「九条さん、証拠袋的なもの、ある?」
「そんな特殊なものが、一般の自宅に常備されていると思うか?」
「会社を兼ねているんだから、オフィスの封筒くらいあるでしょう」
九条が下の階のオフィスから持ってきてくれた茶封筒に、今日の日付と、発見場所を几帳面に書き込んでいく。
「……お前、意外と細かいな」
「元総務の事務処理能力を舐めないでちょうだい」
気づけば、壁の時計の針は深夜二時を回っていた。
「明日から、普通に下のフロアの社員たちが出社してくる。ここは一応役員フロアだが、打ち合わせや会議で上がってくる者もいる」
「私についての説明はどうするの?」
「……追って考えておく」
「変な嘘だけはつかないでよ?」
「白無垢姿で深夜に押し掛け、そのまま強引に居座った、共同代表の夜逃げ婚約者――」
「事実をそのままぶちまける方が、頭おかしいと思われるでしょうが!」
九条はひどく疲弊した様子で、ゆっくりと両目を閉じた。
「もう寝ろ。明日は朝一番から銀行と弁護士を回るぞ」
「……あなたもね」
自室に戻り、一人ベッドへと潜り込む。
こんな興奮状態で眠れるはずがないと思っていたのに、精神的にも肉体的にも、私の身体はとうに限界を迎えていたらしい。布団の温もりに包まれた瞬間、意識は深い闇へと沈んでいった。
――翌朝。
パタパタという、聞き慣れない複数の足音と話し声で目を覚ます。
枕元の時計に目をやると、時刻はすでに午前八時を過ぎていた。
「しまった!」と飛び起き、慌てて廊下へ飛び出すと、開放的なリビングには見知らぬ若い社員が三人、書類を手に立っていた。
そしてその中央で、完璧にタイを締め上げた九条が、優雅に朝のコーヒーを口にしている。
あからさまに寝起きで、髪もボサボサの私を見た若い男性社員が、驚いたように目を瞬かせた。
「あの……社長。そちらの、今奥から出てこられた女性は……一体どなたですか?」
九条はコーヒーカップを持ったまま、ほんの一拍の間を置き――
ひどく面倒くさそうに、けれど至極冷静なトーンで言い放った。
「ああ。今日から新しく入った、我が社の臨時の清掃担当だ」
「誰が掃除のおばさんよ! 私、まだ二十六ですけど!」
抗議の声が、静まり返った朝のリビングへ響いた。
「おばさんとは一言も言っていないだろう」
「清掃担当って、そういう意味に聞こえるの!」
「勝手に年齢を上乗せして怒るな」
「あなたの目が言ってたわよ!」
「俺の目に字幕をつけるな」
書類を抱えた社員三人は、口を挟む隙を失って固まっている。
小さく息を吐き、マグカップをテーブルへ置いた。
「紹介する。経理の宮田、開発責任者の佐伯、デザイナーの藤原だ。こちらは神崎莉乃。諸事情があって、しばらく上の空き部屋を使う」
「諸事情って、どこまで聞いていいやつですか」
眼鏡を直した佐伯さんが、おそるおそる尋ねる。
「聞くな」
「承知しました」
即座に引き下がる姿へ、思わず同情した。
経理の宮田さんは、目の下へ濃い隈をつくりながらも、私へ柔らかく頭を下げてくれる。
「神崎さん、よろしくお願いします。清掃担当というのは、本当に?」
「居候させてもらう代わりに、家事全般を引き受けることになったんです。ついでに、散らかっている場所があれば片っ端から片づけます」
「本当に助かります!」
食い気味の返事に、室内を見回す。
最上階は九条の住居であると同時に、役員用の打ち合わせスペースでもあるらしい。それなのに、床には資料入りの段ボールが積まれ、シンクには汚れたマグカップが並び、観葉植物の葉には薄く埃が積もっていた。
「清掃業者を雇ってないの?」
「週に一度は入る」
「それで、どうしてこうなるのよ」
「今週は事件の後処理で断った」
「今週だけの散らかり方じゃないでしょう?」
藤原さんが吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。
「藤原。何か言いたいことがあるのか」
「いえ。神崎さん、頼もしいなと思って」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます」
