「待たないでって言ったよね」
「定時までは待った」
「意味が違う」
「初日はどうだった」
「楽しかった。管理表がぐちゃぐちゃで、直しがいがある」
「楽しそうだな」
「うん」
少し寂しそうにも見えたが、すぐに私のバッグを持った。
「何を買ったの」
「食べられそうなものを宮田に聞いた」
紙袋には、塩味のクラッカー、果物、酸味のあるゼリーが入っていた。
「宮田さんまで巻き込んだの?」
「経験者に聞くのが早い」
「宮田さん、妊娠したことないでしょう」
「妹がいる」
「調査が細かい」
帰宅すると、広報担当から連絡が届いた。
経済誌は、病院で撮影した写真の掲載を見送ったという。弁護士からの抗議と、会社が交際開始時期を記録に基づいて説明したことで、不倫疑惑として扱う根拠がないと判断したらしい。
「私が消えなくても、何も壊れなかった」
画面を見ながら呟く。
「だから、最初から言っただろ」
「うん」
「次に怖くなったら、先に俺へ言え」
「九条も、話をあと回しにしすぎないで」
「ああ」
その時、顧問弁護士から新しいメールが届いた。
由梨へ送った照会に対する回答だった。
『私が記者へ伝えたのは、玲くんが遠藤元代表の婚約者だった女性と同居しているという事実だけです。病院まで尾行するよう依頼した覚えはありません』
文章を読み終えた瞬間、指先が冷えた。
「……由梨さんだったんだ」
画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「私を追い出したかったのかな」
「お前が会社の邪魔だと思い込み、自分から離れると考えたんだろう」
「実際、その通りに動いた」
「由梨が火をつけた。だが、俺たちが話せなかったことまで、あいつのせいにはしない」
顧問弁護士へ電話をかけた。
「回答は書面で返してください。神崎が会社へ騒ぎを持ち込んだのではない。騒ぎを起こしたのは、情報を流した鷹宮さん本人です。今後、神崎にも会社にも直接接触しないよう、改めて通知をお願いします」
通話を切ったあとも、由梨へ自分から電話をかけることはしなかった。
「怒っていないの?」
「怒っている。だから直接話さない」
「前なら、すぐ電話してたかもね」
「お前を守るために、俺が新しい問題を増やしてどうする」
九条の手が、私の頬へ触れる。
「由梨は、お前と別れれば会社を守れると思ったんだろう。だが、恋人を切り捨てなければ守れない会社なら、上場する価値などない」
「そこまで言う?」
「会社も、お前も守ると言った」
胸の奥へ残っていた冷たさが、少しずつほどけていく。
キッチンへ立ち、鍋の蓋を開けた。中には、薄い味の野菜スープが入っている。
「作ったの?」
「レシピどおりだ」
「味見した?」
「した。薄すぎる」
「今は、それくらいがいい」
一口飲む。温かさが、疲れた胃へゆっくり落ちた。
「美味しい」
「本当か」
「うん」
九条の顔が少し緩む。
食後、ソファへ座ると、彼は私の膝へ毛布を掛けた。
「明日の病院、何時だ」
「十時」
「九時に出る」
「早すぎ」
「遅れるよりいい」
九条の手が、まだ平らなお腹へそっと触れる。
「明日は、心臓の音を聞けるかもしれないんだよね」
「ああ」
強気な返事とは裏腹に、指先が少しだけ震えていた。
翌朝、九条は予約時刻の一時間前に玄関へ立っていた。
「早すぎる」
「道が混むかもしれない。産婦人科は混むとも書いてあった」
「電車で二駅でしょう」
「途中で何かあるかもしれない」
「何が」
「わからないから早く出る」
理屈になっていない。それでも、落ち着かないのだとわかるので、黙って靴を履いた。
病院の待合室で、問診票を書く私の手元を何度も覗き込む。
「見ないで」
「俺の欄はないのか」
「緊急連絡先に書いた」
「見せろ」
「どうして」
「本当に俺の番号か確認する」
「他に誰を書くのよ」
「拓也の名前が残っていたら嫌だ」
思わず手を止める。
「消したよ。ずっと前に」
「ならいい」
少しだけ機嫌を直した。診察室へ呼ばれ、二人でモニターを見る。前回より少し大きくなった黒い影の中に、小さな白い塊が映っていた。
