翌朝、目を覚ました瞬間から、身体の奥に重い倦怠感が居座っていた。
起き上がろうとすると、いつもより少しだけ頭がクラクラとする。微熱がある時のように皮膚がじんわりと熱く、喉の奥が妙に乾いていた。
やはり、ここ数か月の目まぐるしい変化と、内定を勝ち取るまでの緊張、そして拓也との一連の決着で、一気に心身の疲れが出てしまったのだろう。そう自分に言い聞かせながら、ベッドから這い出した。
リビングへ行くと、すでにパソコンを開き、いくつかの資料に目を通していた。
キッチンへ向かい、いつものようにコーヒーメーカーのスイッチを入れる。しばらくして、香ばしい豆の香りがふわりと漂ってきた瞬間、なぜか胸の奥が不意にツンと突き上げられるような、奇妙な不快感を覚えた。
「……莉乃?」
コーヒーマシンの前で立ち止まると、パソコンから視線が上がった。
「どうかしたか。顔色が悪い」
「ううん、何でもない。ちょっと寝起きでぼんやりしていただけ」
努めて明るい声で返し、カップにコーヒーを注いだ。いつもならブラックのまま飲むお気に入りの深煎りなのに、今朝はどうしてもその苦味を受け付けそうにない気がして、牛乳を多めに入れてごまかす。
私の手元をじっと見つめていたが、やがて立ち上がってそばへ歩み寄ってきた。彼の大きな手が、額にそっと触れる。
「少し熱いな。風邪か?」
「ただの疲れよ。ここ最近の緊張が、一気に解けたんだと思う。体調管理も仕事のうちなんだから、来月の一日までには完璧に戻しておくわ」
「無理をするな。引き継ぎの作業は宮田たちに振ればいい。今日はもう休め」
「これくらいで休んでいたら、新しい会社でやっていけないわよ。大丈夫、本当に平気だから」
そう言って笑ってみせたものの、差し出された手のひらの温かさが、いつもよりずっと熱く感じられて、胸の奥の鼓動がわずかに早くなった。
昼間、オフィスで引き継ぎ用のマニュアルを作成している間も、かすかな違和感は消えなかった。
普段なら気にならないオフィスの冷房の風が、今日に限ってひどく寒く感じられて、自室から厚手のカーディガンを持ってきて羽織った。パソコンの画面を見つめていると、いつもより目が疲れやすく、肩が異様に凝る。
「神崎さん、これ、先日の経費精算の領収書なんですけど……」
藤原くんが話しかけてくれた時、彼の手から漂ってきたコンビニのお弁当の温かい匂いに、喉の奥がキュッと収縮するような感覚が走った。慌てて手元のマグカップの白湯を口に含み、喉の不快感を押し流す。
「ありがとう、藤原くん。預かるね」
「あの……神崎さん、本当に大丈夫ですか?なんだか少し、顔色が青白いですよ。九条さんに言って、お部屋で休ませてもらった方が……」
「大丈夫よ、心配してくれてありがとう。ちょっとお腹が空いているだけだから」
書類を受け取り、なんとかいつものように微笑む。
けれど、自分のついた『お腹が空いている』という嘘が、妙に白々しく脳裏に響く。
実際には、お腹が空いているはずなのに、何かを食べたいという欲求が驚くほど湧いてこないのだ。
夕方になり、業務時間が終わると同時に、逃げるように自分の部屋へと戻った。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
スマートフォンのカレンダーをもう一度開き、あの赤い印を見つめた。
予定日から、今日で六日。
ただの疲れ。ストレスによる周期の乱れ。環境の変化。
頭の中で、いくつもの都合のいい言い訳が浮かんでは消えていく。これまでだって、大きな仕事の前後で生理が遅れることくらいは何度もあった。だから今回も、ただのタイミングのズレに過ぎないはずだ。
けれど、私の右手が、無意識のうちにまだ平らな自分の下腹部へと伸びていた。
指先から伝わってくる体温は、いつもより確かに高かった。
「莉乃、入るぞ」
静かなノックの音に続いて、九条が部屋に入ってきた。手には、温かいスープの入ったスープマグが握られている。
