「九条という家の名前や財産目当てで近づいてくる大人が周りに多すぎたから、あの子は昔から、女性に対しても常に一線を引いて冷たく距離を置いて生きていたの。家柄の良い方々との縁談も、ほとんどは理由をつけて断り続けて。一度だけ親に押されてお付き合いした方もいたけれど、この家へ連れてくるほど深い仲にはならなかったの」
「……玲に、そんなにたくさんの縁談があったんですか?」
「ええ、本当にたくさん。でも、あの子は『自分の人生の伴侶は自分で選ぶ』と言って頑として聞かなくてね。それが、ようやく自分で選んで連れてきた素敵な女性が、まさか白無垢姿で会社に怒鳴り込んできた型破りな人だなんて、本当に面白い子だわ」
「うう……私も、できることならもう少し普通でロマンチックな出会い方をしたかったです」
お互いに顔を見合わせ、私たちは声を合わせて楽しそうに笑い合った。
「莉乃さん。これから先、もし玲があなたに何の相談も黙ったまま、何かを一人で勝手に決めようとしたら――その時は遠慮なく、全力で怒ってあげるのよ」
「えっ……どうしてですか?」
「あの子はね、相手のためによかれと思って、自分の頭の中で相手の分の未来まで完璧に用意して完結させてしまう、悪い癖があるの。相手に何かを与えることは得意だけれど、大切なことを事前に『相談』したり、弱音を吐いて頼ったりすることが、致命的なまでに下手な子だから」
お母様のその静かな言葉が、どういうわけか私の胸の奥に、小さなトゲのように深く引っかかった。
すっかり日も落ちた帰りの静かな車内で、九条はひどく疲れた様子で、私の片肩へと自分の大きな頭をコツンと預けてきた。
「どうしたの、九条」
「……疲れた」
「自分の生まれ育った実家でしょう?」
「実家だからこそ、余計な神経を使って疲れるんだ」
呆れながらも、愛おしさを込めて彼の艶やかな黒髪を優しく指先で撫でてあげた。
「そういえば、さっきお母様から、少し変なことを聞いたわよ」
「何を話したんだ」
「あなた、昔から本当にたくさんのお見合いや縁談の話があったんだってね」
「ほとんどは興味がなかったから、その場ですぐに断った。一度だけ付き合った相手とも、長くは続かなかった」
「私なんかよりも、ずっと家柄も教養もあって、あなたに相応しい綺麗な女性ばかりだったでしょうに」
私の言葉に敏感に反応し、パッと顔を上げた。
「……莉乃、それは俺に対する嫉妬か?」
「ただの事実の確認よ」
「嘘をつけ。さっきから、縁談の相手がどんな女だったのか気にしている」
「気にしてない。ただ、聞いただけよ」
「なら、俺が過去の縁談へ一度も興味を持たなかったことだけ覚えておけ」
「……今は?」
「お前以外を隣へ置く気はない」
「もういいわ!あなたは今夜、そのまま実家へ引き返して向こうで眠ればいいじゃない!」
「それは無理な相談だな。今の俺は、お前が隣にいて抱きしめていないと、まともに眠れない身体にされているからな」
子供のように甘えるような響きで堂々と言い放たれ、私が完全に返す言葉を失っていると、勝利を確信したように満足そうな笑みを浮かべ、再び目を閉じた。
車の窓を流れる東京の美しい夜景を見つめながら、私の脳裏には、先ほどのお母様の言葉がもう一度鮮明に浮かび上がっていた。
相手に与えることは得意だが、大切なことを相談するのは下手。
九条玲という男の不器用な優しさが、遠くない未来、私たちの間に大きなすれ違いを引き起こすとは、この時の私には、まだ知る由もなかった。
九条の実家での食事会から数日後。
業務を終えた社員が全員帰ったあと、九条は私を屋上へ連れ出した。
折り畳み式のテーブルには、テイクアウトの料理と小さな花が用意されている。派手な夜景ではない。それでも、冷たい風の向こうに浮かぶ街の明かりは静かで、私たちにはちょうどよかった。
「何、これ」
「帰りの車で付き合ってほしいと言っただろう」
「言ったね」
「遠藤と対峙した直後だ。勢いで決めたと思われるのが嫌だった」
「もう一度、告白するつもり?」
「返事を聞き直す気はない」
私の正面へ立った。
「俺はお前が好きだ。三か月の居候期限が終わったあとも、恋人として一緒にいたい」
「それなら、最初からそう言って」
「言っている」
「『ここを出ていくな』って命令されると思ってた」
「本音はそうだ」
「ほら」
「だが、決めるのは二人だろう」
思いがけない返事に、九条の顔を見つめた。
「お母様に何か言われた?」
「相手のためと言いながら、勝手に相手の未来まで決めるなと釘を刺された」
「私にも何度も言われてるでしょう」
「母にまで言われて、ようやく自分が重症だと理解した」
九条が私の手を取る。
「だから聞く。三か月後、ここを出たいか」
「今のマンションは会社のオフィスを兼ねているでしょう。新しい仕事が決まったら、住む場所は改めて考えたい」
「俺とは暮らしたくない?」
「そうは言ってない。住むなら、恋人の家へ居候するんじゃなくて、二人で選んだ家に住みたい」
九条の眉間から、少しだけ力が抜けた。
「わかった。一緒に探す」
「候補を勝手に契約しないでね」
「契約はしない」
「内見の予約は?」
「……相談する」
「今、間があった」
「まだ何もしていない」
抱き寄せられ、胸元へ頬が触れた。
「そんなに私がいなくなるのが嫌?」
「嫌に決まっている。毎朝、目が覚めた時にお前がいる生活へ慣れた」
「三か月前までは一人だったでしょう」