三人が下のオフィスへ戻ると、窓を開けた。秋の冷たい風が通り抜け、こもっていた空気と紙の匂いを外へ押し出していく。
「勝手に書類へ触るなと昨日言ったはずだ」
「床の紙を避けて掃除機をかけろっていうの?」
「分類は俺がする」
「なら今日中に。終わらなければ、明日、私が仮の箱へ分ける」
「俺に命令するな」
「自分で片づけない人に、選択肢を出してあげてるの」
九条が反論しかけたところで、スマートフォンが鳴った。すぐに仕事用の机へ戻り、低い声で銀行と話し始める。
午前中は、水回りと床の掃除に費やした。洗濯機を回し、カップを洗い、賞味期限の切れた食材を処分する。
冷蔵庫の奥には、まだ新しい野菜と豚肉が残っていた。
「これ、使ってもいい?」
下の階を覗くと、オンライン会議中だった。代わりに宮田さんが頷く。
「昨日、九条さんがネットスーパーで注文したものです。料理するつもりだったのかは謎ですが」
「形から入って、注文だけで満足したのかしら」
「もう九条さんを理解してる」
上へ戻り、豚汁とおにぎりを作った。
炊き上がる米の匂いと、味噌の甘い香りが広がる。しばらくすると、下から足音が続けて上がってきた。
「すごくいい匂いがする……」
「人数分あるから、よかったら食べて」
「神崎さん、本当にいいんですか?」
「居候代の一部です。遠慮しないで」
「毎日いてほしいです」
佐伯さんの本音に、宮田さんの肘が入った。
最後に上がってきた九条は、通話を終えてから椅子へ座り、湯気の立つ椀を見た。
「お前が作ったのか」
「見ればわかるでしょう」
「毒は」
「あなたの分だけ入れるか迷ったわ」
「入っていないなら食べる」
一口すすった途端、眉間の皺がほどけた。
「……うまい」
「もっと感動してもいいのよ」
「ただの豚汁だろう」
「豚汁を侮る人に、おかわりはありません」
「前言を撤回する。かなりうまい」
社員たちの笑い声が弾ける。
結婚式場を飛び出してから、誰かと同じ食卓を囲んで笑ったのは初めてだった。温かい汁が喉を通るたび、身体の奥へ張りついていた冷たさが少しずつ溶けていく。
食後、宮田さんが皿を洗いながら、小声で話しかけてきた。
「そんな特殊なものが、一般の自宅に常備されていると思うか?」
「会社を兼ねているんだから、オフィスの封筒くらいあるでしょう」
九条が下の階のオフィスから持ってきてくれた茶封筒に、今日の日付と、発見場所を几帳面に書き込んでいく。
「……お前、意外と細かいな」
「元総務の事務処理能力を舐めないでちょうだい」
気づけば、壁の時計の針は深夜二時を回っていた。
「明日から、普通に下のフロアの社員たちが出社してくる。ここは一応役員フロアだが、打ち合わせや会議で上がってくる者もいる」
「私についての説明はどうするの?」
「……追って考えておく」
「変な嘘だけはつかないでよ?」
「白無垢姿で深夜に押し掛け、そのまま強引に居座った、共同代表の夜逃げ婚約者――」
「事実をそのままぶちまける方が、頭おかしいと思われるでしょうが!」
九条はひどく疲弊した様子で、ゆっくりと両目を閉じた。
「もう寝ろ。明日は朝一番から銀行と弁護士を回るぞ」
「……あなたもね」
自室に戻り、一人ベッドへと潜り込む。
こんな興奮状態で眠れるはずがないと思っていたのに、精神的にも肉体的にも、私の身体はとうに限界を迎えていたらしい。布団の温もりに包まれた瞬間、意識は深い闇へと沈んでいった。
――翌朝。
パタパタという、聞き慣れない複数の足音と話し声で目を覚ます。
枕元の時計に目をやると、時刻はすでに午前八時を過ぎていた。
「しまった!」と飛び起き、慌てて廊下へ飛び出すと、開放的なリビングには見知らぬ若い社員が三人、書類を手に立っていた。
そしてその中央で、完璧にタイを締め上げた九条が、優雅に朝のコーヒーを口にしている。
あからさまに寝起きで、髪もボサボサの私を見た若い男性社員が、驚いたように目を瞬かせた。
「あの……社長。そちらの、今奥から出てこられた女性は……一体どなたですか?」
九条はコーヒーカップを持ったまま、ほんの一拍の間を置き――
ひどく面倒くさそうに、けれど至極冷静なトーンで言い放った。
「ああ。今日から新しく入った、我が社の臨時の清掃担当だ」
