「昨日まで、みんなコンビニ弁当ばかりだったんです。九条さんも、ほとんど寝ていません」
「拓也のことは、どこまで聞いていますか」
「会社のお金を持ち出して、連絡が取れないところまでです。結婚式についても、最低限だけ」
「無理に隠さなくてもいいんです」
「それでも、神崎さんが話す前に私が言いふらすことではありませんから」
蛇口を止め、彼女を見る。
「ありがとう、宮田さん」
「こちらこそ。久しぶりに温かいご飯を食べられました」
午後、九条が分けた書類を日付と取引先ごとにファイルへ収めた。
夕方、古い段ボールの底から、一枚の領収書が落ちる。
都内の一流ホテル。二名分の宿泊費。日付は、拓也が地方出張だと言っていた週末だった。
裏には、手書きの文字がある。
『広報企画打ち合わせ 相沢』
同じホテルの領収書が、さらに三枚出てきた。
「九条。これを見て」
紙を受け取り、目を細めた。
「全部、会社の経費として処理されている」
ただの浮気ではない。
拓也は浮気相手との逢瀬に使った金まで、会社へ払わせていた。
並べられた領収書の日付を一つずつ繋ぎ合わせていくと、拓也のついていた嘘の数々が、醜い一本の線となって浮き彫りになっていった。
地方へ出張すると言って家を空けていた週末。取引先との急な会食だからと、帰宅が遅くなった夜。挙式の打ち合わせを仕事のトラブルでドタキャンされた日。
――そのすべてが、相沢美月という女との逢瀬にぴたりと重なっている。
「ねえ、この外注費って、最初は相沢さん個人への支払いになっているの?」
私が指先で示すと、宮田さんは素早くキーボードを叩いて社内の会計システムを開いた。
「ええ。最初の二ヶ月間は、個人名義の口座への振り込みです。でも、その後から突然、エヴォル経由での支払いに切り替わっています」
「どうしてそんな面倒なことを?」
「拓也さんから、『今後は広報の業務全体をエヴォルへ一括で委託することにした。九条の承認もすでに取ってある』と直接説明を受けました」
その言葉を聞いた瞬間、九条の瞳が凍りつくような冷たさを帯びる。
「……そんな話、俺は一切聞いていない」
「ですが、九条さんからの承認メールもきちんと転送されてきました」
宮田さんが過去のフォルダから保存していたメールを開き、画面をこちらに向けた。差出人の欄には確かに九条の社内アドレスが表示されている。けれど、その文面は九条の冷徹なキャラクターからは想像もつかないほど、妙に馴れ馴れしいものだった。
『広報の件、拓也の判断に一任する。金額は特に気にしなくていい』
「九条。あなた、実務でこんな緩い書き方をするの?」
「するわけがないだろう。一円単位の予算に目を光らせるのが経営者だ。金額を気にするななどと、正気の沙汰じゃない」
「じゃあ、これ……偽装されたメールなのね」
送信元の詳細ヘッダーを深く掘り下げて確認すると、案の定、外部の怪しいダミーサーバーを経由していることが判明した。拓也が九条のアドレスへ巧妙になりすまし、経理の宮田さんへ虚偽の指示を出していた可能性が極めて高い。
すべてを察した宮田さんの顔から、一気に血の気が引いていく。
「そんな……。私、九条さんの署名があるからと、ろくに確認もせずに処理してしまって……」
「宮田の責任じゃない」
間髪入れず、遮るように強い口調で言った。その声には、部下を責めるような色は微塵も混じっていない。
「共同代表からの直接の指示があり、もう一人の代表の承認メールまで添えられていれば、処理を進めてしまうのは当然だ。これを見抜けず、チェック体制を怠っていた俺の責任だ」
「でも、私がもっと不審に思っていれば……」
「宮田、今は過去を悔やんで犯人探しをしている場合じゃない。確実にあいつを追い詰めるための証拠を残すぞ」
九条の声は厳しい。けれど、どこまでも理性的で、不測の事態に身を挺して部下を守ろうとする圧倒的な器の大きさがそこにはあった。
私たちは手分けをして、偽装メールのプリントアウトとバックアップを保存し、これまでの発見経緯を詳細に記録していった。こうして機械的に手を動かしている間だけは、拓也という男へのぐちゃぐちゃな感情を頭の隅へ追いやることができた。
「神崎、こっちの領収書もチェックしてくれ」
