言われるままにスマートフォンを店員さんに手渡す。九条は電話の向こうで、相変わらず冷徹に、けれど澱みのない流暢な口調で何かを簡潔に説明したらしい。
あっという間に店員さんの表情は恐縮したものへと変わり、会計は無事に済まされた。
大きな紙袋を抱えて部屋へ戻る途中、画面が激しく明滅する。母からの、実に五回目となる着信だった。
『莉乃……っ!今、どこにいるの!?』
「拓也の部屋よ。九条さんも一緒にいる」
『拓也さんは……拓也さんはどうしたの!?』
「いないわ。荷物も全部消えてた。……会社のお金を何百万も引き抜いて、別の女と海外へ高飛びしたみたい」
電話の向こうで、母がヒュッと息を呑む気配がリアルに伝わってきた。
『女って……一体どういうことなの……?』
「手元に動かぬ証拠があるの。お父さんには、式場の費用を焦って勝手に振り込まないでって伝えて。拓也の実家にもきっちり請求するから。私たちは一円だって払う必要はないわ」
『そんなことより、莉乃、あなた今夜はどうするつもりなの?お願いだから、一度実家へ帰ってきなさい』
「しばらく、この部屋に居座ることにしたから」
『な、何言ってるの!?どうしてそんな見ず知らずの男の人のところに……!』
「私の荷物もここにあるし、あいつを追い詰めるための証拠も集めたいの。九条さんとはもう、話はついているから」
母は当然、狂ったように大反対した。
年頃の独身男性の家に転がり込むことの危険性、会社のオフィスを兼ねた場所へ出入りする不自然さ、そして、何より世間体。
どれもこれも、ぐうの音も出ないほど正論だ。けれど、今の私の耳には何一つ入ってこない。
「世間体なら、今日の結婚式で木っ端微塵に粉砕されたから、もう今さら何も怖くないわよ」
『平気なわけないでしょう!莉乃、あなた今、自分がどれだけ無茶苦茶なことを言っているか……』
「平気じゃないわよ!……平気じゃない。でもね、お母さん。今は泣き崩れるより、怒り狂っている方が、何倍も楽なのよ……っ」
じわりと胸を突き上げてくる痛みを誤魔化すように声を荒げると、母は痛ましい沈黙に沈んだ。
「……ごめんね。式場に残された、参列者の方々の対応を全部押しつけちゃって……」
『……そんなのは、いいのよ。あなたの身が一番心配なんだから……』
「せめてコース料理だけでも、みんなに美味しく食べてもらって。三か月で必ずここを出るから。心配しないで」
『……毎日、朝と夜に必ず連絡しなさい。いいわね?』
「わかった。また連絡するね」
通話を切ると、駅前の喧騒が、急に遠くの出来事のように静まり返って感じられた。
ぽつんと取り残されたような孤独感のなか、重い足取りでマンションの部屋へと戻る。
リビングでは、九条が銀行や弁護士へと、眉間に深い皺を寄せながら立て続けに電話を入れていた。私の姿を認めると、片手で通話を繋いだまま、顎でガラステーブルを指し示す。
そこには、コンビニのビニール袋と、おにぎり、それから冷たいお茶が置かれていた。
――そういえば、朝から緊張のせいで、水一杯すら口にしていなかったことを今さら思い出す。
買ったばかりのラフな部屋着に着替え、髪にがちがちに固められていたピンや飾りを一本ずつ引き抜いた。
鏡の中に映っているのは、ブライダルメイクの白粉が中途半端に残った顔に、安価なTシャツを着た滑稽な女。さっきまで花嫁だった形跡が、ひどく惨めにこびりついている。
自嘲気味に息を吐き出し、リビングへ戻ってコンビニの袋を開けた。おにぎりの包装を無造作に剥く。
「……おい。それ、俺の鮭だぞ」
ようやくすべての通話を終えたらしい九条が、冷ややかな声を上げてこちらを睨んできた。
「おにぎりに名前を書いておかない方が悪いのよ」
「梅を買ったつもりはないんだが」
「私だって、結婚式の当日にコンビニの鮭おにぎりを貪り食う予定じゃなかったわよ」
「…………好きにしろ」
「本当なら今頃、最高級のウェディングコースを優雅に食べていたはずなのに……」
九条は諦めたように、残された梅のおにぎりを手に取った。酷く疲れ切った顔をしている。おそらく、今の私も鏡を見るまでもなく、全く同じ顔をしているのだろう。
「それで……会社の口座はどうなってたの?」
