上場審査の最終回答まで、あと三日。
社内は忙しいのに、妙に静かだった。
誰もが仕事をしながら、九条の携帯電話が鳴るたびに顔を上げる。
「違う。取引先だ」
九条が答えると、全員が息を吐いた。
「落ち着きませんね」
「ここまで来たら、待つしかない」
資料の箱へラベルを貼る。
新オフィスへの移転準備も始まっている。保管する契約書、電子化する資料、処分する備品。三か月前、床へ積まれていた箱は、今では誰でも中身を見つけられる。
「神崎さんがいなくなったあと、維持できる気がしません」
「宮田さんに任せないで、自分でも片づけるの」
「努力します」
「その返事、九条と同じくらい信用できない」
「何の努力だ」
背後から本人の声がした。
「私が新しい会社へ行ったあとの整理」
「その件は、勤務後に話す」
「平日は無理でしょう」
「今は業務を続けよう」
社員たちの前で当然のように言う。
「住む場所の話は、上場承認のあと」
「わかってる」
九条は私へ触れることなく、そのまま会議室へ入った。
以前なら、勝手に未来を決めるなと怒ったかもしれない。
今は、朝と夜も一緒にいたいという意味だとわかる。それでも、最終的な答えは自分で選びたい。
昼前、コーヒーの香りが漂った瞬間、胃がひっくり返るような気持ち悪さに襲われた。
口元を押さえ、給湯室を出る。
「神崎さん、大丈夫ですか?」
「朝、食べすぎたかも」
「顔色が悪いですよ」
「少し休めば平気」
窓を開け、冷たい空気を吸う。数分で吐き気は治まった。
寝不足と緊張のせいだ。
自分へ言い聞かせる。
夜、リビングではまだ資料を確認していた。
「寝ないの?」
「これを見たら行く」
「昨日も同じことを言って、ソファで寝たでしょう」
「今日は行く」
背後から肩へ腕を回す。
「珍しいな」
「何が」
「お前から仕事中に触るの」
「今は自宅でしょう」
「区別がつかなくなったか」
腕を引かれ、膝の上へ座らされた。
「ちょっと」
「誘ったのはお前だ」
「肩を抱いただけ」
「俺には十分だ」
首筋へ唇が触れる。
「仕事は?」
「お前が邪魔した」
「私のせいにしないで」
「あとで謝れ」
「どうして私が」
言い合いながら寝室へ向かう。忙しさを埋めるように、何度も触れられた。
途中で、いつもより身体が重いことに気づいたけれど、口にしなかった。九条に言えば、すぐに休めと言われる。
「無理してないか」
見抜いたように尋ねられる。
「してない」
「本当に?」
「しつこい」
「なら、今日はここまで」
「嫌」
自分で言ってから、顔が熱くなる。
九条が笑った。
「今の返事は、一生忘れない」
「今のは忘れて」
「一生忘れない」
それでも、無理に続けることはなく、私を抱き締めたまま眠った。
翌朝、目覚ましが鳴る前に吐き気で目が覚める。
洗面所へ駆け込み、何も出ないままうずくまった。
「莉乃?」
扉の外から九条の声がする。
「大丈夫。入らないで」
「大丈夫な声じゃない」
「寝不足だから」
しばらくして扉を開けると、九条が険しい顔で待っていた。
「今日は休め」
「会社の大事な時期に?」
「お前の体調と会社は関係ない」
「少し気持ち悪かっただけ」
「病院へ行く」
「大げさ」
「俺も行く」
「今日は会議があるでしょう」
九条の携帯電話が鳴る。
画面に証券会社の名前が表示されている文字を二人で見つめる。
「出て」
「だが」
「横になる。終わったら話して」
迷った末に通話を取った。
寝室へ戻り、携帯電話の予定表を開く。
生理予定日から、八日が過ぎていた。
上場審査の最終回答まで、あと二日。
朝、コーヒーの香りを嗅いだ途端、胃の奥がひっくり返るような気持ち悪さに襲われた。
慌てて換気扇を回し、冷たい水を飲む。吐くほどではない。数分で治まった。
「まだ体調が悪いのか」
