白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

「緊張している?」
「するに決まっている」
「逃げないよ。だから、玲も逃げないで」
「わかっている。それでも、現実になるまでは怖い」

 私も同じ。一度失敗したからこそ、幸せな瞬間ほど怖くなる。
 胸の奥では、また突然すべてが消えるのではないかという怯えが、まだ小さく息をしている。

 けれど、恐れがあるからこそ、握った手の温度がはっきりわかる。
 未来を保証してくれる人はいない。私たちにできるのは、怖くなった時に手を離さず、言葉を交わすことだけ。
 それでも、隣にいるのが玲なら、その不確かさごと引き受けたい。

 隣の手を握る。

「壊れそうになったら、話そう」
「ああ」
「勝手に決めないで」
「ああ」
「黙っていなくならないで」
「絶対にしない」
「私も」

 誓詞とは別の、二人だけの約束。
 神前へ頭を下げた時、熱いものが込み上げた。
 誰かの妻になるために、自分を明け渡すのではない。
 玲と生きることを選び、その隣でも自分の足で立ち続ける。そう決めて交わした約束。

 式を終え、境内で記念写真を撮る。

「九条さん、神崎さんをお姫様抱っこしてください」
「しない」
「珍しい。いつもならすぐ抱えるのに」
「今日は二人分だから駄目だ」
「私、歩けるよ」
「知っている。だが、無茶はさせない」

 代わりに腰へ腕を回し、身体を支える。

「過保護」
「一生諦めろ」

 披露宴を終え、新居へ戻った。
 ほんの数時間前まで白無垢を着ていたなんて信じられない。
 玄関の扉が閉まると、抱き上げられる代わりに、ゆっくり抱き締められた。

「奥さん」
「奥さん?」
「一度、呼んでみたかった」
「まだ慣れないんだけど」
「何度でも呼ぶ。莉乃、俺の奥さん」

 胸が熱くなる。
 玄関には、朝まで私が履いていた靴と、玲の靴が並んでいる。
 もう、居候として置かれた家でも、逃げ込んだ仮の場所でもない。
 今日から、二人で帰ってくる家だ。白無垢を脱いだ身体には疲れが残っているけれど、抱く腕の中でようやく長い一日が終わったのだと実感した。

「私だけの旦那様」

 玲の腕が強くなる。

「もう一度」
「……大好きだよ。旦那様」
「それは……反則だな」

 笑いながら唇が重なる。
 白無垢で飛び込んだ最悪の日から始まった関係は、二人と一人の新しい家族へ変わっていく。
 今度は、追いかける必要も、黙って逃げる必要もなかった。

 娘が生まれて、三か月。

 夜中の二時。隣から小さな泣き声が聞こえ、目を開ける。
 身体は鉛のように重く、細切れの睡眠で頭の奥がぼんやりしていた。

 それでも、あの小さな声を聞けば胸が先に反応する。
 起き上がろうとした私より先に、玲がベッドを出た。

 出産してからの三か月は、幸せという言葉だけでは足りないほど慌ただしかった。
 かわいいと思う直後に、眠りたい、少し一人になりたいと願う夜もある。
 そんな自分へ罪悪感を覚えるたび、玲が黙って娘を抱き上げてくれる。その足音を聞くだけで、強張った肩が少し緩んだ。

「俺が行く。寝てろ」
「次の授乳は私」
「おむつだけ替える」

 寝室の隣に作った子ども部屋から、玲の低い声が聞こえる。

「どうした。腹が減ったのか。眠いのか。どっちだ」

 相手は生後三か月。答えるはずがないのに、真面目に聞いてる様子がちょっと面白い。
 少しして、泣き声がさらに大きくなった。

「莉乃」
「はいはい」

 二人のもとに行くと、玲が娘を抱いて困り果てている。
 上場企業の社長が、夜中に髪を乱し、肩へガーゼを掛けていた。

「おむつは?」
「替えた。室温も問題ない」
「お腹が空いたんだよ。少し早いけど、授乳しようかな」

 娘を受け取り、椅子へ座る。玲は隣へしゃがみ、眠そうな娘の頬を指で撫でた。

「俺に似ているか」
「眉間の皺は似ている」
「莉乃に似た方がかわいい」
「気が強くなるよ」
「二人に怒られるのか」
「覚悟して」

 目を閉じたまま、小さな手で玲の指を掴んだだけで、顔が一瞬で緩む。

「離さない」
「赤ちゃんに言ってもわからないよ」
「今から言っておく」
「重いパパですね~」
「今さらだろ」

 私の産休中、玲も可能な限り在宅勤務を増やした。
 役員会へ娘を連れていこうとして止めたこともある。

「社内託児室の視察だ」
「まだ作っていないでしょう」
「作る予定だ」
「娘を最初の利用者にする気?」
「お前が復職する時に必要だろ」
「私だけのために作らないで」
「社員にも希望者がいる。調査した」

 今度は、先に社員へ聞いてから計画を進めていた。
 少しずつ、本当に学んでいる。復職の時期や働き方を一人で決めず、会社と玲に相談した。
 娘が一歳になる頃を目安に、短時間勤務から戻る予定。

 娘のそばを離れる寂しさと、仕事へ戻りたい気持ちは、どちらも本物。
 母親なのだから片方を消さなければならないと考えると、胸が苦しくなる。
 けれど、矛盾したままでも相談していい。保育園を調べ、勤務時間を確認し、玲と何度も話すうちに、復職は娘を置いていく選択ではなく、家族で暮らし方を作り直すことなのだと考えられるようになった。

「もっと休んでもいい」
「働きたいの」
「知っている。だから止めない」
「寂しい?」
「かなり」
「私が仕事へ行くだけでしょう」
「娘も保育園へ行く」
「玲も会社へ行く」
「家に誰もいなくなる」
「夕方には帰るよ」
「迎えに行く」
「毎日?」
「当然だ」

 二人まとめて迎えに来る社長を想像し、ため息が出た。

 娘を挟んだままではキスができずにいると、玲は少し不満そうに私の額へ唇を寄せた。

 白無垢でマンションに飛び込んだあの日、私は家も仕事も未来も失ったと思っていた。
 今は、自分で選んだ仕事へ戻る予定があり、隣には逃げない夫がいて、その腕には娘がいる。

「莉乃」
「何?」
「次は、逃がす隙すら与えないが、大丈夫か?」
「逃げると思っているの?」
「思っていない。だが、今度はちゃんと確認したい」
「断ったら?」
「理由を聞く。直せるところは直す。直せないなら、お前が納得するまで待つ」
「逃がさないんじゃなかったの?」
「逃がさない。でも、閉じ込める気もない」

 幸せになれば、もう不安にならないわけではない。
 仕事と育児の間で迷い、玲の過保護へ腹を立て、また一人で抱え込みそうになる日が来るだろう。
 それでも、あの日の私とは違う。失うことを恐れて黙るのではなく、怒りも弱音も、この家の中で言葉にできる。

 この先もきっと、何度も言い合う。そのたびに立ち止まり、互いの声を聞き、同じ家へ帰ればいい。