上場審査の最終回答を待つ二日間、九条は以前より社員へ仕事を任せていた。
「佐伯、開発資料をまとめてくれ。宮田は監査法人からの追加質問を。藤原は広報の確認を頼む」
以前なら、自分で全部抱え込んでいたはずだ。今は名前を呼び、仕事を渡し、終わるまで相手を信じて待っている。
「成長したね」
「会社の代表を子ども扱いするな」
「倒れてから学んだでしょう」
「お前が怖いからだ」
「良い動機」
文句を言いながらも、椅子の背へもたれ、数分だけ目を閉じた。短い休憩も、以前より素直に取るようになった。
自宅で、業務委託の引き継ぎ資料を見直していた。
バッグの底には、未使用の検査薬が入っている。気づくたびに胸がざわついたが、今は体調も落ち着いている。強い痛みも出血もない。
午後、九条から連絡が入った。
『今から会社へ来られるか』
『何かあった?』
『全員で待ちたい』
マンションの下階へ降りると、オフィスの空気は妙に静かだった。
誰もが仕事をしながら、九条の携帯電話が鳴るたびに顔を上げる。
通話を取り、しばらく相手の話を聞いていた。
やがて、強く目を閉じる。
「承知しました。ありがとうございます」
電話を切った。
誰も声を出せない中、九条が私を見る。
「上場承認が下りた」
一瞬の静寂のあと、歓声がオフィスを揺らした。
宮田さんは泣き、佐伯さんは両手を上げ、藤原さんは机へ突っ伏した。その場に立ったまま、息を吐くことすら忘れたように動かない。
「九条?」
呼ぶと、ようやく私を見る。
「おめでとう」
「ああ」
「もっと喜んで」
「まだ実感がない」
社員の前だから、抱き締めることはしない。代わりに、ほんの一瞬だけ目を細めた。
社員たちは、その日の作業を早めに切り上げ、近所の神社へお礼参りに行くと言い出した。
非合理的だと言いながら、最後には全員分の賽銭を用意してついてきた。
「一番長く願っていたのは、あなたでしょう」
「今日は礼を言うだけだ」
「手を合わせる時間、誰より長かったよ」
「確認事項が多かった」
会社へ戻ると、証券会社、投資家、取引先から次々と電話が入った。九条へ近づく隙もない。
今日は会社の大事な日だ。自分の話はあとでいい。
急遽、オフィスで祝賀会を開くことになった。
料理はホテルから届き、シャンパンが何本も並ぶ。
「普通の会社の祝賀会って、こんなシャンパン出なくない?」
「普通の会社ではなくなるからな」
「高級店の時と同じ返し」
「お前が同じことを言うからだ」
周囲への対応を崩さないまま、私にだけ届く声で言った。
「あとで話す」
「待ってる」
そのまま投資家に呼ばれ、離れていった。
祝賀会は夜遅くまで続いた。
社員が一人ずつ九条へ感謝を伝え、九条も普段より素直に頭を下げる。
「ここまで来られたのは、全員が残ってくれたからだ。遠藤の件で辞めても責められなかった。それでも会社を信じてくれた。ありがとう」
拓也に捨てられて転がり込んだ場所で、私の仕事も認められた。失っただけだと思っていた三か月に、新しい価値が生まれている。
最後の社員が帰った時には、日付が変わっていた。
ソファへ座り、ネクタイを緩める。
「疲れた」
「おめでとう」
隣へ座り、シャンパンの残ったグラスを差し出した。
「二人で乾杯してなかったでしょう」
「飲まないのか」
「あ……うん。最近、胃の調子が悪いから」
グラスを受け取り、私の手元のお茶へ視線を落とした。
「莉乃」
「何」
「ありがとう」
「今日、何回言われたかわからない」
「俺からは、まだちゃんと言っていない」
グラスを置き、私の頬へ手を添えた。
「お前が白無垢でここへ来た日、最悪だと思った」
「私も」
「面倒な女を抱え込んだと」
「そこで止めたら怒るよ」
「今は、お前が来なかった生活を想像できない」
唇が重なる。
シャンパンの香りがする、ゆっくりとした口づけだった。
「話があるんでしょう」
「ああ。新しいオフィスと、住む場所のことだ」
「今、聞く」
九条が口を開きかけた時、携帯電話が鳴った。画面には、九条のお父さんの名前が表示されている。
「出て。大事な話かもしれない」
「すぐ戻る」
電話を取り、別室へ向かった。
十分、二十分。通話は終わらない。海外の投資家も交えた調整へ変わったらしい。
待つ間に片づけをした。シャンパンのグラスを洗い、残った料理を冷蔵庫へ入れる。
午前一時、別室の扉が一度開く。こちらを見て、申し訳なさそうに指を一本立てた。あと少し、という意味だ。
頷いた。
その少しを信じて眠ったことが、翌朝の寂しさを大きくした。
目を覚ますと、九条からメッセージが届いていた。
『話せなくて悪かった。今夜、必ず』
同じ言葉を何度目に見ただろう。
リビングへ出ると、九条はソファで眠っていた。電話を終えたのは明け方だったらしい。指にはまだ携帯電話が握られ、眉間には深い皺が残っている。
毛布を掛ける。九条の手が反射的に伸び、手首を掴んだ。
「行くな」
「寝ぼけてる?」
「……莉乃」
目を開けないまま名前を呼ばれ、胸が痛くなる。
「行かない。今は」
答えると、指の力が緩んだ。
目が覚めた時にも、同じことを言ってほしい。