「宮田に、お前が昼間あまり食欲がなさそうだったと聞いた。これを少しでも飲んでおけ」
「……ありがとう」
ベッドの上に身体を起こし、彼からスープを受け取る。カボチャのポタージュスープの甘い香りは、幸いなことに不快感を刺激しなかった。ゆっくりと口に運ぶと、温かい液体がじんわりと胃に染み渡っていく。
私の隣へ腰掛け、スープを飲む様子を黙って見つめていた。その眼差しは、どこまでも過保護で、深く私を労わっている。
「美味しい」
「なら良かった。やはり、内定や上場準備の疲れが、思った以上にお前の負担になっていたんじゃないのか」
「それは違うって言ったでしょう?拓也のことは、もう私の中で完全に終わったことだから」
「ならいいが」
そう言って、私の頭をそっと肩へ引き寄せた。スープマグをサイドテーブルに置き、素直に彼の広い肩に頭を預ける。
九条の体温が、お互いの衣類越しに伝わってくる。その心地よい暖かさに包まれていると、張り詰めていた緊張が少しずつ解けていくのが分かった。
「莉乃。来月からの生活のことも、お前の仕事が始まって、落ち着いてからまた二人でゆっくり話そう。お前の言う通り、最初から二人で探す。だから、今は何も心配せずに体を休めろ」
「……うん。ありがとう、九条」
彼の優しい言葉が、今の私には酷く切なく胸に響く。
もし、私のこの予感が、ただの疲れによる思い過ごしではなかったとしたら。
新しく始まるはずの正社員としての仕事。九条と二人で最初から探すはずだった、新しい家。
ようやく自分の力で一歩を踏み出そうとしていた私の未来は、一体どうなってしまうのだろう。
九条の大きな手が、愛おしそうに背中を優しく撫でてくれる。
その温もりに縋るように、彼のシャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
身体に起きている静かな変化から、これ以上目を背け続けることはできないと分かっていながら、ただ、彼の腕の中で小さく瞳を閉じることしかできなかった。
起き上がろうとすると、いつもより少しだけ頭がクラクラとする。微熱がある時のように皮膚がじんわりと熱く、喉の奥が妙に乾いていた。
やはり、ここ数か月の目まぐるしい変化と、内定を勝ち取るまでの緊張、そして拓也との一連の決着で、一気に心身の疲れが出てしまったのだろう。そう自分に言い聞かせながら、ベッドから這い出した。
リビングへ行くと、すでにパソコンを開き、いくつかの資料に目を通していた。
キッチンへ向かい、いつものようにコーヒーメーカーのスイッチを入れる。しばらくして、香ばしい豆の香りがふわりと漂ってきた瞬間、なぜか胸の奥が不意にツンと突き上げられるような、奇妙な不快感を覚えた。
「……莉乃?」
コーヒーマシンの前で立ち止まると、パソコンから視線が上がった。
「どうかしたか。顔色が悪い」
「ううん、何でもない。ちょっと寝起きでぼんやりしていただけ」
努めて明るい声で返し、カップにコーヒーを注いだ。いつもならブラックのまま飲むお気に入りの深煎りなのに、今朝はどうしてもその苦味を受け付けそうにない気がして、牛乳を多めに入れてごまかす。
私の手元をじっと見つめていたが、やがて立ち上がってそばへ歩み寄ってきた。彼の大きな手が、額にそっと触れる。
「少し熱いな。風邪か?」
「ただの疲れよ。ここ最近の緊張が、一気に解けたんだと思う。体調管理も仕事のうちなんだから、来月の一日までには完璧に戻しておくわ」
「無理をするな。引き継ぎの作業は宮田たちに振ればいい。今日はもう休め」
「これくらいで休んでいたら、新しい会社でやっていけないわよ。大丈夫、本当に平気だから」
そう言って笑ってみせたものの、差し出された手のひらの温かさが、いつもよりずっと熱く感じられて、胸の奥の鼓動がわずかに早くなった。
昼間、オフィスで引き継ぎ用のマニュアルを作成している間も、かすかな違和感は消えなかった。
