翌日の夜、いつもより早く帰宅した。
濃紺のスーツへ着替え、私が支度をする間、リビングを落ち着きなく歩いている。
「緊張しているの?」
「していない」
「ネクタイ、曲がっている」
結び目を直すと、私の指先へ口づけた。
「今日は仕事の電話に出ないでね」
「電源を切る」
「会社、大丈夫?」
「昨日上場した会社は、社長が一晩いなくても回る」
「成長したね」
「お前に言われたくない」
二人が最初に外で食事をした、隠れ家のイタリア料理店。同じ窓際の席には、あの日と同じ種類の花が飾られていた。
あの時の私は、九条の前で泣き腫らした顔を隠しながら、これから先の暮らしを想像する余裕さえなかった。
彼の差し出す好意も、いつか返さなければならない借りのように受け取っていた。
同じ席へ座っているのに、今は左手の先に彼の指があり、身体の中には二人の子どもがいる。店内に漂う焼きたてのパンの匂いまで、あの日より柔らかく感じられた。
「覚えていたの?」
「店の記録に残っていた」
「情緒がない返事」
「俺も覚えていた」
「最初からそう言って」
料理は、私の体調に合わせて香りの強いものを避けてもらっている。
「お店にも妊娠のことを言ったの?」
「食材の相談だけだ。名前は出していない」
「そこはちゃんとしているんだ」
「本人の同意なく言うなと、昨日自分で記者へ言った」
普段より口数が少ない。何度も内ポケットへ手をやるので、笑ってしまった。
「箱、入っているでしょう」
「一度見たからといって、黙っていられないのか」
「動きがわかりやすすぎるの」
「帰るか」
「逃げるの?」
「逃げない」
水を一口飲んだ。デザートの皿が下げられる。
演奏も花束もない。周囲の客が一斉に振り返る演出もない。向かいへ座ったまま、小さな箱をテーブルへ置いた。
「神崎莉乃」
「はい」
「俺と結婚してほしい」
「それ、決定事項?」
「違う。お願いだ」
見たことのある指輪が、今度は正式な問いとともに差し出される。
「子どもの父親になるだけじゃなく、お前の夫になりたい」
九条の声は、少しだけ震えていた。
その震えが、私の喉の奥まで伝わってくる。いつも何でも決定事項のように告げる人が、答えを待つために黙っている。私が断る可能性を受け入れた上で、それでも隣にいてほしいと願っている。その姿を見ていると、結婚式場から逃げた男と、目の前の九条を比べること自体が、もう違うのだとわかった。
「妊娠したから?」
「違う。お前が妊娠を知るより前に、この指輪を作った。家も探した」
「知っている」
「それでも、言葉で伝える」
息を吐き、まっすぐに私の目を見る。
「お前が自分で俺を選んで、隣にいてほしい」
胸の奥へ、真っすぐ言葉が落ちてきた。
拓也との結婚では、愛されるために仕事を辞め、望まれる妻になろうとした。
あの頃の私は、選んだつもりで、選ばれ続けるために自分を小さくしていたのだと思う。
目の前の人は、私の仕事も、頑固さも、逃げようとした弱さも知った上で、私自身に選んでほしいと言う。
涙が滲んだ。
それは完璧な約束ではない。
けれど、私が欲しかったのは、誰かが用意した完璧な未来ではなく、二人で選び直せる毎日だった。
「また泣かせた」
「今回は許してくれ」
「条件がある」
「聞く」
結婚が怖くなくなったわけではない。また信じて、また裏切られる可能性が消えたわけでもない。
「大事なことは、決める前に相談する」
「ああ」
「喧嘩しても、黙っていなくならない」
「ああ」
「私も、あなたのためって勝手に消えない」
「絶対に守れ」
それでも、怖いと口にした時、この人なら隣で聞いてくれる。九条が勝手に未来を決めかけたら、怒れる。
そして私が一人で消えようとすれば、彼は止めるだろう。
「子どものことも、二人で決める」
「ああ」
「それから、仕事中はちゃんと社長の顔でいて」
迷わず頷いた。
「ああ」
「二人きりになった途端、甘くなるのは?」
「やめる気はない」
「そこは迷わないのね」
「返事は?」
九条が急かす。涙を拭い、左手を差し出した。
「はい。結婚します」
その瞬間、九条の肩から力が抜けた。
「……よかった」
「本当に緊張していたんだ」
「するに決まっている。お前は一度、俺の前から逃げた」
「実家へ帰っただけ」
「同じだ」
私の薬指へ指輪をはめた。ぴたりと収まる。
かつて同じ指にあった指輪は、私を誰かの妻という役割へ押し込める印に変わってしまった。けれど今、重なった九条の指先から伝わるのは、縛られる感覚ではない。自分で差し出した手に、自分で選んだ未来が収まっていく。指輪の重みを確かめるように、ゆっくり指を曲げた。
「サイズ、どうやって測ったの」
「寝ている間」
「それは相談してない!」
「指輪のサイズを聞いたら、驚かせられない」
「線引きが難しいね」
「一生かけて覚える」
立ち上がり、私の隣へ来た。
「キスしていいか」
「そこまで聞くの?」
「今日は確認する日だからな」
「……いいよ」
唇が重なる。店を出たあと、夜の街を手を繋いで歩いた。
「式はどうする」
「白無垢を着たい」
「体調は大丈夫か」
「先生と相談して、無理のない時期にする」
「前と同じ式場は」
「嫌。今度は二人で選ぶ」
「ああ」
私の手を強く握った。
「今度の花婿は、誰より早く待っている」
「遅刻したら?」
「前日から行く」
「早すぎる」
二人で笑い、指輪の光を見つめた。
