上場承認のニュースが出た翌日、オフィスには祝いの花が次々と届いた。
受付脇では置ききれず、廊下まで花屋のように溢れている。
「これ、全部新オフィスへ運ぶの?」
「枯れる前に写真を撮って、希望する社員へ分ける」
「お祝いなのに、もう処分の話?」
「花を眺めていても仕事は終わらない」
「情緒がない」
昼前、受付のインターホンが鳴った。
『九条さんに、お祝いをお持ちした方がいらしています』
画面を確認した宮田が、困惑したように私を見る。
「お約束はないそうです。鷹宮由梨様とおっしゃっていますけど」
九条の手が止まった。
「誰?」
「昔、付き合っていた女性だ」
「……元カノ?」
尋ねた私を見て、九条はほんの一拍だけ沈黙する。
「親に紹介されて、半年くらいだ。とっくに終わっている」
「その人のこと、詳しく聞いてない」
「聞かれていない」
「昨日、その言い訳はやめるって話をしたばかりでしょう」
「元恋人を一人ずつ報告する必要があるのか」
「一人ずつ、って何人いるのよ」
「そこを気にするのか」
九条の口元がわずかに緩む。
「気にしてない。受付で待たせるのも悪いでしょう。早く行けば」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「その顔で?」
腹が立つ。自分でも、何に対してなのかわからないことが、もっと腹立たしい。
九条が受付へ向かった数分後、柔らかな声が廊下から響いた。
「玲くん、本当に久しぶり。ニュースを見て、びっくりしちゃった!」
現れた女性は、淡い桜色のワンピースを着ていた。艶のある髪をゆるく巻き、華奢なバッグを両手に抱えている。笑うと目尻が下がる、守ってあげたくなるような人だった。
可愛い。悔しいけれど、最初に浮かんだのはそれだった。
「連絡をくれれば、受付で渡せるようにした」
「直接お祝いを言いたかったの。これ、私からのお祝い」
由梨は白と淡いピンクの薔薇でまとめられた小ぶりの花束を差し出した。九条は受け取ったが、その表情は仕事相手へ向けるものと変わらない。
そのことに少し安心し、安心した自分にまた腹が立った。
「こちらは?」
由梨の視線が私へ向く。九条が答えるより先に、口を開いた。
「神崎莉乃です。業務委託で、総務まわりを手伝っています」
「そうなんですね。玲くんって昔から、困っている人を放っておけないものね」
笑顔のまま放たれた言葉が、胸へ小さく刺さる。
「困っていたのは、どちらかといえば俺の方だ」
「へえ。玲くんが誰かを頼るなんて、珍しい~」
九条の訂正に、由梨は驚いたように目を丸くする。けれど、彼女の視線はすぐに私へ戻った。
「私、鷹宮ブライダルホールディングスの役員をしている父から、玲くんを紹介されたんです。レガリアリンクがまだ小さかった頃に」
「余計な説明はいい」
「神崎さんが知らないみたいだったから」
由梨は小首を傾げた。
「玲くん、昔は本当に仕事ばかりで。デート中もパソコンを開くし、会社のためなら何日も寝ないし。私の父も、先が見えないベンチャーとの交際は心配していたんです」
「それで別れたの?」
聞くつもりのない言葉が、勝手にこぼれていた。
「お互い、合わなかったんです。私も、もっと安定した人の方がいいのかなって」
「そうだなと言ったら、連絡が来なくなった」
九条の補足に、由梨の笑顔がわずかに固まる。
「玲くん、昔から言い方が冷たい。私は、少しくらい引き止めてくれると思っていたのに」
「合わないという意見に同意しただけだ」
「そういうところ」
由梨は困ったように笑い、再び私を見つめた。
「でも、今の玲くんなら、私にも釣り合うかなって思うんだけどな」
「今の九条なら?」
「上場承認が下りた会社の社長でしょう?父の会社とも、きっといい提携ができるし。私なら、玲くんの仕事にも役立てると思うの」
柔らかな声のまま、言葉だけが鋭くなる。
「神崎さんは、玲くんに何をしてあげられるんですか?」
「由梨」
九条の声が低く響く。
喉が詰まった。私がしてきた仕事は、鷹宮家の資金力や提携に比べれば小さい。今も九条の部屋に居候し、彼が用意する未来を待っているだけだ。
「神崎さんと少しお話ししたいだけ。玲くんを責めてないよ?」
「彼女を値踏みするために来たなら、帰れ」
「そんなに怒らないで。私、確かめたいだけ」