普段なら気にならないオフィスの冷房の風が、今日に限ってひどく寒く感じられて、自室から厚手のカーディガンを持ってきて羽織った。パソコンの画面を見つめていると、いつもより目が疲れやすく、肩が異様に凝る。
「神崎さん、これ、先日の経費精算の領収書なんですけど……」
藤原くんが話しかけてくれた時、彼の手から漂ってきたコンビニのお弁当の温かい匂いに、喉の奥がキュッと収縮するような感覚が走った。慌てて手元のマグカップの白湯を口に含み、喉の不快感を押し流す。
「ありがとう、藤原くん。預かるね」
「あの……神崎さん、本当に大丈夫ですか?なんだか少し、顔色が青白いですよ。九条さんに言って、お部屋で休ませてもらった方が……」
「大丈夫よ、心配してくれてありがとう。ちょっとお腹が空いているだけだから」
書類を受け取り、なんとかいつものように微笑む。
けれど、自分のついた『お腹が空いている』という嘘が、妙に白々しく脳裏に響く。
実際には、お腹が空いているはずなのに、何かを食べたいという欲求が驚くほど湧いてこないのだ。
夕方になり、業務時間が終わると同時に、逃げるように自分の部屋へと戻った。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
スマートフォンのカレンダーをもう一度開き、あの赤い印を見つめた。
予定日から、今日で六日。
ただの疲れ。ストレスによる周期の乱れ。環境の変化。
頭の中で、いくつもの都合のいい言い訳が浮かんでは消えていく。これまでだって、大きな仕事の前後で生理が遅れることくらいは何度もあった。だから今回も、ただのタイミングのズレに過ぎないはずだ。
けれど、私の右手が、無意識のうちにまだ平らな自分の下腹部へと伸びていた。
指先から伝わってくる体温は、いつもより確かに高かった。
「莉乃、入るぞ」
静かなノックの音に続いて、九条が部屋に入ってきた。手には、温かいスープの入ったスープマグが握られている。
「宮田に、お前が昼間あまり食欲がなさそうだったと聞いた。これを少しでも飲んでおけ」
「……ありがとう」
ベッドの上に身体を起こし、彼からスープを受け取る。カボチャのポタージュスープの甘い香りは、幸いなことに不快感を刺激しなかった。ゆっくりと口に運ぶと、温かい液体がじんわりと胃に染み渡っていく。
私の隣へ腰掛け、スープを飲む様子を黙って見つめていた。その眼差しは、どこまでも過保護で、深く私を労わっている。
「美味しい」
「なら良かった。やはり、内定や上場準備の疲れが、思った以上にお前の負担になっていたんじゃないのか」
「それは違うって言ったでしょう?拓也のことは、もう私の中で完全に終わったことだから」
「ならいいが」
そう言って、私の頭をそっと肩へ引き寄せた。スープマグをサイドテーブルに置き、素直に彼の広い肩に頭を預ける。
九条の体温が、お互いの衣類越しに伝わってくる。その心地よい暖かさに包まれていると、張り詰めていた緊張が少しずつ解けていくのが分かった。
「莉乃。来月からの生活のことも、お前の仕事が始まって、落ち着いてからまた二人でゆっくり話そう。お前の言う通り、最初から二人で探す。だから、今は何も心配せずに体を休めろ」
「……うん。ありがとう、九条」
彼の優しい言葉が、今の私には酷く切なく胸に響く。
もし、私のこの予感が、ただの疲れによる思い過ごしではなかったとしたら。
新しく始まるはずの正社員としての仕事。九条と二人で最初から探すはずだった、新しい家。
ようやく自分の力で一歩を踏み出そうとしていた私の未来は、一体どうなってしまうのだろう。
九条の大きな手が、愛おしそうに背中を優しく撫でてくれる。
その温もりに縋るように、彼のシャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
身体に起きている静かな変化から、これ以上目を背け続けることはできないと分かっていながら、ただ、彼の腕の中で小さく瞳を閉じることしかできなかった。



