白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 婚約した翌週、二人で新居へ引っ越した。
 先に契約されかけていたタワーマンションは、私が内見して選び直したあと、正式に二人の家になった。家賃は私が無理なく払える額を毎月入れ、家事代行を週に一度頼み、平日の食事と洗濯はできる方がする。決めるまでに何度も言い合った。

「俺が全部払えば早い」
「早さの問題じゃない」
「産休へ入ったら、負担はやめろ」
「その時に相談する」
「今、相談している」
「まだ何か月も先でしょう」
「早めに決めた方がいい」
「そうやって全部先に決めようとする」

 結局、産休中は私の収入に合わせて見直すことだけ決めた。
 以前なら、きっと押し切られていた。今は不満そうにしながらも、私が頷くまで待つ。

 話し合いは、思っていたより面倒だった。黙って相手へ任せた方が、ずっと早く決まる。
 けれど、その面倒を飛ばした先に、以前の私のような息苦しさが生まれるのだろう。
 言い合いの末に二人で決めた金額が通帳へ記されるたび、この家は九条から与えられた避難場所ではなく、私も選んで暮らす家なのだと感じられた。

 新しい職場では、備品管理の見直しを任された。
 吐き気が強い日は休憩を増やし、通院日は半休を取る。入社早々に迷惑をかけている気がして落ち込むこともあったけれど、総務部長からは毎回同じことを言われた。

「長く働いてもらうための調整です。遠慮しないでください」

 仕事を辞めろとは、一度も言われなかった。ただし、過保護は悪化した。

「階段を使うな」
「二階まででしょう」
「エレベーターがある」
「運動不足になる」
「散歩は俺としろ」
「一人でも歩ける」
「知っている。俺が一緒に歩きたい」

 そう言われると、強く断れない。ある夜、帰宅すると夕食が作られていた。鍋には、少し水分の多いカレーが入っている。

「前より上手くなった」
「一番失敗しにくい料理を選んだ」
「それも成長」
「褒めたなら、今夜は俺の頼みを一つ聞け」
「頼み?」
「玲」
「え……?」

 突然、彼が自分の名前だけを口にしたので、きょとんとしてしまう。

「いい加減、苗字じゃなく名前で呼べ」
「あ……」

 ずっと『九条』と呼んでいたから、あまりにも馴染み過ぎていた。

「どうした」
「いや……いざ、呼ぼうと思うとなんか気恥ずかしくて」
「ふっ。相変わらず、不意打ちで可愛いことを言うんだな」
「……玲」
「もう一度」
「調子に乗らないで」

 腰を抱かれ、耳元へ唇が寄せられる。

「ちょっ……」
「夫婦生活も無理のない範囲で、と言われた」
「先生の言葉を一字一句覚えてるの?」
「嫌なら何もしない」
「嫌とは言っていない」
「なら、今日は俺から急がない。お前と子どものためならな」

 私からキスをすると、彼の腕が嬉しそうに強くなる。
 この日の夜を境に、彼を名前で呼ぶようになった。

 翌日、弁護士から拓也の裁判について連絡が入った。
 会社資金の横領と投資詐欺について、実刑判決が言い渡されたという。損害賠償も、一部資産の差し押さえが認められる見込みになった。

 電話を切っても、胸は想像するほど騒がない。
 判決を聞けば、もっと強い喜びや怒りが込み上げると考えていた。けれど実際に残ったのは、長く閉まらなかった扉が、ようやく音を立てずに閉じたような感覚。
 拓也が罰を受けても、失った時間は戻らない。だからこそ、あの男のその後に私の心を使い続ける必要もない。
 手のひらをお腹へ当てると、今の私が守りたいものは、はっきりしていた。

 帰宅すると、すぐに顔を覗き込まれた。

「聞いたか」
「うん」
「大丈夫か」
「大丈夫。あいつのことより、今日の健診結果の方が大事」

 超音波写真を差し出す。前より少し形がわかるようになった赤ちゃんを見て、玲の表情が変わった。

「こっちが頭か」
「先生はそう言っていた」
「俺に似ている?」
「この大きさでわかるわけないでしょう」
「莉乃に似た方がかわいい」
「性格まで似たら、気が強いよ」
「俺は嬉しい」
「二人に怒鳴られることになるけど」
「それは困る」

 写真を額へ入れ、以前の一枚の隣へ置く。
 拓也の逮捕後、弁護士を通して返却された荷物の中から婚約指輪も戻ってきた。
 それを売却し、式場費用を立て替えてくれた両親への返済に充てた。店を出た時、左手には玲の指輪だけが残った。

 返ってきた指輪を手放す瞬間にも、涙は出なかった。
 惜しいのは宝石ではなく、そこへ託した過去の私の期待だけ。
 けれど、その期待まで否定する必要はない。幸せになろうとしていた自分を、もう愚かだと責めなくていい。冷たい風の中で左手を開くと、新しい指輪だけが冬の光を返した。

「寂しいか」
「全然。空いた場所を、自分で選んだ指輪で埋めたから」

 薬指へ口づけられる。

「式は、いつにする」
「安定期に入って、先生から許可が出たら」
「白無垢は重い」
「でも、着たい」
「そんなに?」
「……あの日の記憶を、上書きしたい……」
「わかった。一緒に場所を探す」

 今度は、九条家のホテルへ任せきりにせず、二人で式場を見て回った。
 最後に選んだのは、緑の多い小さな神社。

 試着室で白無垢へ袖を通すと、鏡の中には以前より少し丸みを帯びた自分がいた。

 白無垢へ袖を通しただけで、胸の奥に残っていた古い痛みが微かに疼く。
 控室で何度も携帯電話を見たこと、時間だけが過ぎていったこと、周囲の視線から逃げるように式場を出たこと。
 身体は覚えている。それでも、鏡の中の私はあの日とは違った。帯の下にいる命へそっと触れ、ゆっくり息を吐く。怖いままでも、進んでいい。

 もう一度、花嫁になる。今度は、一人ではない。