不意に名字を呼び捨てにされ、驚いて顔を上げた。
「……ちょっと。いつの間に私を呼び捨てにするようになったのよ」
「緊急の作業中に、いちいち敬称をつけて呼び合う時間が無駄だ」
「ふうん。じゃあ、私もこれから九条って呼ぶから。お互い様ね」
「好きにしろ」
「じゃあ、九条。これは完全に私用のレシートよ。よりによって私と式場との打ち合わせがあった日に、あなたたちの会社の経費でブランド物のジュエリーを買ってる」
手元に残されたレシートの品名欄には、女性向けの華奢なブレスレットの商品番号が印字されていた。
何も飾られていない手首に視線を落とした。拓也から二年の交際期間で贈られたものといえば、プロポーズの時の婚約指輪以外には、片手で収まるほどの小さな花束くらいだったのに。
「これも、相沢美月へのプレゼントかしら」
「その可能性が極めて高いな」
「……たぶんね。私の、一生に一度のはずの結婚指輪は……きっちり割り勘にされたっていうのに」
ぽつりとこぼした瞬間、惨めさと情けなさで胸がぎゅっと締め付けられた。
作業していた手を止め、鋭い瞳を私へ向けた。
「……お前の結婚指輪は、割り勘だったのか」
「何よ、悪い?これから二人でつけていくものなんだから、半分ずつ出し合うのが対等で良いと思ったのよ。その時は」
「悪いとは言っていない」
「じゃあ、その不服そうな顔は何よ」
「いや。拓也の奴は、他人の金をどこまで効率よく自分本位に使い倒すつもりだったんだと、呆れただけだ」
九条の辛辣な皮肉に、力なく乾いた笑いを漏らすことしかできない。
「笑えないわよ。私、自分の分の半額、まだ毎月のクレジットカードの分割払いで払い続けているんだから」
「今すぐ支払いを止められないのか?」
「ジュエリーショップに罪はないでしょう。それに、指輪自体は確かに手元にあるし……」
私の左手の薬指には、今はもう、何も嵌められていない。
式場で交換するために、昨夜のうちに外して大切にケースへ戻していたのだ。そしてそのケースも、新居へ運ばれたあの大量の段ボールのどこかに紛れ込んでいる。
あの男がそれさえも持ち去ったのか、それともゴミのように残していったのかは、知る由もなかった。
「拓也のことは、どこまで聞いていますか」
「会社のお金を持ち出して、連絡が取れないところまでです。結婚式についても、最低限だけ」
「無理に隠さなくてもいいんです」
「それでも、神崎さんが話す前に私が言いふらすことではありませんから」
蛇口を止め、彼女を見る。
「ありがとう、宮田さん」
「こちらこそ。久しぶりに温かいご飯を食べられました」
午後、九条が分けた書類を日付と取引先ごとにファイルへ収めた。
夕方、古い段ボールの底から、一枚の領収書が落ちる。
都内の一流ホテル。二名分の宿泊費。日付は、拓也が地方出張だと言っていた週末だった。
裏には、手書きの文字がある。
『広報企画打ち合わせ 相沢』
同じホテルの領収書が、さらに三枚出てきた。
「九条。これを見て」
紙を受け取り、目を細めた。
「全部、会社の経費として処理されている」
ただの浮気ではない。
拓也は浮気相手との逢瀬に使った金まで、会社へ払わせていた。
並べられた領収書の日付を一つずつ繋ぎ合わせていくと、拓也のついていた嘘の数々が、醜い一本の線となって浮き彫りになっていった。
地方へ出張すると言って家を空けていた週末。取引先との急な会食だからと、帰宅が遅くなった夜。挙式の打ち合わせを仕事のトラブルでドタキャンされた日。
――そのすべてが、相沢美月という女との逢瀬にぴたりと重なっている。
「ねえ、この外注費って、最初は相沢さん個人への支払いになっているの?」
私が指先で示すと、宮田さんは素早くキーボードを叩いて社内の会計システムを開いた。
「ええ。最初の二ヶ月間は、個人名義の口座への振り込みです。でも、その後から突然、エヴォル経由での支払いに切り替わっています」
「どうしてそんな面倒なことを?」
「拓也さんから、『今後は広報の業務全体をエヴォルへ一括で委託することにした。九条の承認もすでに取ってある』と直接説明を受けました」
その言葉を聞いた瞬間、九条の瞳が凍りつくような冷たさを帯びる。
「……そんな話、俺は一切聞いていない」
「ですが、九条さんからの承認メールもきちんと転送されてきました」
