「どうして黙って出た」
「メモなら残した」
「別れたいわけではない、と書けば消えていいと思ったのか」
「消えてない。実家にいるってわかるでしょう」
「俺が何を思うか、考えたか」
「あなたのためなの」
言った途端、彼の目が冷たくなる。
「その言葉が嫌いだと、俺に怒ったのは誰だ。お前のために家を用意する。お前のために仕事を決める。そう言って勝手に進めるなと、何度も俺へ言っただろ」
「……だって、今は本当に大事な時期で」
「俺が何を大事にするかまで、お前が決めるのか」
何も返せない。
言われていることは全部正論過ぎる。
「記事になったら、会社が」
「会社は事実を説明する。交際が始まったのは拓也が逃げた後だ。お前が最初の違和感に気づいたことは事実だ。だが、その後は社員も弁護士も監査法人も、全員で対応した。お前一人が会社を背負う理由はない」
「だって……あの記事の通りなんだもん!」
九条の表情が止まった。言ってしまった。
「……何?」
声が、急に低くなる。
逃げたくなった。けれど、母の言葉を思い出す。話さないまま逃げ続ける手伝いはしない。お腹へ手を当てた。
「私、妊娠したの」
しばらく何も言わなかった。
驚いているのか、怒っているのか、表情だけではわからない。
「病院で、確認したのか」
「うん。まだ初期で、次に心拍を確認するって」
「体調は」
「吐き気が少し。出血も痛みもない」
「次の診察はいつだ。俺も行く」
「でも」
「俺が何を優先するかまで、お前が決めるな」
さっきと同じ言葉を、今度は静かに言われる。
私の前へ膝をついた。お腹へ触れようとして、ためらいながら手を止める。
「触っていいか」
頷くと、まだ何も変わって見えない場所へ、彼の大きな手のひらがそっと重なった。
「ここにいるのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ小さくて、実感がないの」
「俺もない」
指がわずかに震えている。
「嬉しくない?」
思わず聞くと、彼が顔を上げた。
「嬉しいに決まっている。嬉しすぎて、何を言えばいいかわからない」
「でも、妊娠を理由に結婚してほしくない」
「理由にしない」
「私が産みたいって言ったから、仕方なく責任を取るのも嫌」
「責任という言葉で片づける気はない」
胸が熱くなる。
立ち上がり、私の両肩へ手を置いた。
「まず聞く。お前はどうしたい」
「産みたい」
「仕事は」
「始めたい。体調を見て、会社とも相談する」
「わかった」
「反対しないの?」
「心配はする。だが、お前が選んだ仕事を、俺が勝手に取り上げるつもりはない」
涙が滲む。
「住む場所は?」
「それも、ちゃんと話したい」
「そのために来た。これは、今日用意したものじゃない」
持っていた革の鞄をテーブルへ置いた。中から、不動産会社の資料と小さな箱を取り出す。
資料には、上場承認より前の日付が印字されている。タワーマンションの内見予約と、まだ署名されていない契約書。小さな箱を開くと、指輪が入っていた。
「……いつから」
「お前が面接を受け始めた頃には、工房へ相談していた。住む場所は、上場が決まった日に一緒に見てほしいと言うつもりだった」
「どうして黙っていたの」
「驚かせたかった。家は勝手に契約しないと決めたが、指輪はいいと思った」
「線引きが甘い」
「知っている。これは、妊娠したから用意した指輪じゃない。子どもができたから、お前と暮らしたいわけでもない」
涙が頬を伝った。彼が私の手を取る。
「上場より前から、俺の未来にはお前がいた」
「ずるい……そんなものを見せたら、私が断れないと思っているでしょう」
「断るかどうかは、お前が決めろ」
「今の、プロポーズじゃないの?」
「違う」
意外な返事。
「今日は、妊娠を理由に返事をさせたくない。上場日が終わったあと、改めて聞く」
「指輪まで見せたのに?」
「お前が、妊娠したから用意したと思わないためだ」
彼らしい。
理屈が多くて、不器用で、それでも私が怖がることだけは避けようとしている。
「次の病院、一緒に来て」
「ああ。今夜は実家で休め。明日迎えに来る」
「勝手に決めた?」
「提案だ。どうしたい」
「……今日は母と話す。明日、一緒に部屋を見に行きたい」
「わかった」
「それから、由梨さんのメッセージも見せる」
「何を言われた」
「今見せたら、運転に影響がありそうだから、今度……」
「今すぐ見せろ」
「嫌。今日は話を終わらせる」
不満そうにしたが、私の額へ口づけるだけで引いた。
帰る前に、もう一度だけ私のお腹へ手を添えた。
「明日、三人で家を見に行こう」
三人。まだ心拍も確認ができていないのに。
なんだかそれが、とても嬉しく思ってしまった。