由梨は目を伏せ、すぐに笑顔を戻すと、九条の腕へ白い指を添えた。
「玲くん。私たち、もう一度やり直せると思わない?」
「思わない」
九条の返事は、由梨が言い終えるのとほとんど同時だった。
「そんな即答しなくてもよくない?」
「考える余地がありません」
九条の声も表情も、取引先へ対応する時と変わらない。
「今なら昔とは違うでしょう? 私も父の会社で仕事をしてるし、玲くんの会社へ大きな案件を持ってこられる。お互いに得があると思うの」
「会社の利益と、私生活を交換する気はありません」
「でも、神崎さんは玲くんの会社を選ばなかった人でしょう?」
由梨の視線が私へ向く。
「私は彼のためになれる。神崎さんは、玲くんへ何をしてあげられるんですか?」
胸へ小さな棘が刺さった。
私へ触れなかった。代わりに、由梨との間へ明確な線を引くように一歩前へ出る。
「神崎さんがどこで働くかは、本人が決めることです」
「でも――」
「神崎さんが俺に何をしてくれるかを、あなたが問いただす立場ではありません。仕事も私生活も、本人が決めることです」
冷静な声が、オフィスへ響いた。
「昔の私には、そこまで言ってくれなかったよね」
「私生活の話を、社員の前でするつもりはありません」
「復縁する気がないってこと?」
「ありません」
迷いのない一言だった。
「今後、来社する場合は正式にアポイントを取ってください。神崎さんへの失礼な言動も、無断で私へ接触することも認めません」
由梨の笑顔が固まる。
「玲くん、本当に変わったね」
「業務上の用件がないなら、お帰りください」
由梨は何か言い返しかけたが、周囲の社員の視線に気づいたのか、バッグを抱え直した。
「わかった。今日は帰るね」
「宮田、エントランスまで案内を」
エレベーターの扉が閉まるまで、九条は一度も追わなかった。
「見世物じゃない。仕事に戻れ」
その一言で、止まっていたキーボードの音が一斉に戻る。
私も席へ戻ろうとすると、九条が仕事の声で呼び止めた。
「神崎さん。少し、上で話せますか」
「……わかりました」
九条は先に扉を開けた。社員の前では、指一本私へ触れない。
上階のリビングへ入り、重い扉が閉じた。
受付脇では置ききれず、廊下まで花屋のように溢れている。
「これ、全部新オフィスへ運ぶの?」
「枯れる前に写真を撮って、希望する社員へ分ける」
「お祝いなのに、もう処分の話?」
「花を眺めていても仕事は終わらない」
「情緒がない」
昼前、受付のインターホンが鳴った。
『九条さんに、お祝いをお持ちした方がいらしています』
画面を確認した宮田が、困惑したように私を見る。
「お約束はないそうです。鷹宮由梨様とおっしゃっていますけど」
九条の手が止まった。
「誰?」
「昔、付き合っていた女性だ」
「……元カノ?」
尋ねた私を見て、九条はほんの一拍だけ沈黙する。
「親に紹介されて、半年くらいだ。とっくに終わっている」
「その人のこと、詳しく聞いてない」
「聞かれていない」
「昨日、その言い訳はやめるって話をしたばかりでしょう」
「元恋人を一人ずつ報告する必要があるのか」
「一人ずつ、って何人いるのよ」
「そこを気にするのか」
九条の口元がわずかに緩む。
「気にしてない。受付で待たせるのも悪いでしょう。早く行けば」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「その顔で?」
腹が立つ。自分でも、何に対してなのかわからないことが、もっと腹立たしい。
九条が受付へ向かった数分後、柔らかな声が廊下から響いた。
「玲くん、本当に久しぶり。ニュースを見て、びっくりしちゃった!」
現れた女性は、淡い桜色のワンピースを着ていた。艶のある髪をゆるく巻き、華奢なバッグを両手に抱えている。笑うと目尻が下がる、守ってあげたくなるような人だった。
可愛い。悔しいけれど、最初に浮かんだのはそれだった。
「連絡をくれれば、受付で渡せるようにした」
「直接お祝いを言いたかったの。これ、私からのお祝い」
由梨は白と淡いピンクの薔薇でまとめられた小ぶりの花束を差し出した。九条は受け取ったが、その表情は仕事相手へ向けるものと変わらない。
そのことに少し安心し、安心した自分にまた腹が立った。
「こちらは?」
由梨の視線が私へ向く。九条が答えるより先に、口を開いた。
