「怒ってる?」
途端に、声がやわらかくなる。
「別に」
「返事が短い」
「元カノが、あんなに可愛い人だなんて聞いてない」
口にした直後、しまったと思った。
九条の目が見開かれ、すぐに口元が緩む。
「嬉しそうな顔しないで」
「嬉しいからな」
「元カノに会って?」
「お前が嫉妬したことが」
「してない」
「では、なぜ機嫌が悪い」
「玲くんって呼ばれてた」
九条が一度瞬く。
「そこも?」
「気にしてない」
「俺は何も言ってない」
「顔が笑ってる!」
腹が立って、九条のネクタイを掴んだ。
笑いを止めさせるつもりで、自分から唇を重ねる。一度だけで離れるはずが、腰へ回った腕に引き戻された。
「元カノにも、こんなことしたの?」
「してない」
「嘘」
「あいつとは、キスをしても何も思わなかった」
「最低な言い方」
「お前には、止めるのが難しい」
もう一度、唇が触れる。
「そんなに俺のことが好き?」
「言うわけないでしょ」
「言えよ」
「嫌」
逃げようとしても、腰を抱く腕が離れない。
「嫌なら押し返せ」
「そういう聞き方、ずるい」
「知っている」
深く口づけられ、呼吸が乱れる。掴んでいたネクタイを手放せない。
「俺のこと、好き?」
「……好きよ。悪い?」
九条の目が、少年みたいに明るくなった。
「全然。もう一度」
「一回で満足して」
「無理だ。俺ばかり言っている気がしていた」
「そんなわけないでしょう」
「なら、もう一度」
「言わない」
「今夜なら言う?」
「言わない」
「顔は違うと言っている」
「私の顔に台詞をつけないで」
笑い、私の額へ唇を押し当てた。
「俺の方が好きだ。由梨と比べる必要もない。お前が何も持っていなくても、俺が欲しいのは莉乃だけだ」
胸の奥に残っていた棘が、ようやく抜ける。
「……それ、あの人にも言えばよかったのに」
「どうして」
「もっと早く帰ったでしょう」
「お前にだけ言いたかった」
また、ずるいことを言う。
九条の肩へ額を預けると、背中へ腕が回った。
「嫉妬したお前は、かわいいな」
「殴るわよ」
「ベッドでは、あんなに素直なのに」
「それを言ったら、今日は自分の部屋で寝る」
「謝る。だから一緒に寝ろ」
謝罪の顔には見えない。それでも、腕を振りほどく気にはなれなかった。
元カノ騒動の翌朝、枕元には九条の字で短いメモが残されていた。
『昨夜は悪かった。今日こそ、住む場所の話をする』
悪かったのは、元カノへ容赦がなかったことなのか、私へ「好き」と言わせ続けたことなのか。たぶん、どちらでもない。
九条は先に下の階へ行ったらしく、寝室には私一人。
起き上がった瞬間、胃の奥がせり上がるような感覚に襲われる。
口元を押さえ、お手洗いへ駆け込んだ。
何も出ない。
冷たい床へ手をつき、荒い息を繰り返す。
昨日は夕食も普通に摂れたのに。
バッグの底に入れたままの箱を思い出す。
妊娠検査薬。
予定日から、もう十日以上過ぎている。
「……使うしかないか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
説明書は、もう何度も読んだ。判定を待つ数分がこんなに長いなんて知らなかった。
スマホの時計の針を見つめる。自分の呼吸と、階下からかすかに聞こえる社員たちの声だけが耳へ届く。
一本目の線が浮かんだ。
続いて、もう一本。
手が震えた。
陽性。
検査薬を持ったまま、床へ座り込む。
嬉しい。
最初に浮かんだのは、その気持ちだった。
怖さもある。仕事を始める前で、九条の会社は上場を控えている。私たちはまだ結婚の約束もしていない。
それでも、お腹へ手を当てると、胸の内側が熱くなった。
九条との子ども。
産みたい。
その答えだけは、迷わなかった。
お手洗いの扉を叩く音がする。
「莉乃?」
「何」
「十分以上入っている。具合が悪いのか」
九条が上がってきたらしい。
「少し気持ち悪かっただけ。もう平気」
「開けろ」
「今、着替えてる」
嘘をつき、検査薬をタオルへ包む。
「五分待って」
「三分」
「どうして短くなるのよ」
「顔を見るまで信用できない」
いつものやり取りなのに、声が詰まりそうになる。
九条へ言わなければ。
今すぐ扉を開けて、二本の線を見せたい。
けれど、今日は朝から証券会社との最終打ち合わせがある。社員たちも集まり、上場日に向けた準備をしている。
時間を選びたいだけだ。
隠すつもりはない。
そう自分へ言い聞かせ、検査薬をバッグへ押し込む。
扉を開けると、九条が本当に待っていた。
私の額へ手を当て、顔を覗き込む。
「熱はない」
「だから平気だって」
「朝飯は」
「今はいい」
「何か食え」
九条の眉が寄る。
「これから、病院の予約取る」
「これから?」
その一言に、九条の目が止まった。
心臓が大きく鳴る。
「俺も行く」
「今日は会議でしょう」
九条は納得していない顔をしたが、携帯電話が鳴り、下から宮田にも呼ばれた。
「終わったら連絡しろ」
「うん」
「住む場所の話も、今夜する」
「わかった」
額へ口づけられる。
九条が下へ戻ったあと、産婦人科へ電話をかけた。午後に一枠だけ空きがあるという。
予約名を告げ、通話を切る。
バッグの中では、二本の線が消えずに残っている。
今夜、九条の未来へ、もう一人分の話を加えることになる。
