白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 産婦人科の待合室には、柔らかな音楽が流れていた。
 膝の上で問診票を押さえる。最終月経、妊娠歴、服用中の薬、配偶者の有無。最後の項目で、ペンが止まった。

 未婚。
 だからといって、この子を望んでいないわけではない。小さく息を吐き、正直に丸をつけた。
 診察室で検査を受け、医師からモニターが示される。

「妊娠しています。まだ初期ですね。こちらが胎嚢です」

 黒い小さな袋のような影。それが、私のお腹の中にいる。

「次回、心拍を確認しましょう。出血や強い腹痛があれば、すぐに連絡してください」
「はい」
「パートナーの方には?」
「今日、話します」

 診察室を出たあと、九条へ電話をかけようとした。しかし、画面には会社からの着信と宮田からのメッセージが並んでいる。

『戻る前に連絡をください。少し確認したいことがあります』

 嫌な予感がした。
 会社へ戻ると、会議室には九条、宮田、広報担当、顧問弁護士が集まっていた。

「どうしたの」

 九条が立ち上がる。

「莉乃。産婦人科に行っていたのか?」
「え……?なんで知って……」

 テーブルの上に、経済誌から届いた問い合わせメールが印刷されていた。

『遠藤拓也被告の元婚約者である女性と、九条代表の交際開始時期について確認したい』
『遠藤氏の逃亡以前から両者に関係があったとの情報は事実か』
『神崎氏が本日、産婦人科を受診する姿を確認した。九条代表との間に子どもを授かった可能性について、見解を求める』

 最後の一文で、血の気が引いた。添付された写真には、病院へ入る私の後ろ姿が写っている。

「どうして……今さっきのことなのに?」
「数日前、匿名の情報提供者から、お前の氏名とパーティで撮られた写真が送られていたらしい。記者はそれをもとに、お前を追っていた」
「匿名って……誰が?」
「今、弁護士が確認している。遠藤との婚約歴だけじゃなく、俺と同じマンションで暮らしていることまで書かれていた」

 九条の声が低い。
 その事実を知る人間は、限られている。背中へ冷たいものが走った。

「記事はまだ出ていない。お前は一般人だ。弁護士から、プライバシー侵害として警告する」
「でも……」
「答える必要はない」

 九条が私の肩へ触れようとする。一歩、下がってしまった。

「莉乃?」
「ごめん。今は、少し考えたい」
「行ったのは産婦人科で間違いないんだな?病院で何を言われた」

 喉まで答えが出かかった。その時、携帯へ通知が入る。由梨からだった。

『さっき記者の知り合いから聞いたんだけど、病院へ行ったの?今の時期に妊娠なんてしてたら、玲くんの上場に水を差しちゃうね』
『私は玲くんの会社へ仕事を持ってこられるけど、神崎さんはまた騒ぎを持ってくるんだ』

 会社へ問い合わせが届いたばかりなのに、なぜ由梨はもう知っているのだろう。
 一瞬だけ疑問が浮かんだ。けれど、妊娠を知られた恐怖の方が大きく、考える余裕なんかない。

 画面を閉じる。九条に見せれば、由梨を厳しく拒絶するだろう。広報も弁護士も対応してくれる。
 わかっている。それでも、胸の中では別の声が響く。彼は何年もかけて、上場へ辿り着いたのに。

 拓也の横領を乗り越え、ようやく承認を得た。その直前に、元共同代表の婚約者との妊娠が報じられたら。事実がどうあれ、面白おかしく書き立てられる。

「今日は実家へ帰る」
「なぜ」

 九条の声が鋭くなる。

「母に話したいことがあるの」
「俺には?」
「今夜、連絡する」
「ここで話せ」
「個人的なことだから」
「全員出す」
「お願い。今は一人で考えさせて」

 じっと私を見つめられ、胸が痛む。

「逃げる気じゃないだろうな」
「別れたいわけじゃない」
「なら、俺も行く」
「今日は来ないで」
「莉乃」
「お願い」

 九条の腕から逃れるように会議室を出た。自室で最低限の荷物を鞄へ詰める。
 妊娠検査薬、病院でもらった書類。
 九条の部屋へ置くメモを書いた。

『上場日が終わるまで、実家へ戻ります。別れたいわけではありません。あなたの邪魔をしたくないだけです』

 書いた瞬間、自分が一番嫌っていた言葉だと気づく。
 あなたのため。それでも、今は他の答えを選べなかった。

 実家へ向かう電車の中で、九条から何度も着信が入る。出られないまま、携帯を握りしめる。
 駅へ着く頃、短いメッセージが届いた。

『今からそっちへ行く』

 実家の玄関を開けた母は、私の顔を見るなり何も聞かずに中へ入れた。

「荷物、これだけ?」
「数日だけだから」
「九条さんと喧嘩したの?」
「……なんで、彼とのこと知っているの」
「気が付かないわけないでしょ。何年母親をやっていると思っているの」
「……喧嘩というか……私が逃げてきた」

 居間のソファへ座り、病院でもらったエコー写真を差し出す。母は資料に目を通し、私の顔へ視線を戻した。

「妊娠したの?」
「うん」
「九条さんは知っている?」
「まだ」
「どうして先に帰ってくるのよ」

 責める声ではない。だからこそ……余計に泣きそうになる。

「上場直前なの。記者に病院へ入るところを撮られて、会社へ問い合わせが来た。拓也の元婚約者と九条が、前から関係していたんじゃないかって」
「だから、あなたがいなくなればいいと思ったの?」
「今だけ。上場が終わるまで」
「お腹の子も一緒に隠すの?」

 言葉を失った。母が隣へ座り、私の手を握る。

「子どもに罪はないでしょう。あなたが産みたいなら、まず父親である九条さんと話しなさい」
「産みたい」

 口にすると、涙が落ちた。

「九条の子だから、嬉しい。でも、妊娠を理由に結婚してほしくない。会社の邪魔にもなりたくない」
「それを決めるのは、あなた一人?」

 自分が九条へ何度も言った言葉。
 大事なことは、決める前に相談して。私が喜ぶかどうかを、あなたが先に決めないで。
 今、自分が同じことをしている。

 インターホンが鳴った。画面には九条が映っている。

「……早すぎない?」
「会社から車なら、こんなものよ。それだけ急いでたってことでしょ」

 母が立ち上がる。

「お父さんが帰る前に、二人で話しなさい。私は買い物へ行ってくるから」
「お母さん」
「逃げる場所は貸す。でも、話さないまま逃げ続ける手伝いはしない」

 玄関の扉が開く。九条はネクタイも結び直さず、髪も乱れていた。私を見つけた瞬間、険しかった顔が少しだけ緩む。

「無事か」
「その前に、会社は?」
「宮田たちへ任せた」
「上場前でしょう」
「俺がいなくても、ある程度は回るようにはしてある」

 九条は私の前へ立った。