二次面接の日程が決まり、私の生活は二つに分かれ始めた。
昼間はレガリアリンクの業務を手伝い、夜は応募先の企業研究をする。会社では上場審査の再開へ向けた作業が本格化し、九条も朝から会議に追われていた。
勤務中の九条は、徹底して私を「神崎さん」と呼んだ。
「神崎さん、こちらを監査資料へ追加してください」
「承知しました」
資料を受け取る。指先は触れない。目も必要以上に合わせない。
以前の九条なら、社員の前でも平然と私へ近づいたかもしれない。今は、仕事の線を守っている。
最後の社員が帰った夜、リビングでパソコンを閉じた九条へ声をかけた。
「今日、ほとんど私を見なかったでしょう」
「仕事中だったからな」
「少しくらい寂しくなかったの?」
「寂しかった」
即答され、胸が跳ねる。
立ち上がり、私の腰を抱いた。
「だから今、離す気がない」
「まだ企業研究が残ってる」
「十五分だけだ」
「何が?」
「抱き締める時間」
「長いよ」
「一日我慢した分だ」
肩へ額を預ける九条の髪を撫でる。会社では隙のない男が、二人きりになるとこんなふうに甘える。その顔を知っているのは、たぶん私だけだ。
翌日の昼休み、宮田さんが尋ねた。
「神崎さん、本当に仕事が決まったら、ここを出るんですか」
「住む場所は、九条さんと相談するつもりです」
背後から九条の声がした。
「その話は、勤務後にする」
社員の前で未来を決めつけず、それ以上は口を挟まなかった。
夕方、九条から新しいオフィス候補について説明を受けた。
「上場審査が進めば、ここでは手狭になる。監査や来客のためにも、住居と会社は分ける」
「初めて聞いた」
「まだ候補を比較している段階だ」
「決まる前にも話してね」
「ああ」
返事はしたが、どこか歯切れが悪い。
夜中、水を飲みに起きると、九条がリビングでノートパソコンを見ていた。画面には広い間取り図が表示されている。
「新しいオフィス?」
声をかけると、画面を閉じた。
「まだ見せる段階ではない」
「私にも関係がある?」
「ああ」
「なら、どうして隠すの」
「悪いことではない。もう少しだけ待ってくれ」
以前なら、その場で問い詰めたかもしれない。けれど、最終面接を控えた私にも余裕がなかった。
「決まる前に、ちゃんと話してね」
「約束する」
立ち上がり、頬へ触れた。
「眠れないのか」
「喉が渇いただけ。まだ仕事するの?」
「あと少し」
「終わったら来て」
「ベッドで待ってる?」
「寝ていたら起こさないで」
「善処する」
「起こす気でしょう」
九条が笑い、額へ短く口づけた。
翌朝、私のコーヒーには牛乳が入っていた。砂糖はない。小さな好みは何でも覚えているのに、大きなことほど一人で抱え込む。
「昨日のこと、まだ隠してる?」
「隠しているつもりはない。見せる準備ができていないだけだ」
「それ、同じじゃない?」
「……もう少し待ってくれ」
信じたい気持ちと、関係があるなら今話してほしい気持ちが胸の中でぶつかる。
九条が席を立った隙に、閉じたはずの画面が一瞬だけ明るくなった。
表示されていたファイル名は、『新居候補 最終比較』だった。
応募先から内定の連絡が届いたのは、夕食の支度をしている最中のことだった。
コトコトと音を立てる煮物の鍋を慌てて弱火にし、届いたばかりのメールの画面を、弾む鼓動を抑えながら何度も読み返す。
『慎重なる選考の結果、神崎莉乃様を来月一日付で、総務部の正社員として採用いたします』
その文字を目にした瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
前職を結婚のために辞めたこと。履歴書にできてしまった、あの暗い空白の期間。面接でその退職理由を聞かれるたびに、まるで自分のこれまでの人生や判断そのものを責められているような、いたたまれない気持ちになっていた。
けれど、もう一度、自分の足で社会に踏み出し、働くことができるのだ。
「九条!」
たまらなくなって、下の階のオフィスへと続く扉を勢いよく開き、彼の名前を呼んだ。
すると、大切な会議の最中だったらしい九条が、何事かあったのかと険しい顔をして階段を上がってきた。
「莉乃、何があった」
「受かったの!」
「何にだ」
「この前面接を受けた会社よ。内定が出たの!」
差し出すようにして、自分の携帯電話の画面を彼の目の前に突きつけた。