「誰が掃除のおばさんよ! 私、まだ二十六ですけど!」
抗議の声が、静まり返った朝のリビングへ響いた。
「おばさんとは一言も言っていないだろう」
「清掃担当って、そういう意味に聞こえるの!」
「勝手に年齢を上乗せして怒るな」
「あなたの目が言ってたわよ!」
「俺の目に字幕をつけるな」
書類を抱えた社員三人は、口を挟む隙を失って固まっている。
小さく息を吐き、マグカップをテーブルへ置いた。
「紹介する。経理の宮田、開発責任者の佐伯、デザイナーの藤原だ。こちらは神崎莉乃。諸事情があって、しばらく上の空き部屋を使う」
「諸事情って、どこまで聞いていいやつですか」
眼鏡を直した佐伯さんが、おそるおそる尋ねる。
「聞くな」
「承知しました」
即座に引き下がる姿へ、思わず同情した。
経理の宮田さんは、目の下へ濃い隈をつくりながらも、私へ柔らかく頭を下げてくれる。
「神崎さん、よろしくお願いします。清掃担当というのは、本当に?」
「居候させてもらう代わりに、家事全般を引き受けることになったんです。ついでに、散らかっている場所があれば片っ端から片づけます」
「本当に助かります!」
食い気味の返事に、室内を見回す。
最上階は九条の住居であると同時に、役員用の打ち合わせスペースでもあるらしい。それなのに、床には資料入りの段ボールが積まれ、シンクには汚れたマグカップが並び、観葉植物の葉には薄く埃が積もっていた。
「清掃業者を雇ってないの?」
「週に一度は入る」
「それで、どうしてこうなるのよ」
「今週は事件の後処理で断った」
「今週だけの散らかり方じゃないでしょう?」
藤原さんが吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。
「藤原。何か言いたいことがあるのか」
「いえ。神崎さん、頼もしいなと思って」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます」
三人が下のオフィスへ戻ると、窓を開けた。秋の冷たい風が通り抜け、こもっていた空気と紙の匂いを外へ押し出していく。
「勝手に書類へ触るなと昨日言ったはずだ」
「床の紙を避けて掃除機をかけろっていうの?」
「分類は俺がする」
「なら今日中に。終わらなければ、明日、私が仮の箱へ分ける」
「俺に命令するな」
「自分で片づけない人に、選択肢を出してあげてるの」
九条が反論しかけたところで、スマートフォンが鳴った。すぐに仕事用の机へ戻り、低い声で銀行と話し始める。
午前中は、水回りと床の掃除に費やした。洗濯機を回し、カップを洗い、賞味期限の切れた食材を処分する。
冷蔵庫の奥には、まだ新しい野菜と豚肉が残っていた。
「これ、使ってもいい?」
下の階を覗くと、オンライン会議中だった。代わりに宮田さんが頷く。
「昨日、九条さんがネットスーパーで注文したものです。料理するつもりだったのかは謎ですが」
「形から入って、注文だけで満足したのかしら」
「もう九条さんを理解してる」
上へ戻り、豚汁とおにぎりを作った。
炊き上がる米の匂いと、味噌の甘い香りが広がる。しばらくすると、下から足音が続けて上がってきた。
「すごくいい匂いがする……」
「人数分あるから、よかったら食べて」
「神崎さん、本当にいいんですか?」
「居候代の一部です。遠慮しないで」
「毎日いてほしいです」
佐伯さんの本音に、宮田さんの肘が入った。
最後に上がってきた九条は、通話を終えてから椅子へ座り、湯気の立つ椀を見た。
「お前が作ったのか」
「見ればわかるでしょう」
「毒は」
「あなたの分だけ入れるか迷ったわ」
「入っていないなら食べる」
一口すすった途端、眉間の皺がほどけた。
「……うまい」
「もっと感動してもいいのよ」
「ただの豚汁だろう」
「豚汁を侮る人に、おかわりはありません」
「前言を撤回する。かなりうまい」
社員たちの笑い声が弾ける。
結婚式場を飛び出してから、誰かと同じ食卓を囲んで笑ったのは初めてだった。温かい汁が喉を通るたび、身体の奥へ張りついていた冷たさが少しずつ溶けていく。
食後、宮田さんが皿を洗いながら、小声で話しかけてきた。