「追加の送金は全てロックした。明日、銀行の窓口が開くと同時に正式な手続きを取る。顧問弁護士との面談も明日の午後にねじ込んだ」
「警察には行かないの?」
「あいつの横領の証拠を完全に揃えてから告訴する。今の段階で下手に警察を動かして騒ぎになれば、勘づいた拓也に逃げ道を与えることになる」
「もう南国へ高飛びしてるけどね」
「帰国した瞬間、言い逃れの余地もない状態で確実に追い詰める」
九条の淡々とした、けれど低く地を這うような声の底には、信じていた親友にビジネスもろとも裏切られた激しい怒りが、どす黒く渦巻いているのが分かった。
鮭おにぎりを咀嚼しながら、そんな彼の横顔をじっと見つめる。
「……さっきの最低な発言、私、まだ一ミリも許してないからね」
「分かっている」
「でも。あなたも相当きつい状況なんだってことは、理解したわ」
「お前にしては珍しく、俺を慰めているのか?」
「違うわよ。あなたの会社の被害総額を知って、ほんのちょっぴりだけ、同情の余地が生まれただけ」
「本当に、かわいくない女だな」
「ベッドも、仕事も、住む家も、たった一日で全てを失った女に、これ以上のかわいげなんて求めないで」
九条はそれ以上、何も言い返さなかった。
その夜、かつて拓也が使っていたという寝室へと足を踏み入れた。空っぽになったクローゼットの棚に、今日買ったばかりの数少ない衣類を並べていく。
ベッドだけはそのまま残されていたが、部屋の中にはもう、拓也の香水の匂いなんて微塵も残っていなかった。
ふと、枕元のシーツの隙間に、キラリと光る見慣れないものが落ちているのに気づく。
拾い上げてみると、それは小粒の赤い石があしらわれた、華奢な女物のピアスだった。
私のものではない。
それをそっとティッシュに包み、リビングで書類を睨んでいた九条の前へと突きつけた。
「これ……私のじゃないわよ」
九条は怪訝そうにそれを受け取り、一瞬でその瞳を鋭く尖らせた。
「……相沢が以前、社内で同じものを着けていた記憶がある」
「へえ。結婚前、ここに私以外の女を連れ込んでいたわけね」
胸の奥が、鋭利な刃物で抉られたように鈍く痛む。けれど、不思議と涙はやっぱり一滴も流れてこなかった。悲しみはとっくに枯れ果てて、ただ復讐の炎だけが静かに燃え盛る。
あっという間に店員さんの表情は恐縮したものへと変わり、会計は無事に済まされた。
大きな紙袋を抱えて部屋へ戻る途中、画面が激しく明滅する。母からの、実に五回目となる着信だった。
『莉乃……っ!今、どこにいるの!?』
「拓也の部屋よ。九条さんも一緒にいる」
『拓也さんは……拓也さんはどうしたの!?』
「いないわ。荷物も全部消えてた。……会社のお金を何百万も引き抜いて、別の女と海外へ高飛びしたみたい」
電話の向こうで、母がヒュッと息を呑む気配がリアルに伝わってきた。
『女って……一体どういうことなの……?』
「手元に動かぬ証拠があるの。お父さんには、式場の費用を焦って勝手に振り込まないでって伝えて。拓也の実家にもきっちり請求するから。私たちは一円だって払う必要はないわ」
『そんなことより、莉乃、あなた今夜はどうするつもりなの?お願いだから、一度実家へ帰ってきなさい』
「しばらく、この部屋に居座ることにしたから」
『な、何言ってるの!?どうしてそんな見ず知らずの男の人のところに……!』
「私の荷物もここにあるし、あいつを追い詰めるための証拠も集めたいの。九条さんとはもう、話はついているから」
母は当然、狂ったように大反対した。
年頃の独身男性の家に転がり込むことの危険性、会社のオフィスを兼ねた場所へ出入りする不自然さ、そして、何より世間体。
どれもこれも、ぐうの音も出ないほど正論だ。けれど、今の私の耳には何一つ入ってこない。
「世間体なら、今日の結婚式で木っ端微塵に粉砕されたから、もう今さら何も怖くないわよ」
『平気なわけないでしょう!莉乃、あなた今、自分がどれだけ無茶苦茶なことを言っているか……』
「平気じゃないわよ!……平気じゃない。でもね、お母さん。今は泣き崩れるより、怒り狂っている方が、何倍も楽なのよ……っ」
じわりと胸を突き上げてくる痛みを誤魔化すように声を荒げると、母は痛ましい沈黙に沈んだ。
「……ごめんね。式場に残された、参列者の方々の対応を全部押しつけちゃって……」