濃紺のスーツへ着替え、私が支度をする間、リビングを落ち着きなく歩いている。
「緊張しているの?」
「していない」
「ネクタイ、曲がっている」
結び目を直すと、私の指先へ口づけた。
「今日は仕事の電話に出ないでね」
「電源を切る」
「会社、大丈夫?」
「昨日上場した会社は、社長が一晩いなくても回る」
「成長したね」
「お前に言われたくない」
二人が最初に外で食事をした、隠れ家のイタリア料理店。同じ窓際の席には、あの日と同じ種類の花が飾られていた。
あの時の私は、九条の前で泣き腫らした顔を隠しながら、これから先の暮らしを想像する余裕さえなかった。
彼の差し出す好意も、いつか返さなければならない借りのように受け取っていた。
同じ席へ座っているのに、今は左手の先に彼の指があり、身体の中には二人の子どもがいる。店内に漂う焼きたてのパンの匂いまで、あの日より柔らかく感じられた。
「覚えていたの?」
「店の記録に残っていた」
「情緒がない返事」
「俺も覚えていた」
「最初からそう言って」
料理は、私の体調に合わせて香りの強いものを避けてもらっている。
「お店にも妊娠のことを言ったの?」
「食材の相談だけだ。名前は出していない」
「そこはちゃんとしているんだ」
「本人の同意なく言うなと、昨日自分で記者へ言った」
普段より口数が少ない。何度も内ポケットへ手をやるので、笑ってしまった。
「箱、入っているでしょう」
「一度見たからといって、黙っていられないのか」
「動きがわかりやすすぎるの」
「帰るか」
「逃げるの?」
「逃げない」
水を一口飲んだ。デザートの皿が下げられる。
演奏も花束もない。周囲の客が一斉に振り返る演出もない。向かいへ座ったまま、小さな箱をテーブルへ置いた。
「神崎莉乃」
「はい」
「俺と結婚してほしい」
「それ、決定事項?」
「違う。お願いだ」
見たことのある指輪が、今度は正式な問いとともに差し出される。
「子どもの父親になるだけじゃなく、お前の夫になりたい」
九条の声は、少しだけ震えていた。
その震えが、私の喉の奥まで伝わってくる。いつも何でも決定事項のように告げる人が、答えを待つために黙っている。私が断る可能性を受け入れた上で、それでも隣にいてほしいと願っている。その姿を見ていると、結婚式場から逃げた男と、目の前の九条を比べること自体が、もう違うのだとわかった。
「妊娠したから?」
「違う。お前が妊娠を知るより前に、この指輪を作った。家も探した」
「知っている」
「それでも、言葉で伝える」
息を吐き、まっすぐに私の目を見る。
「お前が自分で俺を選んで、隣にいてほしい」
胸の奥へ、真っすぐ言葉が落ちてきた。
拓也との結婚では、愛されるために仕事を辞め、望まれる妻になろうとした。
あの頃の私は、選んだつもりで、選ばれ続けるために自分を小さくしていたのだと思う。
目の前の人は、私の仕事も、頑固さも、逃げようとした弱さも知った上で、私自身に選んでほしいと言う。
涙が滲んだ。
それは完璧な約束ではない。
けれど、私が欲しかったのは、誰かが用意した完璧な未来ではなく、二人で選び直せる毎日だった。
「また泣かせた」
「今回は許してくれ」
「条件がある」
「聞く」
結婚が怖くなくなったわけではない。また信じて、また裏切られる可能性が消えたわけでもない。
「大事なことは、決める前に相談する」
「ああ」
「喧嘩しても、黙っていなくならない」
「ああ」
「私も、あなたのためって勝手に消えない」
「絶対に守れ」
それでも、怖いと口にした時、この人なら隣で聞いてくれる。九条が勝手に未来を決めかけたら、怒れる。
そして私が一人で消えようとすれば、彼は止めるだろう。
「子どものことも、二人で決める」
「ああ」
「それから、仕事中はちゃんと社長の顔でいて」
迷わず頷いた。
「ああ」
「二人きりになった途端、甘くなるのは?」
「やめる気はない」
「そこは迷わないのね」
「返事は?」
九条が急かす。涙を拭い、左手を差し出した。
「はい。結婚します」
その瞬間、九条の肩から力が抜けた。
「……よかった」
「本当に緊張していたんだ」
「するに決まっている。お前は一度、俺の前から逃げた」
「実家へ帰っただけ」
「同じだ」
私の薬指へ指輪をはめた。ぴたりと収まる。
かつて同じ指にあった指輪は、私を誰かの妻という役割へ押し込める印に変わってしまった。けれど今、重なった九条の指先から伝わるのは、縛られる感覚ではない。自分で差し出した手に、自分で選んだ未来が収まっていく。指輪の重みを確かめるように、ゆっくり指を曲げた。
「サイズ、どうやって測ったの」
「寝ている間」
「それは相談してない!」
「指輪のサイズを聞いたら、驚かせられない」
「線引きが難しいね」
「一生かけて覚える」
立ち上がり、私の隣へ来た。
「キスしていいか」
「そこまで聞くの?」
「今日は確認する日だからな」
「……いいよ」
唇が重なる。店を出たあと、夜の街を手を繋いで歩いた。
「式はどうする」
「白無垢を着たい」
「体調は大丈夫か」
「先生と相談して、無理のない時期にする」
「前と同じ式場は」
「嫌。今度は二人で選ぶ」
「ああ」
私の手を強く握った。
「今度の花婿は、誰より早く待っている」
「遅刻したら?」
「前日から行く」
「早すぎる」
二人で笑い、指輪の光を見つめた。