「こちらが赤ちゃんです。心拍も確認できますよ」
医師が音を聞かせてくれた。速く、力強い小さな鼓動。九条の手が、私の手を強く握りしめる。
規則正しく響く音が耳へ届いた途端、胸の奥が大きく揺れた。妊娠検査薬の線や、モニターに映る小さな影だけでは、まだどこか現実から離れていた命が、今は確かに私の中で動いている。嬉しいのに、同じくらい怖い。この命を無事に守れるだろうか。母親になれるだろうか。息を詰めた私の手を、九条の掌が痛いほど包んでいた。
「痛い」
「悪い」
力を緩めたが、離しはしなかった。
「順調です。体調に合わせて、普段どおり生活して構いません。無理はしないでくださいね」
九条が質問を始める。
「仕事は続けていいんですか」
「体調が安定していれば問題ありません」
「移動は」
「通常の通勤程度なら」
「夫婦生活は」
「ちょっと!」
私が止めるより先に、医師は慣れた様子で説明した。診察室を出た途端、彼の腕を叩く。
「普通、本人の前で聞く?」
「大事なことだ」
「先生、笑っていたでしょう」
「気のせいだ」
「絶対違う」
口では怒りながらも、胸は温かかった。会計を待つ間、渡された超音波写真を何度も眺めている。
「まだ、何が何だかわからないでしょう」
「ここが頭か」
「先生は、まだ形がはっきりしないって」
「でも、いる」
「うん」
「本当に、いるんだな」
九条の声が掠れた。
その日の夜、両家へ妊娠を報告した。私の両親には、すでに母から聞いていた父が九条へ厳しい目を向ける。
「結婚の話は、妊娠する前から考えていたんだな」
「はい。指輪も新居も、その前から準備していました」
「準備だけして、本人に言ってなかったのよ」
私が付け加える。
「莉乃」
「事実でしょう」
父は一度眉を寄せたあと、九条へ頭を下げた。
「娘が勝手に帰ってきて、迷惑をかけた」
「俺も、話を先延ばしにしました。莉乃だけの責任ではありません」
二人で謝り合う姿がおかしくて、母が笑った。
「定時までは待った」
「意味が違う」
「初日はどうだった」
「楽しかった。管理表がぐちゃぐちゃで、直しがいがある」
「楽しそうだな」
「うん」
少し寂しそうにも見えたが、すぐに私のバッグを持った。
「何を買ったの」
「食べられそうなものを宮田に聞いた」
紙袋には、塩味のクラッカー、果物、酸味のあるゼリーが入っていた。
「宮田さんまで巻き込んだの?」
「経験者に聞くのが早い」
「宮田さん、妊娠したことないでしょう」
「妹がいる」
「調査が細かい」
帰宅すると、広報担当から連絡が届いた。
経済誌は、病院で撮影した写真の掲載を見送ったという。弁護士からの抗議と、会社が交際開始時期を記録に基づいて説明したことで、不倫疑惑として扱う根拠がないと判断したらしい。
「私が消えなくても、何も壊れなかった」
画面を見ながら呟く。
「だから、最初から言っただろ」
「うん」
「次に怖くなったら、先に俺へ言え」
「九条も、話をあと回しにしすぎないで」
「ああ」
その時、顧問弁護士から新しいメールが届いた。
由梨へ送った照会に対する回答だった。
『私が記者へ伝えたのは、玲くんが遠藤元代表の婚約者だった女性と同居しているという事実だけです。病院まで尾行するよう依頼した覚えはありません』
文章を読み終えた瞬間、指先が冷えた。
「……由梨さんだったんだ」
画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「私を追い出したかったのかな」
「お前が会社の邪魔だと思い込み、自分から離れると考えたんだろう」
「実際、その通りに動いた」
「由梨が火をつけた。だが、俺たちが話せなかったことまで、あいつのせいにはしない」
顧問弁護士へ電話をかけた。
「回答は書面で返してください。神崎が会社へ騒ぎを持ち込んだのではない。騒ぎを起こしたのは、情報を流した鷹宮さん本人です。今後、神崎にも会社にも直接接触しないよう、改めて通知をお願いします」