表示された合格の文章を一文字ずつ確かめるように読み、顔を上げて私の目を見つめた。
「おめでとう」
「……それだけ?」
「こういう時、何をすれば正解なんだ」
「もっと素直に、体全体で喜んでよ。全然顔に出てないわよ」
私が少し拗ねたように言い終わるより早く、ふわりと私の身体が宙に浮いた。
驚く私を、九条がその大きな腕で軽々と抱き上げ、リビングの床の上で一度だけ嬉しそうにくるりと回る。
「ちょっと、九条!危ないから下ろして!」
「これなら、俺の喜びが伝わるか」
「痛いほど伝わったから、早く下ろして!」
床に足が戻っても腕は緩まず、胸の中へ強く抱き締められた。
「よくやった」
私の耳元に落ちてきた彼の声は、さっきまでのビジネスの険しさが嘘のように、ずっと低くて柔らかかった。
「……あなたが、毎晩遅くまで面接の練習に付き合ってくれたおかげよ」
「お前自身の、実力で勝ち取った結果だ」
「ふふ、勝手に推薦状を送りつけようとしていた人が、よく言うわね」
「あの推薦状を書いていれば、もっと早く決まっていたはずだがな」
「私は、自分の力で受かりたかったのよ」
「知っている。だから、俺は何も手出しをしなかった」
何もしなかったと言いながら、面接の当日はビルの前でそわそわと待っていてくれたし、面接用のスーツを選ぶ時だって、仕事の合間を縫って店までついてきてくれた。十分に、ずるいくらい助けてもらった自覚はある。
「新しい会社に入るから、ここの業務委託は入社前日までということで」
私が事務的な予定を口にすると、途端に不満げに眉を寄せた。
「完全に終了する必要があるのか」
「当たり前でしょう。新しい仕事に慣れるまでは、二つの仕事を同時にこなす余裕なんて私にはないわ」
「週末の空いた時間だけでも、手伝うことはできるだろう」
「新しい会社の副業規定を、ちゃんと確認してからじゃないと無理よ」
「お前は、俺の会社よりも、まだ入社してもいない他所の会社を優先するのか」
「当たり前でしょう?向こうから正式にお給料をもらう立場になるんだから」
「給料なら、俺だって十分に払っている」
「業務委託料と、恋人としての優先順位を一緒にしないでちょうだい」
昼間はレガリアリンクの業務を手伝い、夜は応募先の企業研究をする。会社では上場審査の再開へ向けた作業が本格化し、九条も朝から会議に追われていた。
勤務中の九条は、徹底して私を「神崎さん」と呼んだ。
「神崎さん、こちらを監査資料へ追加してください」
「承知しました」
資料を受け取る。指先は触れない。目も必要以上に合わせない。
以前の九条なら、社員の前でも平然と私へ近づいたかもしれない。今は、仕事の線を守っている。
最後の社員が帰った夜、リビングでパソコンを閉じた九条へ声をかけた。
「今日、ほとんど私を見なかったでしょう」
「仕事中だったからな」
「少しくらい寂しくなかったの?」
「寂しかった」
即答され、胸が跳ねる。
立ち上がり、私の腰を抱いた。
「だから今、離す気がない」
「まだ企業研究が残ってる」
「十五分だけだ」
「何が?」
「抱き締める時間」
「長いよ」
「一日我慢した分だ」
肩へ額を預ける九条の髪を撫でる。会社では隙のない男が、二人きりになるとこんなふうに甘える。その顔を知っているのは、たぶん私だけだ。
翌日の昼休み、宮田さんが尋ねた。
「神崎さん、本当に仕事が決まったら、ここを出るんですか」
「住む場所は、九条さんと相談するつもりです」
背後から九条の声がした。
「その話は、勤務後にする」
社員の前で未来を決めつけず、それ以上は口を挟まなかった。
夕方、九条から新しいオフィス候補について説明を受けた。
「上場審査が進めば、ここでは手狭になる。監査や来客のためにも、住居と会社は分ける」
「初めて聞いた」
「まだ候補を比較している段階だ」
「決まる前にも話してね」
「ああ」
返事はしたが、どこか歯切れが悪い。
夜中、水を飲みに起きると、九条がリビングでノートパソコンを見ていた。画面には広い間取り図が表示されている。
「新しいオフィス?」
声をかけると、画面を閉じた。
「まだ見せる段階ではない」
「私にも関係がある?」
「ああ」
「なら、どうして隠すの」
「悪いことではない。もう少しだけ待ってくれ」
以前なら、その場で問い詰めたかもしれない。けれど、最終面接を控えた私にも余裕がなかった。
