白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 三か月後、赤ちゃんは順調に育っていた。
 安定期へ入り、吐き気もほとんど治まったけれど、お腹は白無垢の下でも少しわかるほど丸くなっている。
 最終の衣装合わせで、着付け担当者が帯の位置を丁寧に調整してくれる。

「苦しくありませんか」
「大丈夫です」
「少しでも気分が悪くなったら、すぐに言ってくださいね」

 母が隣で目を潤ませている。

「まだ式の日じゃないよ」
「一度目を思い出したの」

 鏡の中の白無垢を見る。
 前回と同じ色なのに、今はまるで違う衣装に見えた。
 あの日は、来ない花婿を待つために着た。今度は、自分で選んだ人の隣へ歩いていくために着る。

 襟元へ触れると、指先がわずかに冷えていた。幸せなはずなのに、身体の奥にはまだ、当日にすべてを失った記憶が残っている。
 けれど、その震えを恥じる必要はない。怖さを消してから進むのではなく、怖いと知っている自分ごと連れていく。

 鏡へ映る私は、以前より少し丸く、少し強い顔をしていた。

「九条さんには、当日まで見せないの?」
「見せない。見たら、当日まで待てなくなりそうだから」
「超音波写真も毎晩眺めているんでしょ?」
「寝室の棚に、健診のたび増えてる」

 妊娠は公表せず、会社へ私生活を持ち込もうともしない。
 その代わり、家の寝室には超音波写真の小さな額が並び、朝と夜に必ず眺めている。
 本人は確認しているだけだと言い張っていた。

 母になることと、自分でいることは、対立するものではないのだろう。
 以前は誰かを支えるために、自分の一部を差し出さなければ愛されないと信じていた。
 今は、できない日には助けを求め、できる日は自分の力を使う。
 その積み重ねの方が、無理に完璧な妻や母親を演じるより、ずっと長く続けられる気がした。

 帰宅すると、キッチンで人参を切っていた。大きさは不揃いだが、以前よりずっと細かい。

「上手くなったね」
「毎週作っているからな」
「料理人を雇うって言っていた人が」
「お前と子どもに作れるものが一つくらいあった方がいい」
「カレーしか作れないけど」
「豚汁も練習する」
「それは私が教える」

 玲の頬へ口づける。

「急にするな」
「嫌?」
「手が塞がっている時にされると、続きができない」
「続きは食後」
「本当に?」
「体調がよければ」

 彼の目がわかりやすく明るくなる。素直に人参へ戻る姿がおかしくて笑った。

 夕食後、ソファで式の進行表を確認する。神前式は短めにし、途中で休める部屋を用意する。披露宴も親族と親しい人だけの小規模なものにした。

「社員全員を呼んだら、小規模じゃない」
「二十六人だけだ」
「私の会社の人もいるの」
「呼びたい人は全員呼べ」
「ホテルの大広間に変えようとしてない?」
「神社の会館を広げられないか聞いた」
「勝手に聞く前に相談して」
「聞いただけだ。決めていない」
「微妙に成長している」

 私の膝へ頭を乗せ、お腹へ耳を近づけた。

「動いた」
「今?」
「ああ」

 お腹の内側で、小さく何かが触れる。玲の手をその場所へ移す。もう一度、ぽこんと動く。
 これまでは私だけが知っていた感覚が、玲の掌にも届いた。二人の間にある手の下で、もう一人が確かに存在を主張している。
 その瞬間、家族になるという言葉が、戸籍や式の予定よりも鮮明な形を持った。玲の大きな手へ自分の指を重ねる。

「……すごい」

 玲の声が、子どものように弾む。

「初めてわかった?」
「ああ」
「この子も、式へ出る気まんまんだね」
「俺より目立つな」
「赤ちゃんに張り合わないで」

 式の前夜、玲は新郎側のホテルへ泊まることになった。
 同じ家から出発すると、朝から私の支度を覗きそうだからと。
 離れているのは一晩だけなのに、携帯電話には次々と連絡が届く。

『ホテルに着いた』
『明日の天気は晴れ』
『体調は』
『動いたか』
『逃げるなよ』
『逃げません。早く寝て』
『顔を見るまで信用できない』

 笑いながら画面を閉じる。
 画面が暗くなると、部屋の静けさの中で自分の呼吸だけが聞こえた。

 前回の結婚式の前夜も、同じように明日を待っていた。
 けれどあの時は、相手の言葉を信じるために、小さな違和感をすべて飲み込んでいた。
 今は違う。不安も、体調も、言いたいことも、何度も玲へ伝えてきた。その上で、明日も来ると信じられる。

 明日はきっと、誰より早く待っている。今度は、そのことを疑わずに眠れた。

 二度目の、白無垢に袖を通した。
 鏡の中には、純白の花嫁がいる。以前とは違い、帯の下には小さな命がいる。
 締めつけないよう着付けを調整してもらい、椅子へ座ったまま最後の紅を引いた。

「莉乃、きれいよ」

 母が後ろで涙を拭う。

「前も言っていた」
「今日は、ちゃんと笑っているから」

 鏡へ向かって笑う。
 控室へ入ってから、玲から何度も連絡が届いている。

『会場に着いた』
『新郎控室にいる』
『十五分経ったが、まだいる』
『体調は』
『迎えに行っていいか』

「連絡が多すぎる」
「安心させようとしているのよ」
「玲の方が不安なんだと思う」

 最後のメッセージへ返信する。

『待ってて。今日は私が行く』

 携帯電話を母へ預けた。
 式場は、二人で選んだ小さな神社。春先の澄んだ空気に、木々の匂いが混じる。砂利を踏む音が静かに響き、白無垢の裾が足元を滑った。

 参道の先に、紋付袴姿の彼が立っている。約束どおり、誰より早く待っていた。

 足が一瞬だけ止まりそうになった。
 白無垢の重み、頬へ触れる冷たい風、砂利を踏む音。そのすべてが、以前の記憶を呼び起こす。

 けれど、今度は参道の先に、私を見つけた人の顔がある。
 胸の奥で固くなっていたものがほどけ、私は自分の足で一歩を踏み出した。

 私を見た瞬間、その表情が変わる。

「遅かったな」
「花嫁に最初に言う台詞?」
「一時間前から待っている」
「早すぎ」

 私の手を取り、次にお腹へ目を落とした。

「苦しくないか」
「大丈夫。休憩もした」
「無理なら、今からでも中止する」
「今日は結婚するの」
「なら、ゆっくり歩け」
「花嫁より緊張しているよ」
「するに決まっている」

 まっすぐに見つめられる。

「きれいだ」
「今日はすぐ言えたね」
「練習した」
「誰で?」
「お前以外で練習するわけないだろ」

 列席者の席には、両家の親族とレガリアリンクの社員たち、新しい職場の同僚がいる。宮田はすでに泣いていた。佐伯はカメラを構え、藤原が隣で止めている。

「撮影禁止って言われているでしょう」
「この瞬間だけ」
「公式写真をもらえますよ」

 小声の言い合いが聞こえ、笑いそうになる。
 式が始まった。神前で誓いを交わし、三三九度の盃を重ねる。玲の手は、わずかに震えている。