彼の髪を一度だけ撫で、バッグの底に残った検査薬を思い出した。
「佐伯、開発資料をまとめてくれ。宮田は監査法人からの追加質問を。藤原は広報の確認を頼む」
以前なら、自分で全部抱え込んでいたはずだ。今は名前を呼び、仕事を渡し、終わるまで相手を信じて待っている。
「成長したね」
「会社の代表を子ども扱いするな」
「倒れてから学んだでしょう」
「お前が怖いからだ」
「良い動機」
文句を言いながらも、椅子の背へもたれ、数分だけ目を閉じた。短い休憩も、以前より素直に取るようになった。
自宅で、業務委託の引き継ぎ資料を見直していた。
バッグの底には、未使用の検査薬が入っている。気づくたびに胸がざわついたが、今は体調も落ち着いている。強い痛みも出血もない。
午後、九条から連絡が入った。
『今から会社へ来られるか』
『何かあった?』
『全員で待ちたい』
マンションの下階へ降りると、オフィスの空気は妙に静かだった。
誰もが仕事をしながら、九条の携帯電話が鳴るたびに顔を上げる。
通話を取り、しばらく相手の話を聞いていた。
やがて、強く目を閉じる。
「承知しました。ありがとうございます」
電話を切った。
誰も声を出せない中、九条が私を見る。
「上場承認が下りた」
一瞬の静寂のあと、歓声がオフィスを揺らした。
宮田さんは泣き、佐伯さんは両手を上げ、藤原さんは机へ突っ伏した。その場に立ったまま、息を吐くことすら忘れたように動かない。
「九条?」
呼ぶと、ようやく私を見る。
「おめでとう」
「ああ」
「もっと喜んで」
「まだ実感がない」
社員の前だから、抱き締めることはしない。代わりに、ほんの一瞬だけ目を細めた。
社員たちは、その日の作業を早めに切り上げ、近所の神社へお礼参りに行くと言い出した。
非合理的だと言いながら、最後には全員分の賽銭を用意してついてきた。
「一番長く願っていたのは、あなたでしょう」
「今日は礼を言うだけだ」
「手を合わせる時間、誰より長かったよ」
「確認事項が多かった」
会社へ戻ると、証券会社、投資家、取引先から次々と電話が入った。九条へ近づく隙もない。
今日は会社の大事な日だ。自分の話はあとでいい。
急遽、オフィスで祝賀会を開くことになった。
料理はホテルから届き、シャンパンが何本も並ぶ。
「普通の会社の祝賀会って、こんなシャンパン出なくない?」
「普通の会社ではなくなるからな」
「高級店の時と同じ返し」
「お前が同じことを言うからだ」
周囲への対応を崩さないまま、私にだけ届く声で言った。
「あとで話す」
「待ってる」
そのまま投資家に呼ばれ、離れていった。
祝賀会は夜遅くまで続いた。
社員が一人ずつ九条へ感謝を伝え、九条も普段より素直に頭を下げる。
「ここまで来られたのは、全員が残ってくれたからだ。遠藤の件で辞めても責められなかった。それでも会社を信じてくれた。ありがとう」
拓也に捨てられて転がり込んだ場所で、私の仕事も認められた。失っただけだと思っていた三か月に、新しい価値が生まれている。
最後の社員が帰った時には、日付が変わっていた。
ソファへ座り、ネクタイを緩める。
「疲れた」
「おめでとう」
隣へ座り、シャンパンの残ったグラスを差し出した。
「二人で乾杯してなかったでしょう」
「飲まないのか」
「あ……うん。最近、胃の調子が悪いから」
グラスを受け取り、私の手元のお茶へ視線を落とした。
「莉乃」
「何」
「ありがとう」
「今日、何回言われたかわからない」
「俺からは、まだちゃんと言っていない」
グラスを置き、私の頬へ手を添えた。
「お前が白無垢でここへ来た日、最悪だと思った」
「私も」
「面倒な女を抱え込んだと」
「そこで止めたら怒るよ」
「今は、お前が来なかった生活を想像できない」
唇が重なる。
シャンパンの香りがする、ゆっくりとした口づけだった。
「話があるんでしょう」
「ああ。新しいオフィスと、住む場所のことだ」
「今、聞く」
九条が口を開きかけた時、携帯電話が鳴った。画面には、九条のお父さんの名前が表示されている。
「出て。大事な話かもしれない」
「すぐ戻る」
電話を取り、別室へ向かった。
十分、二十分。通話は終わらない。海外の投資家も交えた調整へ変わったらしい。
待つ間に片づけをした。シャンパンのグラスを洗い、残った料理を冷蔵庫へ入れる。
午前一時、別室の扉が一度開く。こちらを見て、申し訳なさそうに指を一本立てた。あと少し、という意味だ。
頷いた。
その少しを信じて眠ったことが、翌朝の寂しさを大きくした。
目を覚ますと、九条からメッセージが届いていた。
『話せなくて悪かった。今夜、必ず』
同じ言葉を何度目に見ただろう。
リビングへ出ると、九条はソファで眠っていた。電話を終えたのは明け方だったらしい。指にはまだ携帯電話が握られ、眉間には深い皺が残っている。
毛布を掛ける。九条の手が反射的に伸び、手首を掴んだ。
「行くな」
「寝ぼけてる?」
「……莉乃」
目を開けないまま名前を呼ばれ、胸が痛くなる。
「行かない。今は」
答えると、指の力が緩んだ。
目が覚めた時にも、同じことを言ってほしい。
彼の髪を一度だけ撫で、バッグの底に残った検査薬を思い出した。