『……そんなのは、いいのよ。あなたの身が一番心配なんだから……』
「せめてコース料理だけでも、みんなに美味しく食べてもらって。三か月で必ずここを出るから。心配しないで」
『……毎日、朝と夜に必ず連絡しなさい。いいわね?』
「わかった。また連絡するね」
通話を切ると、駅前の喧騒が、急に遠くの出来事のように静まり返って感じられた。
ぽつんと取り残されたような孤独感のなか、重い足取りでマンションの部屋へと戻る。
リビングでは、九条が銀行や弁護士へと、眉間に深い皺を寄せながら立て続けに電話を入れていた。私の姿を認めると、片手で通話を繋いだまま、顎でガラステーブルを指し示す。
そこには、コンビニのビニール袋と、おにぎり、それから冷たいお茶が置かれていた。
――そういえば、朝から緊張のせいで、水一杯すら口にしていなかったことを今さら思い出す。
買ったばかりのラフな部屋着に着替え、髪にがちがちに固められていたピンや飾りを一本ずつ引き抜いた。
鏡の中に映っているのは、ブライダルメイクの白粉が中途半端に残った顔に、安価なTシャツを着た滑稽な女。さっきまで花嫁だった形跡が、ひどく惨めにこびりついている。
自嘲気味に息を吐き出し、リビングへ戻ってコンビニの袋を開けた。おにぎりの包装を無造作に剥く。
「……おい。それ、俺の鮭だぞ」
ようやくすべての通話を終えたらしい九条が、冷ややかな声を上げてこちらを睨んできた。
「おにぎりに名前を書いておかない方が悪いのよ」
「梅を買ったつもりはないんだが」
「私だって、結婚式の当日にコンビニの鮭おにぎりを貪り食う予定じゃなかったわよ」
「…………好きにしろ」
「本当なら今頃、最高級のウェディングコースを優雅に食べていたはずなのに……」
九条は諦めたように、残された梅のおにぎりを手に取った。酷く疲れ切った顔をしている。おそらく、今の私も鏡を見るまでもなく、全く同じ顔をしているのだろう。
「それで……会社の口座はどうなってたの?」
「追加の送金は全てロックした。明日、銀行の窓口が開くと同時に正式な手続きを取る。顧問弁護士との面談も明日の午後にねじ込んだ」
「警察には行かないの?」
「あいつの横領の証拠を完全に揃えてから告訴する。今の段階で下手に警察を動かして騒ぎになれば、勘づいた拓也に逃げ道を与えることになる」
「もう南国へ高飛びしてるけどね」
「帰国した瞬間、言い逃れの余地もない状態で確実に追い詰める」
九条の淡々とした、けれど低く地を這うような声の底には、信じていた親友にビジネスもろとも裏切られた激しい怒りが、どす黒く渦巻いているのが分かった。
鮭おにぎりを咀嚼しながら、そんな彼の横顔をじっと見つめる。
「……さっきの最低な発言、私、まだ一ミリも許してないからね」
「分かっている」
「でも。あなたも相当きつい状況なんだってことは、理解したわ」
「お前にしては珍しく、俺を慰めているのか?」
「違うわよ。あなたの会社の被害総額を知って、ほんのちょっぴりだけ、同情の余地が生まれただけ」
「本当に、かわいくない女だな」
「ベッドも、仕事も、住む家も、たった一日で全てを失った女に、これ以上のかわいげなんて求めないで」
九条はそれ以上、何も言い返さなかった。
その夜、かつて拓也が使っていたという寝室へと足を踏み入れた。空っぽになったクローゼットの棚に、今日買ったばかりの数少ない衣類を並べていく。
ベッドだけはそのまま残されていたが、部屋の中にはもう、拓也の香水の匂いなんて微塵も残っていなかった。
ふと、枕元のシーツの隙間に、キラリと光る見慣れないものが落ちているのに気づく。
拾い上げてみると、それは小粒の赤い石があしらわれた、華奢な女物のピアスだった。
私のものではない。
それをそっとティッシュに包み、リビングで書類を睨んでいた九条の前へと突きつけた。
「これ……私のじゃないわよ」
九条は怪訝そうにそれを受け取り、一瞬でその瞳を鋭く尖らせた。
「……相沢が以前、社内で同じものを着けていた記憶がある」
「へえ。結婚前、ここに私以外の女を連れ込んでいたわけね」
胸の奥が、鋭利な刃物で抉られたように鈍く痛む。けれど、不思議と涙はやっぱり一滴も流れてこなかった。悲しみはとっくに枯れ果てて、ただ復讐の炎だけが静かに燃え盛る。