「神崎莉乃です。業務委託で、総務まわりを手伝っています」
「そうなんですね。玲くんって昔から、困っている人を放っておけないものね」
笑顔のまま放たれた言葉が、胸へ小さく刺さる。
「困っていたのは、どちらかといえば俺の方だ」
「へえ。玲くんが誰かを頼るなんて、珍しい~」
九条の訂正に、由梨は驚いたように目を丸くする。けれど、彼女の視線はすぐに私へ戻った。
「私、鷹宮ブライダルホールディングスの役員をしている父から、玲くんを紹介されたんです。レガリアリンクがまだ小さかった頃に」
「余計な説明はいい」
「神崎さんが知らないみたいだったから」
由梨は小首を傾げた。
「玲くん、昔は本当に仕事ばかりで。デート中もパソコンを開くし、会社のためなら何日も寝ないし。私の父も、先が見えないベンチャーとの交際は心配していたんです」
「それで別れたの?」
聞くつもりのない言葉が、勝手にこぼれていた。
「お互い、合わなかったんです。私も、もっと安定した人の方がいいのかなって」
「そうだなと言ったら、連絡が来なくなった」
九条の補足に、由梨の笑顔がわずかに固まる。
「玲くん、昔から言い方が冷たい。私は、少しくらい引き止めてくれると思っていたのに」
「合わないという意見に同意しただけだ」
「そういうところ」
由梨は困ったように笑い、再び私を見つめた。
「でも、今の玲くんなら、私にも釣り合うかなって思うんだけどな」
「今の九条なら?」
「上場承認が下りた会社の社長でしょう?父の会社とも、きっといい提携ができるし。私なら、玲くんの仕事にも役立てると思うの」
柔らかな声のまま、言葉だけが鋭くなる。
「神崎さんは、玲くんに何をしてあげられるんですか?」
「由梨」
九条の声が低く響く。
喉が詰まった。私がしてきた仕事は、鷹宮家の資金力や提携に比べれば小さい。今も九条の部屋に居候し、彼が用意する未来を待っているだけだ。
「神崎さんと少しお話ししたいだけ。玲くんを責めてないよ?」
「彼女を値踏みするために来たなら、帰れ」
「そんなに怒らないで。私、確かめたいだけ」
由梨は目を伏せ、すぐに笑顔を戻すと、九条の腕へ白い指を添えた。
「玲くん。私たち、もう一度やり直せると思わない?」
「思わない」
九条の返事は、由梨が言い終えるのとほとんど同時だった。
「そんな即答しなくてもよくない?」
「考える余地がありません」
九条の声も表情も、取引先へ対応する時と変わらない。
「今なら昔とは違うでしょう? 私も父の会社で仕事をしてるし、玲くんの会社へ大きな案件を持ってこられる。お互いに得があると思うの」
「会社の利益と、私生活を交換する気はありません」
「でも、神崎さんは玲くんの会社を選ばなかった人でしょう?」
由梨の視線が私へ向く。
「私は彼のためになれる。神崎さんは、玲くんへ何をしてあげられるんですか?」
胸へ小さな棘が刺さった。
私へ触れなかった。代わりに、由梨との間へ明確な線を引くように一歩前へ出る。
「神崎さんがどこで働くかは、本人が決めることです」
「でも――」
「神崎さんが俺に何をしてくれるかを、あなたが問いただす立場ではありません。仕事も私生活も、本人が決めることです」
冷静な声が、オフィスへ響いた。
「昔の私には、そこまで言ってくれなかったよね」
「私生活の話を、社員の前でするつもりはありません」
「復縁する気がないってこと?」
「ありません」
迷いのない一言だった。
「今後、来社する場合は正式にアポイントを取ってください。神崎さんへの失礼な言動も、無断で私へ接触することも認めません」
由梨の笑顔が固まる。
「玲くん、本当に変わったね」
「業務上の用件がないなら、お帰りください」
由梨は何か言い返しかけたが、周囲の社員の視線に気づいたのか、バッグを抱え直した。
「わかった。今日は帰るね」
「宮田、エントランスまで案内を」
エレベーターの扉が閉まるまで、九条は一度も追わなかった。
「見世物じゃない。仕事に戻れ」
その一言で、止まっていたキーボードの音が一斉に戻る。
私も席へ戻ろうとすると、九条が仕事の声で呼び止めた。
「神崎さん。少し、上で話せますか」
「……わかりました」
九条は先に扉を開けた。社員の前では、指一本私へ触れない。
上階のリビングへ入り、重い扉が閉じた。



