しているじゃない」
「俺は徹夜には慣れている」
「睡眠不足に慣れる人間なんて、この世に一人もいないわよ」
「……相変わらず、小言の多い総務だな」
「元総務ですから。健康管理も仕事のうちだったの」

 淹れたてのカップを両手で包み込むと、じんわりとした温もりがかじかんだ指先を癒していく。コクのある苦味と熱が、疲れた喉をゆっくりと通り過ぎていった。

「ねえ、九条。……拓也が見つかって、本当に捕まったら、あなたはどうするつもりなの?」
「会社から正式に追放し、損害賠償請求と刑事告訴を同時に行う」
「……あんなに、仲が良かった友達だったのに?」

 九条のキーボードを叩く指が、ピタリと止まった。

「友達だったからだ」

 静かだが、鋼のように固い決意に満ちた声が部屋に響く。

「俺の名前を騙って会社を泥棒し、健気に働く社員たちを裏切り、そして、信じていたお前をあの最悪の状況で式場に置き去りにした。もしこれを俺が少しでも手加減して見逃せば、あいつと積み上げてきたはずの十年の絆まで、ただの安物に成り下がる」

 その言葉に込められた圧倒的な誠実さに、返す言葉を失い、ただじっと彼の横顔を見つめることしかできなかった。
 すぐに冷徹な経営者の目へ戻り、パソコンの画面へ視線を向けた。

「すでに優秀な調査会社へ裏から手を回して依頼を出してある。相沢と拓也の現在地を突き止めるだけではなく、ここ半年の二人の素行もすべて追わせるように手配した」
「……二人の、写真とかも出るのかしら」
「おそらく、決定的なものがいくつか上がってくるはずだ」

 それを自分の目で直視したいのか、それとも恐ろしくて逃げ出したいのか、今の私には判断がつかなかった。
 その時、静まり返ったリビングに、九条のスマートフォンの短いバイブレーション音が低く響き渡った。調査会社からの緊急の報告メールのようだった。
 添付ファイルを開き、画面をスクロールしていった九条の表情が、一瞬にして険しく歪む。

「……何が送られてきたの?」
「空港の国際線ゲートの防犯映像だ。昨日、あいつらが出国した瞬間の写真が鮮明に切り取られている」
「見せて」

 九条から差し出された画面を覗き込む。今の監視カメラの技術は、恐ろしいほどに精緻だった。
 画面の向こうで、ブランド物の大きなキャリーケースを軽快に引いて笑っているのは、紛れもない、私の婚約者だった拓也。
 そしてその腕には、若く美しい女がぴったりと、これ以上ないほど甘えるように絡みついていた。

 ――その女の細い手首には、九条たちの会社の経費で買い叩かれた、あのブランド物のブレスレットが、皮肉なほどキラキラと光り輝いていた。