通話を切ったあとも、由梨へ自分から電話をかけることはしなかった。
「怒っていないの?」
「怒っている。だから直接話さない」
「前なら、すぐ電話してたかもね」
「お前を守るために、俺が新しい問題を増やしてどうする」
九条の手が、私の頬へ触れる。
「由梨は、お前と別れれば会社を守れると思ったんだろう。だが、恋人を切り捨てなければ守れない会社なら、上場する価値などない」
「そこまで言う?」
「会社も、お前も守ると言った」
胸の奥へ残っていた冷たさが、少しずつほどけていく。
キッチンへ立ち、鍋の蓋を開けた。中には、薄い味の野菜スープが入っている。
「作ったの?」
「レシピどおりだ」
「味見した?」
「した。薄すぎる」
「今は、それくらいがいい」
一口飲む。温かさが、疲れた胃へゆっくり落ちた。
「美味しい」
「本当か」
「うん」
九条の顔が少し緩む。
食後、ソファへ座ると、彼は私の膝へ毛布を掛けた。
「明日の病院、何時だ」
「十時」
「九時に出る」
「早すぎ」
「遅れるよりいい」
九条の手が、まだ平らなお腹へそっと触れる。
「明日は、心臓の音を聞けるかもしれないんだよね」
「ああ」
強気な返事とは裏腹に、指先が少しだけ震えていた。
翌朝、九条は予約時刻の一時間前に玄関へ立っていた。
「早すぎる」
「道が混むかもしれない。産婦人科は混むとも書いてあった」
「電車で二駅でしょう」
「途中で何かあるかもしれない」
「何が」
「わからないから早く出る」
理屈になっていない。それでも、落ち着かないのだとわかるので、黙って靴を履いた。
病院の待合室で、問診票を書く私の手元を何度も覗き込む。
「見ないで」
「俺の欄はないのか」
「緊急連絡先に書いた」
「見せろ」
「どうして」
「本当に俺の番号か確認する」
「他に誰を書くのよ」
「拓也の名前が残っていたら嫌だ」
思わず手を止める。
「消したよ。ずっと前に」
「ならいい」
少しだけ機嫌を直した。診察室へ呼ばれ、二人でモニターを見る。前回より少し大きくなった黒い影の中に、小さな白い塊が映っていた。
「こちらが赤ちゃんです。心拍も確認できますよ」
医師が音を聞かせてくれた。速く、力強い小さな鼓動。九条の手が、私の手を強く握りしめる。
規則正しく響く音が耳へ届いた途端、胸の奥が大きく揺れた。妊娠検査薬の線や、モニターに映る小さな影だけでは、まだどこか現実から離れていた命が、今は確かに私の中で動いている。嬉しいのに、同じくらい怖い。この命を無事に守れるだろうか。母親になれるだろうか。息を詰めた私の手を、九条の掌が痛いほど包んでいた。
「痛い」
「悪い」
力を緩めたが、離しはしなかった。
「順調です。体調に合わせて、普段どおり生活して構いません。無理はしないでくださいね」
九条が質問を始める。
「仕事は続けていいんですか」
「体調が安定していれば問題ありません」
「移動は」
「通常の通勤程度なら」
「夫婦生活は」
「ちょっと!」
私が止めるより先に、医師は慣れた様子で説明した。診察室を出た途端、彼の腕を叩く。
「普通、本人の前で聞く?」
「大事なことだ」
「先生、笑っていたでしょう」
「気のせいだ」
「絶対違う」
口では怒りながらも、胸は温かかった。会計を待つ間、渡された超音波写真を何度も眺めている。
「まだ、何が何だかわからないでしょう」
「ここが頭か」
「先生は、まだ形がはっきりしないって」
「でも、いる」
「うん」
「本当に、いるんだな」
九条の声が掠れた。
その日の夜、両家へ妊娠を報告した。私の両親には、すでに母から聞いていた父が九条へ厳しい目を向ける。
「結婚の話は、妊娠する前から考えていたんだな」
「はい。指輪も新居も、その前から準備していました」
「準備だけして、本人に言ってなかったのよ」
私が付け加える。
「莉乃」
「事実でしょう」
父は一度眉を寄せたあと、九条へ頭を下げた。
「娘が勝手に帰ってきて、迷惑をかけた」
「俺も、話を先延ばしにしました。莉乃だけの責任ではありません」
二人で謝り合う姿がおかしくて、母が笑った。