九条が額へ手を当てる。
「熱はないでしょう」
「病院へ行け」
思わず顔を上げた。
「近い内に……」
「ダメだ。今日、病院へ行け」
「上場審査の最終対応があるでしょう」
「俺の予定は関係ない」
「私が今すぐ行きたくないの」
強く言うと、口を閉じた。
妊娠しているかもしれない。頭の中では、もう何度もその可能性を数えている。それでも、そのことを伝えるのも、結果を見るのも怖かった。
嬉しくないわけではない。九条との子どもなら、きっと嬉しい。
だからこそ、今後の仕事も暮らしも、すべてが一度に変わるかもしれない事実を、一人で確かめる勇気が出なかった。
会社では、上場後を見据えた新オフィスへの移転準備が進んでいた。
保管する契約書、電子化する資料、処分する備品。三か月前、床へ積まれていた箱は、今では誰でも中身を探せる。
昼休み、ドラッグストアへ行った。
検査薬の箱を手に取るだけで、指先が冷たくなる。会計を済ませ、紙袋をバッグの底へ押し込んだ。
会社へ戻っても、箱の存在が気になって仕方がない。
今すぐ確かめたい。けれど、二本の線が出た時、自分が何を思うのかが怖い。一本だった時に、落胆するのか安心するのかもわからない。
午後は早退し、マンションへ戻った。
お手洗いへ入り、箱を開ける。説明書を読み、検査薬を取り出したところで、手が止まった。
「あと二日だけ」
上場承認が出てから話したいわけではない。
会社を優先しているわけでもない。
ただ、九条が人生を懸けた結果が出る日と、私たちの未来が変わるかもしれない日を、同じ一日に重ねるのが怖かった。
その夜、ベッドへ入っても眠れない。
九条は無理に何も聞かず、背後から私を抱き締める。
暗闇の中、九条の呼吸と重なった自分の鼓動を数えながら、ようやく目を閉じた。
その夜、バッグの底には、開封しただけの検査薬が残った。
結果を見る日は、まだ来ていない。
社内は忙しいのに、妙に静かだった。
誰もが仕事をしながら、九条の携帯電話が鳴るたびに顔を上げる。
「違う。取引先だ」
九条が答えると、全員が息を吐いた。
「落ち着きませんね」
「ここまで来たら、待つしかない」
資料の箱へラベルを貼る。
新オフィスへの移転準備も始まっている。保管する契約書、電子化する資料、処分する備品。三か月前、床へ積まれていた箱は、今では誰でも中身を見つけられる。
「神崎さんがいなくなったあと、維持できる気がしません」
「宮田さんに任せないで、自分でも片づけるの」
「努力します」
「その返事、九条と同じくらい信用できない」
「何の努力だ」
背後から本人の声がした。
「私が新しい会社へ行ったあとの整理」
「その件は、勤務後に話す」
「平日は無理でしょう」
「今は業務を続けよう」
社員たちの前で当然のように言う。
「住む場所の話は、上場承認のあと」
「わかってる」
九条は私へ触れることなく、そのまま会議室へ入った。
以前なら、勝手に未来を決めるなと怒ったかもしれない。
今は、朝と夜も一緒にいたいという意味だとわかる。それでも、最終的な答えは自分で選びたい。
昼前、コーヒーの香りが漂った瞬間、胃がひっくり返るような気持ち悪さに襲われた。
口元を押さえ、給湯室を出る。
「神崎さん、大丈夫ですか?」
「朝、食べすぎたかも」
「顔色が悪いですよ」
「少し休めば平気」
窓を開け、冷たい空気を吸う。数分で吐き気は治まった。
寝不足と緊張のせいだ。
自分へ言い聞かせる。
夜、リビングではまだ資料を確認していた。
「寝ないの?」
「これを見たら行く」
「昨日も同じことを言って、ソファで寝たでしょう」
「今日は行く」
背後から肩へ腕を回す。
「珍しいな」
「何が」
「お前から仕事中に触るの」
「今は自宅でしょう」
「区別がつかなくなったか」