「決まる前に、ちゃんと話してね」
「約束する」
立ち上がり、頬へ触れた。
「眠れないのか」
「喉が渇いただけ。まだ仕事するの?」
「あと少し」
「終わったら来て」
「ベッドで待ってる?」
「寝ていたら起こさないで」
「善処する」
「起こす気でしょう」
九条が笑い、額へ短く口づけた。
翌朝、私のコーヒーには牛乳が入っていた。砂糖はない。小さな好みは何でも覚えているのに、大きなことほど一人で抱え込む。
「昨日のこと、まだ隠してる?」
「隠しているつもりはない。見せる準備ができていないだけだ」
「それ、同じじゃない?」
「……もう少し待ってくれ」
信じたい気持ちと、関係があるなら今話してほしい気持ちが胸の中でぶつかる。
九条が席を立った隙に、閉じたはずの画面が一瞬だけ明るくなった。
表示されていたファイル名は、『新居候補 最終比較』だった。
応募先から内定の連絡が届いたのは、夕食の支度をしている最中のことだった。
コトコトと音を立てる煮物の鍋を慌てて弱火にし、届いたばかりのメールの画面を、弾む鼓動を抑えながら何度も読み返す。
『慎重なる選考の結果、神崎莉乃様を来月一日付で、総務部の正社員として採用いたします』
その文字を目にした瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
前職を結婚のために辞めたこと。履歴書にできてしまった、あの暗い空白の期間。面接でその退職理由を聞かれるたびに、まるで自分のこれまでの人生や判断そのものを責められているような、いたたまれない気持ちになっていた。
けれど、もう一度、自分の足で社会に踏み出し、働くことができるのだ。
「九条!」
たまらなくなって、下の階のオフィスへと続く扉を勢いよく開き、彼の名前を呼んだ。
すると、大切な会議の最中だったらしい九条が、何事かあったのかと険しい顔をして階段を上がってきた。
「莉乃、何があった」
「受かったの!」
「何にだ」
「この前面接を受けた会社よ。内定が出たの!」
差し出すようにして、自分の携帯電話の画面を彼の目の前に突きつけた。
表示された合格の文章を一文字ずつ確かめるように読み、顔を上げて私の目を見つめた。
「おめでとう」
「……それだけ?」
「こういう時、何をすれば正解なんだ」
「もっと素直に、体全体で喜んでよ。全然顔に出てないわよ」
私が少し拗ねたように言い終わるより早く、ふわりと私の身体が宙に浮いた。
驚く私を、九条がその大きな腕で軽々と抱き上げ、リビングの床の上で一度だけ嬉しそうにくるりと回る。
「ちょっと、九条!危ないから下ろして!」
「これなら、俺の喜びが伝わるか」
「痛いほど伝わったから、早く下ろして!」
床に足が戻っても腕は緩まず、胸の中へ強く抱き締められた。
「よくやった」
私の耳元に落ちてきた彼の声は、さっきまでのビジネスの険しさが嘘のように、ずっと低くて柔らかかった。
「……あなたが、毎晩遅くまで面接の練習に付き合ってくれたおかげよ」
「お前自身の、実力で勝ち取った結果だ」
「ふふ、勝手に推薦状を送りつけようとしていた人が、よく言うわね」
「あの推薦状を書いていれば、もっと早く決まっていたはずだがな」
「私は、自分の力で受かりたかったのよ」
「知っている。だから、俺は何も手出しをしなかった」
何もしなかったと言いながら、面接の当日はビルの前でそわそわと待っていてくれたし、面接用のスーツを選ぶ時だって、仕事の合間を縫って店までついてきてくれた。十分に、ずるいくらい助けてもらった自覚はある。
「新しい会社に入るから、ここの業務委託は入社前日までということで」
私が事務的な予定を口にすると、途端に不満げに眉を寄せた。
「完全に終了する必要があるのか」
「当たり前でしょう。新しい仕事に慣れるまでは、二つの仕事を同時にこなす余裕なんて私にはないわ」
「週末の空いた時間だけでも、手伝うことはできるだろう」
「新しい会社の副業規定を、ちゃんと確認してからじゃないと無理よ」
「お前は、俺の会社よりも、まだ入社してもいない他所の会社を優先するのか」
「当たり前でしょう?向こうから正式にお給料をもらう立場になるんだから」
「給料なら、俺だって十分に払っている」
「業務委託料と、恋人としての優先順位を一緒にしないでちょうだい」