「メモなら残した」
「別れたいわけではない、と書けば消えていいと思ったのか」
「消えてない。実家にいるってわかるでしょう」
「俺が何を思うか、考えたか」
「あなたのためなの」
言った途端、彼の目が冷たくなる。
「その言葉が嫌いだと、俺に怒ったのは誰だ。お前のために家を用意する。お前のために仕事を決める。そう言って勝手に進めるなと、何度も俺へ言っただろ」
「……だって、今は本当に大事な時期で」
「俺が何を大事にするかまで、お前が決めるのか」
何も返せない。
言われていることは全部正論過ぎる。
「記事になったら、会社が」
「会社は事実を説明する。交際が始まったのは拓也が逃げた後だ。お前が最初の違和感に気づいたことは事実だ。だが、その後は社員も弁護士も監査法人も、全員で対応した。お前一人が会社を背負う理由はない」
「だって……あの記事の通りなんだもん!」
九条の表情が止まった。言ってしまった。
「……何?」
声が、急に低くなる。
逃げたくなった。けれど、母の言葉を思い出す。話さないまま逃げ続ける手伝いはしない。お腹へ手を当てた。
「私、妊娠したの」
しばらく何も言わなかった。
驚いているのか、怒っているのか、表情だけではわからない。
「病院で、確認したのか」
「うん。まだ初期で、次に心拍を確認するって」
「体調は」
「吐き気が少し。出血も痛みもない」
「次の診察はいつだ。俺も行く」
「でも」
「俺が何を優先するかまで、お前が決めるな」
さっきと同じ言葉を、今度は静かに言われる。
私の前へ膝をついた。お腹へ触れようとして、ためらいながら手を止める。
「触っていいか」
頷くと、まだ何も変わって見えない場所へ、彼の大きな手のひらがそっと重なった。
「ここにいるのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ小さくて、実感がないの」
「俺もない」
指がわずかに震えている。
「嬉しくない?」
思わず聞くと、彼が顔を上げた。
「嬉しいに決まっている。嬉しすぎて、何を言えばいいかわからない」
「でも、妊娠を理由に結婚してほしくない」
「理由にしない」
「私が産みたいって言ったから、仕方なく責任を取るのも嫌」
「責任という言葉で片づける気はない」
胸が熱くなる。
立ち上がり、私の両肩へ手を置いた。
「まず聞く。お前はどうしたい」
「産みたい」
「仕事は」
「始めたい。体調を見て、会社とも相談する」
「わかった」
「反対しないの?」
「心配はする。だが、お前が選んだ仕事を、俺が勝手に取り上げるつもりはない」
涙が滲む。
「住む場所は?」
「それも、ちゃんと話したい」
「そのために来た。これは、今日用意したものじゃない」
持っていた革の鞄をテーブルへ置いた。中から、不動産会社の資料と小さな箱を取り出す。
資料には、上場承認より前の日付が印字されている。タワーマンションの内見予約と、まだ署名されていない契約書。小さな箱を開くと、指輪が入っていた。
「……いつから」
「お前が面接を受け始めた頃には、工房へ相談していた。住む場所は、上場が決まった日に一緒に見てほしいと言うつもりだった」
「どうして黙っていたの」
「驚かせたかった。家は勝手に契約しないと決めたが、指輪はいいと思った」
「線引きが甘い」
「知っている。これは、妊娠したから用意した指輪じゃない。子どもができたから、お前と暮らしたいわけでもない」
涙が頬を伝った。彼が私の手を取る。
「上場より前から、俺の未来にはお前がいた」
「ずるい……そんなものを見せたら、私が断れないと思っているでしょう」
「断るかどうかは、お前が決めろ」
「今の、プロポーズじゃないの?」
「違う」
意外な返事。
「今日は、妊娠を理由に返事をさせたくない。上場日が終わったあと、改めて聞く」
「指輪まで見せたのに?」
「お前が、妊娠したから用意したと思わないためだ」
彼らしい。
理屈が多くて、不器用で、それでも私が怖がることだけは避けようとしている。
「次の病院、一緒に来て」
「ああ。今夜は実家で休め。明日迎えに来る」
「勝手に決めた?」
「提案だ。どうしたい」
「……今日は母と話す。明日、一緒に部屋を見に行きたい」
「わかった」
「それから、由梨さんのメッセージも見せる」
「何を言われた」
「今見せたら、運転に影響がありそうだから、今度……」
「今すぐ見せろ」
「嫌。今日は話を終わらせる」
不満そうにしたが、私の額へ口づけるだけで引いた。
帰る前に、もう一度だけ私のお腹へ手を添えた。
「明日、三人で家を見に行こう」
三人。まだ心拍も確認ができていないのに。
なんだかそれが、とても嬉しく思ってしまった。