腕を引かれ、膝の上へ座らされた。
「ちょっと」
「誘ったのはお前だ」
「肩を抱いただけ」
「俺には十分だ」
首筋へ唇が触れる。
「仕事は?」
「お前が邪魔した」
「私のせいにしないで」
「あとで謝れ」
「どうして私が」
言い合いながら寝室へ向かう。忙しさを埋めるように、何度も触れられた。
途中で、いつもより身体が重いことに気づいたけれど、口にしなかった。九条に言えば、すぐに休めと言われる。
「無理してないか」
見抜いたように尋ねられる。
「してない」
「本当に?」
「しつこい」
「なら、今日はここまで」
「嫌」
自分で言ってから、顔が熱くなる。
九条が笑った。
「今の返事は、一生忘れない」
「今のは忘れて」
「一生忘れない」
それでも、無理に続けることはなく、私を抱き締めたまま眠った。
翌朝、目覚ましが鳴る前に吐き気で目が覚める。
洗面所へ駆け込み、何も出ないままうずくまった。
「莉乃?」
扉の外から九条の声がする。
「大丈夫。入らないで」
「大丈夫な声じゃない」
「寝不足だから」
しばらくして扉を開けると、九条が険しい顔で待っていた。
「今日は休め」
「会社の大事な時期に?」
「お前の体調と会社は関係ない」
「少し気持ち悪かっただけ」
「病院へ行く」
「大げさ」
「俺も行く」
「今日は会議があるでしょう」
九条の携帯電話が鳴る。
画面に証券会社の名前が表示されている文字を二人で見つめる。
「出て」
「だが」
「横になる。終わったら話して」
迷った末に通話を取った。
寝室へ戻り、携帯電話の予定表を開く。
生理予定日から、八日が過ぎていた。
上場審査の最終回答まで、あと二日。
朝、コーヒーの香りを嗅いだ途端、胃の奥がひっくり返るような気持ち悪さに襲われた。
慌てて換気扇を回し、冷たい水を飲む。吐くほどではない。数分で治まった。
「まだ体調が悪いのか」
九条が額へ手を当てる。
「熱はないでしょう」
「病院へ行け」
思わず顔を上げた。
「近い内に……」
「ダメだ。今日、病院へ行け」
「上場審査の最終対応があるでしょう」
「俺の予定は関係ない」
「私が今すぐ行きたくないの」
強く言うと、口を閉じた。
妊娠しているかもしれない。頭の中では、もう何度もその可能性を数えている。それでも、そのことを伝えるのも、結果を見るのも怖かった。
嬉しくないわけではない。九条との子どもなら、きっと嬉しい。
だからこそ、今後の仕事も暮らしも、すべてが一度に変わるかもしれない事実を、一人で確かめる勇気が出なかった。
会社では、上場後を見据えた新オフィスへの移転準備が進んでいた。
保管する契約書、電子化する資料、処分する備品。三か月前、床へ積まれていた箱は、今では誰でも中身を探せる。
昼休み、ドラッグストアへ行った。
検査薬の箱を手に取るだけで、指先が冷たくなる。会計を済ませ、紙袋をバッグの底へ押し込んだ。
会社へ戻っても、箱の存在が気になって仕方がない。
今すぐ確かめたい。けれど、二本の線が出た時、自分が何を思うのかが怖い。一本だった時に、落胆するのか安心するのかもわからない。
午後は早退し、マンションへ戻った。
お手洗いへ入り、箱を開ける。説明書を読み、検査薬を取り出したところで、手が止まった。
「あと二日だけ」
上場承認が出てから話したいわけではない。
会社を優先しているわけでもない。
ただ、九条が人生を懸けた結果が出る日と、私たちの未来が変わるかもしれない日を、同じ一日に重ねるのが怖かった。
その夜、ベッドへ入っても眠れない。
九条は無理に何も聞かず、背後から私を抱き締める。
暗闇の中、九条の呼吸と重なった自分の鼓動を数えながら、ようやく目を閉じた。
その夜、バッグの底には、開封しただけの検査薬が残った。
結果を見る日は、まだ来ていない。



