白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 その夜、内定祝いに格調高いレストランへ行こうと提案されたが、すでに火にかけた鍋を指差して断った。

「もう夕飯を作っちゃったの。ほら、煮物」
「なら、明日の夜の席を今すぐ予約する」
「そんな、何でもかんでも高いお店で祝わなくていいのよ」
「そうして特別な口実でも作らないと、お前は俺と過ごす時間を頑なに『デート』だと認めようとしないだろう」
「普通に、優しく誘ってくれれば行くわよ」
「本当に行くのか」
「……たぶんね」
「やはり信用できないな」

 結局、その日はいつものように二人で食卓を囲んだ。
 私の作った家庭的な煮物を美味しそうに食べながら、何度もテーブルの上の私の携帯電話に目をやり、内定通知のメールを見せてほしがった。

「そんなに何度も見なくたって、もうメールは消えないわよ」
「確認しているだけだ」
「何を?」
「勤務開始日だ」
「来月の一日よ。何度も言わせないで」
「ということは、それまではお前はここにいるんだな」
「最初の約束では、仕事と『家』が決まるまで、でしょう?」

 私の言葉に、煮物を運んでいた箸がピタリと止まった。

「次の家は、まだ決まっていない」
「そうね」
「なら、このままここに住み続ければいい」
「それは、これから改めてあなたと話し合うべきことでしょう?」

 正式に恋人同士になったからといって、最初に交わした「三か月だけの居候」という期限の約束が、話し合いもなしに自動的に消滅していいわけではない。
 九条はあからさまに納得のいかない不満そうな顔をしたが、それ以上、私の意見を無理にねじ伏せようとはしなかった。

「……現在進めている上場審査の結果が出たら、お前に話したいことがある」
「住む場所のこと?」
「それも含めてだ」
「分かった。でも、何でも自分一人で決めてから事後報告するのだけはやめてね」
「ああ」

 彼は素直に返事をした。
 けれど、その夜遅くのことだった。
 リビングのソファで眠ってしまった九条に、風邪を引かないようにと毛布を掛けようとした瞬間、彼の傍らに置かれていたノートパソコンの画面が、スリープから復帰して一瞬だけ明るく灯った。
 そこに表示されていた、開きっぱなしのフォルダ内のファイル名。
 ――『新居候補 最終比較』。

「……お前がいない朝に、俺はもう戻りたくない」

 画面を見つめたまま固まっていた私の背後から、いつの間にか目を覚ましていた九条の声が静かに響いた。私の手が、思わず止まる。

「仕事が変わっても、朝の時間は今までと同じようにここで過ごせるかもしれないでしょう?」
「『かもしれない』という曖昧な不確定要素では困る」
「だから、そうやって一人で抱え込まずに、ちゃんと二人で話そうって言っているのよ」
「俺は、お前と一緒に住み続けたい」

 ソファから起き上がり、正面からまっすぐに私を見つめた。

「今のこの家は、会社のオフィスを兼ねている。上場審査の結果が出て移転が決まれば、当然ここを引き払うことになる。その先の新しい家でも、俺はお前と暮らしたい」
「それなら、その新しい場所を、二人で一緒に探しましょう」
「……もう、いくつか候補は絞ってある」
「ちょっと、それって勝手に決めたの?」
「決めてはいない。ただ、見るだけ見ている段階だ」
「本当に?契約はまだしていないでしょうね?」
「契約はしていない。本当だ」

 私の疑うような視線に、少し気まずそうに眉を寄せた。

「本当だ、嘘は言っていない」
「私、いくらあなたが良かれと思って用意してくれたものでも、サプライズで勝手に住む家を渡されて喜ぶような女じゃないからね」
「わかっている」
「本当に?」
「ああ。上場承認が正式に下りたら、その候補を一緒に行って見てほしい」
「約束ね」

 家事で少し濡れた私の指先をそっと取り、そこに誓うようにして軽く口づけを落とした。

「約束する」

 その日の夜は、久しぶりにリビングに仕事を持ち込まず、二人で早くに寝室へ入った。
 腕の中に包み込むように抱き締めたまま、耳元で何度も「来月もここにいろ」と、呪文のように繰り返した。

「同じことを、一晩に何回言うのよ」
「お前の返事が、いつまでも曖昧だからだ」
「それは、上場承認が出たあとに話し合うって言ったでしょう」
「今、ここで頷いておけば済む話だ」
「そうやって私を急かさないで」
「ベッドの中では、もっと早く俺の問いかけに返事をしてくれるのに」
「……もう。そんな意地悪言うなら、今夜は自分の部屋に戻って寝ようかな」
「それは困る。絶対に許さない」

 彼に回された腰の腕の力が、逃がさないとばかりにギュッと強くなる。

「分かったから。一緒にいるわよ。でも、次の家は絶対に二人で決めるからね」
「ああ、分かった」

 翌朝、冷たい水を飲もうと廊下を歩いていると、リビングの方から、九条がどこかの不動産会社と電話で話している低い声が漏れ聞こえてきた。

「……申込ではありません。内見の枠だけを押さえておいてください。本人には、まだ内密に」

 確かに、彼は約束通りに本契約までは進めていない。私と一緒に決めるというルールを、文字通りギリギリのところで守ってはいる。
 それでも、受話器の向こうの相手に告げた『本人には内密に』という言葉が、私の胸の片隅に小さなトゲのように静かに残った。