途端に、声がやわらかくなる。
「別に」
「返事が短い」
「元カノが、あんなに可愛い人だなんて聞いてない」
口にした直後、しまったと思った。
九条の目が見開かれ、すぐに口元が緩む。
「嬉しそうな顔しないで」
「嬉しいからな」
「元カノに会って?」
「お前が嫉妬したことが」
「してない」
「では、なぜ機嫌が悪い」
「玲くんって呼ばれてた」
九条が一度瞬く。
「そこも?」
「気にしてない」
「俺は何も言ってない」
「顔が笑ってる!」
腹が立って、九条のネクタイを掴んだ。
笑いを止めさせるつもりで、自分から唇を重ねる。一度だけで離れるはずが、腰へ回った腕に引き戻された。
「元カノにも、こんなことしたの?」
「してない」
「嘘」
「あいつとは、キスをしても何も思わなかった」
「最低な言い方」
「お前には、止めるのが難しい」
もう一度、唇が触れる。
「そんなに俺のことが好き?」
「言うわけないでしょ」
「言えよ」
「嫌」
逃げようとしても、腰を抱く腕が離れない。
「嫌なら押し返せ」
「そういう聞き方、ずるい」
「知っている」
深く口づけられ、呼吸が乱れる。掴んでいたネクタイを手放せない。
「俺のこと、好き?」
「……好きよ。悪い?」
九条の目が、少年みたいに明るくなった。
「全然。もう一度」
「一回で満足して」
「無理だ。俺ばかり言っている気がしていた」
「そんなわけないでしょう」
「なら、もう一度」
「言わない」
「今夜なら言う?」
「言わない」
「顔は違うと言っている」
「私の顔に台詞をつけないで」
笑い、私の額へ唇を押し当てた。
「俺の方が好きだ。由梨と比べる必要もない。お前が何も持っていなくても、俺が欲しいのは莉乃だけだ」
胸の奥に残っていた棘が、ようやく抜ける。
「……それ、あの人にも言えばよかったのに」
「どうして」
「もっと早く帰ったでしょう」
「お前にだけ言いたかった」
また、ずるいことを言う。
九条の肩へ額を預けると、背中へ腕が回った。
「嫉妬したお前は、かわいいな」
「殴るわよ」
「ベッドでは、あんなに素直なのに」
「それを言ったら、今日は自分の部屋で寝る」
「謝る。だから一緒に寝ろ」
謝罪の顔には見えない。それでも、腕を振りほどく気にはなれなかった。
元カノ騒動の翌朝、枕元には九条の字で短いメモが残されていた。
『昨夜は悪かった。今日こそ、住む場所の話をする』
悪かったのは、元カノへ容赦がなかったことなのか、私へ「好き」と言わせ続けたことなのか。たぶん、どちらでもない。
九条は先に下の階へ行ったらしく、寝室には私一人。
起き上がった瞬間、胃の奥がせり上がるような感覚に襲われる。
口元を押さえ、お手洗いへ駆け込んだ。
何も出ない。
冷たい床へ手をつき、荒い息を繰り返す。
昨日は夕食も普通に摂れたのに。
バッグの底に入れたままの箱を思い出す。
妊娠検査薬。
予定日から、もう十日以上過ぎている。
「……使うしかないか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
説明書は、もう何度も読んだ。判定を待つ数分がこんなに長いなんて知らなかった。
スマホの時計の針を見つめる。自分の呼吸と、階下からかすかに聞こえる社員たちの声だけが耳へ届く。
一本目の線が浮かんだ。
続いて、もう一本。
手が震えた。
陽性。
検査薬を持ったまま、床へ座り込む。
嬉しい。
最初に浮かんだのは、その気持ちだった。
怖さもある。仕事を始める前で、九条の会社は上場を控えている。私たちはまだ結婚の約束もしていない。
それでも、お腹へ手を当てると、胸の内側が熱くなった。
九条との子ども。
産みたい。
その答えだけは、迷わなかった。
お手洗いの扉を叩く音がする。
「莉乃?」
「何」
「十分以上入っている。具合が悪いのか」
九条が上がってきたらしい。
「少し気持ち悪かっただけ。もう平気」
「開けろ」
「今、着替えてる」
嘘をつき、検査薬をタオルへ包む。
「五分待って」
「三分」
「どうして短くなるのよ」
「顔を見るまで信用できない」
いつものやり取りなのに、声が詰まりそうになる。
九条へ言わなければ。
今すぐ扉を開けて、二本の線を見せたい。
けれど、今日は朝から証券会社との最終打ち合わせがある。社員たちも集まり、上場日に向けた準備をしている。
時間を選びたいだけだ。
隠すつもりはない。
そう自分へ言い聞かせ、検査薬をバッグへ押し込む。
扉を開けると、九条が本当に待っていた。
私の額へ手を当て、顔を覗き込む。
「熱はない」
「だから平気だって」
「朝飯は」
「今はいい」
「何か食え」
九条の眉が寄る。
「これから、病院の予約取る」
「これから?」
その一言に、九条の目が止まった。
心臓が大きく鳴る。
「俺も行く」
「今日は会議でしょう」
九条は納得していない顔をしたが、携帯電話が鳴り、下から宮田にも呼ばれた。
「終わったら連絡しろ」
「うん」
「住む場所の話も、今夜する」
「わかった」
額へ口づけられる。
九条が下へ戻ったあと、産婦人科へ電話をかけた。午後に一枠だけ空きがあるという。
予約名を告げ、通話を切る。
バッグの中では、二本の線が消えずに残っている。
今夜、九条の未来へ、もう一人分の話を加えることになる。



