白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 九条家では、義母が私を抱き締め、義祖父は目を細めた。

「玲、お前は仕事より先に病院へ行ったんだろうな」
「行きました」
「ならいい」
「それだけですか」
「子どもが生まれるのはめでたい。だが、莉乃さんの仕事や暮らしは二人で決めろ。勝手にグループへ囲い込むな」
「もちろんです。産休や育休も、ご自身の会社と相談してください。こちらから口を出すことではありません」

 以前なら反発したかもしれない九条が、素直に頷く。
 周囲が、私の仕事を当然のものとして扱ってくれる。それが嬉しかった。

 結婚したら仕事を手放すものだと、かつては疑いもしなかった。必要とされることと、自分の人生を差し出すことを、同じものだと思い込んでいたのだ。けれど今は違う。九条の隣に立つことも、この子の母親になることも、仕事を続けることも、どれか一つを諦める前提で考えなくていい。その事実が、胸の奥へ静かに根を張っていく。

 帰宅後、九条は超音波写真を小さな額へ入れ、寝室の棚へ置いた。

「早いんじゃない?」
「毎日見る」
「会社へ持っていかないでよ」
「一枚しかないから、写真を撮った」
「もう携帯に入っているの?」
「待受にした」
「何の形かわからないのに」
「俺にはわかる」
「親バカ」
「まだ生まれていない」
「始まっているよ」

 私のお腹へ耳を当てた。

「今は聞こえないでしょう」
「知っている」
「じゃあ、何をしているの」
「挨拶」

 その真剣な横顔に、笑いながら涙が滲んだ。

 結婚式の日に未来を失ったと考えていた私が、今は新しい命の鼓動を隣の人と聞いている。あの日からまだ数か月しか経っていないのに、人生は信じられないほど形を変えた。変わったのは運だけではない。誰かに選ばれるのを待つのではなく、自分で選び、怖い時には怖いと口にすることを覚えた。その隣で、九条も少しずつ人へ頼ることを覚えている。

 明日は、レガリアリンクの上場日。

 レガリアリンクの上場日は、冬の澄んだ朝だった。
 取引所でのセレモニーには、役員と主要社員、家族が招かれている。

 九条の家族と並び、少し離れた場所から壇上を見た。まだ妊娠を公表する時期ではない。服も普段どおりで、お腹の変化は誰にもわからない。
 それでも、壇上へ上がる前に、私の前へ来た。

「体調は」
「大丈夫」
「気持ち悪くなったら、すぐ母へ言え」
「今日は自分の心配をして」
「俺は平気だ」
「顔が固いけど」
「緊張していない」
「昨日、病院では手が震えていた」
「それとこれは別だ」

 九条の母が笑う。

「玲、早く行きなさい。始まるわよ」
「莉乃から離れないでください」
「わかっているから」

 ようやく壇上へ向かった。九条が鐘を鳴らす。拍手が広がった。

 三か月前、会社の口座から金が消え、社員たちは退職を考えていた。自宅兼オフィスには資料が散らばり、九条は眠ることすら忘れていた。

 そこから、ここまで来た。胸が熱くなる。

 正式な社員ではない。それでも、あの混乱の中で電話を取り、資料を作り、眠れない社員たちへ食事を用意した夜を覚えている。画面の向こうの数字ではなく、ここへ至るまでに交わされた声や、疲れ切った顔や、諦めずに残った人たちの背中が次々と浮かんだ。壇上にいる九条だけの成功ではない。彼がそれを誰より理解していることが、誇らしかった。
 セレモニー後の記者会見では、共同代表の不正についても質問が出た。

「今回の上場延期を、どう受け止めていますか」
「経営者として、管理体制の不備を重く受け止めています。同時に、発覚後に残った社員たちが会社を立て直したことを誇りに思います」
「不正を最初に発見したのは、現在の社員ですか」

 会場へ向けたまま、淡々と答えた。

「社内調査の具体的な経緯については、回答を控えます」

 そのまま続ける。

「不正発覚後は、社員、顧問弁護士、監査関係者と連携して対応しました」
「先日報道された、遠藤元代表の元婚約者の方ですか」

 会場が少しざわつく。それでも表情を変えなかった。

「個人の名前や私生活について、本人の同意なく答えるつもりはありません。ただし、遠藤の逃亡以前から関係があったという情報は事実ではありません」
「現在は交際されている?」
「その質問にも回答しません。会社の上場と、社員ではない人間の私生活を混同しないでください」

 きっぱりと線を引いた。私を隠すのではなく、勝手に晒さないための拒絶だった。

 以前の私なら、交際を認めない言葉だけを拾い、自分は恥じられているのではないかと不安になったかもしれない。けれど、今はわかる。九条は私との関係を否定したのではなく、私の人生を会見の材料にしなかったのだ。胸の内側で張り詰めていた糸が、ゆっくり緩んだ。
 会見後、記者たちの視線が残る中、私の前で足を止めた。

「神崎さん、体調は問題ありませんか」
「問題ありません」
「控室までご一緒ください」
「はい」
「こちらです」
「わかりました」

 私へ触れず、スタッフの案内に従って控室へ向かった。扉が閉まり、鍵の音がした途端、強い腕が私を抱き締めた。

「……逃げなかったな」
「逃げないって言ったでしょう」
「わかっていても、顔を見るまで安心できなかった」
「外では神崎さんって呼んだくせに」
「記者の前だったからな」
「ちゃんと公私を分けてる」

 九条の額が私の額へ触れた。

「妊娠は、まだ内緒だからね」
「わかっている。だから外では触れなかった。今は二人きりだ」

 抱く腕へ、少しだけ力を込めた。

「明日の夜、空けておけ」
「何?」
「食事」
「どこで」
「最初に二人で行った店」
「指輪は、もう見ているけど」
「返事はまだ聞いていない」

 九条の目が、私の左手へ落ちる。

「妊娠したからじゃなく、神崎莉乃に聞きたい」

 胸が大きく鳴った。
 結婚という言葉には、まだ薄い痛みがまとわりついている。
 白無垢のまま取り残された光景は、簡単には消えてくれない。それでも、怖さより先に、明日この人の言葉を聞きたいという気持ちが湧いた。
 失敗しない保証が欲しいのではない。失敗しそうな時にも、二人で話し合える相手なのかを、もう知っている。

「明日、逃げないよ」
「知っている。だが、今度はちゃんと確認する」

 私の指先へ口づけた。