白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 翌朝、九条は約束の時間より二十分早く実家へ来た。

「早い」
「遅れるよりいい」
「まだ支度が終わってないんだけど」
「待つ」

 玄関で本当に待とうとするので、母が居間へ通した。
 鞄を持ち、病院の書類を確認する。昨日より落ち着いて見えたが、視線が何度も私のお腹へ落ちている。

「まだ外から見てもわからないよ」
「知っている」
「じゃあ見ないで」
「無理だ」

 車へ乗ると、九条がシートベルトを確認した。

「自分でできる」
「念のためだ」
「今からそれだと、九か月もたないよ」
「九か月で済むと思っているのか」
「一生心配する気?」
「当然だろ」

 重い。けれど、嫌ではなかった。
 タワーマンションの部屋は、まだ家具のない静かな空間。高層階の窓から街が広がり、遠くに川が光っている。

「普通の家、玄関からリビングまでこんなに歩かなくない?」
「普通の家ではないからな」
「普通の店ではない、の次はそれ?」
「少しずつ慣れろ」

 キッチンは開放感のある広いアイランドキッチン。
 作業台の高さも使いやすい。

「ここを見て、莉乃が喜ぶと思った」
「喜んでいる。でも、先に見せてほしかった」
「悪かった」

 すぐに謝られ、少し驚く。

「……これ、ひょっとして分譲?」

 彼の目線がわざとらしく外を向く。

「ローンは、俺が払うつもりだった」
「それだと、私がまた居候になる」
「なら負担割合を決める。お前の収入と、産休に入ったあとのことも含めて無理のない額に」
「もう産休の計算まで?」

 九条の携帯には、妊娠初期に避ける食べ物、通勤時の注意、会社の制度まで保存されていた。

「検索しすぎ」
「知らないよりいい」
「不安になる情報も多いでしょう」
「だから、医者へ聞く」

 奥には寝室が二つと、小さな書斎が二つある。一方の扉には、仮の付箋が貼られていた。

『莉乃』

 中には大きな窓と造りつけの棚だけで、家具はない。

「何も置いてない」
「勝手に選ぶなと言われると思った」
「学習したね」
「机も椅子も、お前が決めろ」

 隣の部屋は空だった。

「ここは?」
「予備室にするつもりだった」
「子ども部屋?」

 九条が慎重に尋ねる。

「まだ早い」
「そうだな」

 口では頷きながら、もう寸法を測りそうな顔をしている。

「勝手にベビーベッドを買わないでよ」
「一緒に選ぶ」
「服も」
「一緒に」
「病院も」
「次は必ず行く」

 リビングへ戻り、九条が鍵をテーブルへ置いた。

「今日は内見だけだ。気に入らなければ、別の場所を探す」
「本当に断っていい?」
「落ち込むが、怒らない」

 窓の外を見る。駅から雨に濡れずに帰れる。新しい職場にも通いやすい。近くには総合病院と保育園がある。何より、九条が私の意見を待っている。

「ここに住みたい」
「本当に?」
「うん。私と九条と、この子の三人で」

 九条の肩から力が抜けた。背後から抱き締められる。

「触っていいか」
「もう触っているでしょう」
「キス」
「聞く順番が逆」
「駄目か」

 振り返り、自分から唇を重ねた。九条の手が腰へ回る。けれど、深くなる前に止まった。

「病院で聞くまでは、無理をさせない」
「キスくらい平気でしょう」
「その先まで止まれる自信がない」
「正直すぎるなぁ」
「相談しろと言ったのはお前だ」

 二人で笑った。
 午後、会社へ戻り、広報と弁護士から対応方針を聞く。
 交際開始は拓也の逃亡後であり、私の受診や妊娠の有無は私生活に属するため回答しない。病院での撮影には正式に抗議する。

「私がいなくならなくても、対応できたんだね」
「最初から言っている」

 会議が終わり、エレベーターの扉が閉じた途端、九条が私の手を取った。

「お前を隠して会社を守る気はない。会社も、お前も守る」
「欲張り」
「知っている」

 由梨のメッセージも弁護士へ共有した。顔色を変えたが、私が止めると直接連絡はしなかった。
 弁護士からは、今後の接触を禁じる通知とともに、経済誌へ私の氏名や写真を提供した事実がないか、書面で回答を求めることになった。
 その日の夜、九条の部屋へ戻った。ベッドへ入ると、いつものように背後から抱き締められる。違うのは、腹の前へ回された手が、驚くほど慎重なことだった。

「三人だな」
「まだ小さいけどね」
「明日からも、勝手にいなくなるな」
「九条も、勝手に決めないで」
「ああ」

 指を絡める。今度は、同じ未来を二人で選び直した。

 新しい職場での初日は、緊張する暇もないほど忙しかった。

 総務部には七人の社員がいて、入退社手続きと備品管理を担当することになった。規模はレガリアリンクより大きいが、業務の流れは前職と似ている。

「神崎さん、業務委託先では資料管理も担当されていたんですよね」
「問い合わせ記録の整理と、書類の保管場所をまとめる作業を手伝いました」
「来月、オフィス増床があるので、その経験を生かしてもらえそうです」
「はい」

 自分の席、自分の社員証、自分の仕事。

 誰かの婚約者でも、九条の恋人でもない場所で必要とされる感覚が、私には心地よかった。

 妊娠のことは、上司にだけ伝えた。

「体調を最優先にしてください。通院日は調整します」
「入社直後なのに、すみません」
「妊娠は謝ることではありません。できる仕事を一緒に考えましょう」

 その言葉に、肩の力が抜けた。

 九条の会社だけではない。自分が選んだ場所にも、受け止めてくれる人がいる。

 昼休み、携帯電話を見ると、九条からメッセージが五件届いていた。

『着いたか』
『吐き気は』
『昼は食べられそうか』
『返事がないが会議中か』
『迎えに行く』

『仕事中です。連絡多すぎ』

 送信すると、すぐに既読がつく。

『心配だ』
『妊婦になっただけで、急に子どもになったわけじゃない』
『知っている。二人分心配している』

 思わず笑った。

 午後は備品倉庫の確認を任された。棚の番号と管理表が合っていない。初日から腕が鳴る。

 夢中で作業していると、少しだけ気分が悪くなり、休憩室で水を飲んだ。九条へ言えば、今すぐ迎えに来そうだ。けれど、隠せばまた怒られる。

『少し休んでいる。大丈夫だから会社を出ないで』
『場所は』
『私の会社』
『当たり前だ』
『来ないで』
『定時までは待つ』

 定時までは、という部分が信用できない。

 仕事を終えて建物を出ると、案の定、九条が立っていた。スーツ姿で壁へもたれ、手には紙袋を持っている。