宮田さんが過去のフォルダから保存していたメールを開き、画面をこちらに向けた。差出人の欄には確かに九条の社内アドレスが表示されている。けれど、その文面は九条の冷徹なキャラクターからは想像もつかないほど、妙に馴れ馴れしいものだった。
『広報の件、拓也の判断に一任する。金額は特に気にしなくていい』
「九条。あなた、実務でこんな緩い書き方をするの?」
「するわけがないだろう。一円単位の予算に目を光らせるのが経営者だ。金額を気にするななどと、正気の沙汰じゃない」
「じゃあ、これ……偽装されたメールなのね」
送信元の詳細ヘッダーを深く掘り下げて確認すると、案の定、外部の怪しいダミーサーバーを経由していることが判明した。拓也が九条のアドレスへ巧妙になりすまし、経理の宮田さんへ虚偽の指示を出していた可能性が極めて高い。
すべてを察した宮田さんの顔から、一気に血の気が引いていく。
「そんな……。私、九条さんの署名があるからと、ろくに確認もせずに処理してしまって……」
「宮田の責任じゃない」
間髪入れず、遮るように強い口調で言った。その声には、部下を責めるような色は微塵も混じっていない。
「共同代表からの直接の指示があり、もう一人の代表の承認メールまで添えられていれば、処理を進めてしまうのは当然だ。これを見抜けず、チェック体制を怠っていた俺の責任だ」
「でも、私がもっと不審に思っていれば……」
「宮田、今は過去を悔やんで犯人探しをしている場合じゃない。確実にあいつを追い詰めるための証拠を残すぞ」
九条の声は厳しい。けれど、どこまでも理性的で、不測の事態に身を挺して部下を守ろうとする圧倒的な器の大きさがそこにはあった。
私たちは手分けをして、偽装メールのプリントアウトとバックアップを保存し、これまでの発見経緯を詳細に記録していった。こうして機械的に手を動かしている間だけは、拓也という男へのぐちゃぐちゃな感情を頭の隅へ追いやることができた。
「神崎、こっちの領収書もチェックしてくれ」
不意に名字を呼び捨てにされ、驚いて顔を上げた。
「……ちょっと。いつの間に私を呼び捨てにするようになったのよ」
「緊急の作業中に、いちいち敬称をつけて呼び合う時間が無駄だ」
「ふうん。じゃあ、私もこれから九条って呼ぶから。お互い様ね」
「好きにしろ」
「じゃあ、九条。これは完全に私用のレシートよ。よりによって私と式場との打ち合わせがあった日に、あなたたちの会社の経費でブランド物のジュエリーを買ってる」
手元に残されたレシートの品名欄には、女性向けの華奢なブレスレットの商品番号が印字されていた。
何も飾られていない手首に視線を落とした。拓也から二年の交際期間で贈られたものといえば、プロポーズの時の婚約指輪以外には、片手で収まるほどの小さな花束くらいだったのに。
「これも、相沢美月へのプレゼントかしら」
「その可能性が極めて高いな」
「……たぶんね。私の、一生に一度のはずの結婚指輪は……きっちり割り勘にされたっていうのに」
ぽつりとこぼした瞬間、惨めさと情けなさで胸がぎゅっと締め付けられた。
作業していた手を止め、鋭い瞳を私へ向けた。
「……お前の結婚指輪は、割り勘だったのか」
「何よ、悪い?これから二人でつけていくものなんだから、半分ずつ出し合うのが対等で良いと思ったのよ。その時は」
「悪いとは言っていない」
「じゃあ、その不服そうな顔は何よ」
「いや。拓也の奴は、他人の金をどこまで効率よく自分本位に使い倒すつもりだったんだと、呆れただけだ」
九条の辛辣な皮肉に、力なく乾いた笑いを漏らすことしかできない。
「笑えないわよ。私、自分の分の半額、まだ毎月のクレジットカードの分割払いで払い続けているんだから」
「今すぐ支払いを止められないのか?」
「ジュエリーショップに罪はないでしょう。それに、指輪自体は確かに手元にあるし……」
私の左手の薬指には、今はもう、何も嵌められていない。
式場で交換するために、昨夜のうちに外して大切にケースへ戻していたのだ。そしてそのケースも、新居へ運ばれたあの大量の段ボールのどこかに紛れ込んでいる。
あの男がそれさえも持ち去ったのか、それともゴミのように残していったのかは、知る由もなかった。