「知らなかった頃には戻れない」
胸の奥が痛いほど熱くなる。
「そういうことを言って、私を折れさせる気?」
「少しはな」
「ずるい男」
「知っている」
唇が重なった。冷たい風の中で、九条の腕だけが熱い。
携帯電話が振動した。
画面を確認した瞬間、九条の目つきが変わる。
「監査法人から追加資料の依頼だ。明日の午前中までに必要らしい」
私から腕を離し、ジャケットの襟を直す。ほんの数秒前まで私の名前を甘く呼んでいた男が、もう経営者の顔へ戻っていた。
「戻ろう」
オフィスへ入ると、九条はパソコンを開き、私へ一枚の資料を差し出した。
「神崎さん。こちらの時系列整理をお願いできますか」
「はい、社長」
一瞬だけ目が合う。
それ以上は何もない。仕事が終わるまでは、業務委託先と代表取締役として向き合った。
翌日、九条のお父様から中途採用の募集要項が届いた。
九条グループ本社の総務職。待遇も仕事内容も申し分ない。
「……玲に、そんなにたくさんの縁談があったんですか?」
「ええ、本当にたくさん。でも、あの子は『自分の人生の伴侶は自分で選ぶ』と言って頑として聞かなくてね。それが、ようやく自分で選んで連れてきた素敵な女性が、まさか白無垢姿で会社に怒鳴り込んできた型破りな人だなんて、本当に面白い子だわ」
「うう……私も、できることならもう少し普通でロマンチックな出会い方をしたかったです」
お互いに顔を見合わせ、私たちは声を合わせて楽しそうに笑い合った。
「莉乃さん。これから先、もし玲があなたに何の相談も黙ったまま、何かを一人で勝手に決めようとしたら――その時は遠慮なく、全力で怒ってあげるのよ」
「えっ……どうしてですか?」
「あの子はね、相手のためによかれと思って、自分の頭の中で相手の分の未来まで完璧に用意して完結させてしまう、悪い癖があるの。相手に何かを与えることは得意だけれど、大切なことを事前に『相談』したり、弱音を吐いて頼ったりすることが、致命的なまでに下手な子だから」
お母様のその静かな言葉が、どういうわけか私の胸の奥に、小さなトゲのように深く引っかかった。
すっかり日も落ちた帰りの静かな車内で、九条はひどく疲れた様子で、私の片肩へと自分の大きな頭をコツンと預けてきた。
「どうしたの、九条」
「……疲れた」
「自分の生まれ育った実家でしょう?」
「実家だからこそ、余計な神経を使って疲れるんだ」
呆れながらも、愛おしさを込めて彼の艶やかな黒髪を優しく指先で撫でてあげた。
「そういえば、さっきお母様から、少し変なことを聞いたわよ」
「何を話したんだ」
「あなた、昔から本当にたくさんのお見合いや縁談の話があったんだってね」
「ほとんどは興味がなかったから、その場ですぐに断った。一度だけ付き合った相手とも、長くは続かなかった」
「私なんかよりも、ずっと家柄も教養もあって、あなたに相応しい綺麗な女性ばかりだったでしょうに」
私の言葉に敏感に反応し、パッと顔を上げた。
「……莉乃、それは俺に対する嫉妬か?」
「ただの事実の確認よ」
「嘘をつけ。さっきから、縁談の相手がどんな女だったのか気にしている」
「気にしてない。ただ、聞いただけよ」
「なら、俺が過去の縁談へ一度も興味を持たなかったことだけ覚えておけ」
「……今は?」
「お前以外を隣へ置く気はない」
「もういいわ!あなたは今夜、そのまま実家へ引き返して向こうで眠ればいいじゃない!」
「それは無理な相談だな。今の俺は、お前が隣にいて抱きしめていないと、まともに眠れない身体にされているからな」
子供のように甘えるような響きで堂々と言い放たれ、私が完全に返す言葉を失っていると、勝利を確信したように満足そうな笑みを浮かべ、再び目を閉じた。
車の窓を流れる東京の美しい夜景を見つめながら、私の脳裏には、先ほどのお母様の言葉がもう一度鮮明に浮かび上がっていた。
相手に与えることは得意だが、大切なことを相談するのは下手。
九条玲という男の不器用な優しさが、遠くない未来、私たちの間に大きなすれ違いを引き起こすとは、この時の私には、まだ知る由もなかった。
九条の実家での食事会から数日後。
業務を終えた社員が全員帰ったあと、九条は私を屋上へ連れ出した。
折り畳み式のテーブルには、テイクアウトの料理と小さな花が用意されている。派手な夜景ではない。それでも、冷たい風の向こうに浮かぶ街の明かりは静かで、私たちにはちょうどよかった。
「何、これ」
「帰りの車で付き合ってほしいと言っただろう」
「言ったね」
「遠藤と対峙した直後だ。勢いで決めたと思われるのが嫌だった」
「もう一度、告白するつもり?」
「返事を聞き直す気はない」
私の正面へ立った。
「俺はお前が好きだ。三か月の居候期限が終わったあとも、恋人として一緒にいたい」
「それなら、最初からそう言って」
「言っている」
「『ここを出ていくな』って命令されると思ってた」
「本音はそうだ」
「ほら」
「だが、決めるのは二人だろう」
思いがけない返事に、九条の顔を見つめた。
「お母様に何か言われた?」
「相手のためと言いながら、勝手に相手の未来まで決めるなと釘を刺された」
「私にも何度も言われてるでしょう」
「母にまで言われて、ようやく自分が重症だと理解した」
九条が私の手を取る。
「だから聞く。三か月後、ここを出たいか」
「今のマンションは会社のオフィスを兼ねているでしょう。新しい仕事が決まったら、住む場所は改めて考えたい」
「俺とは暮らしたくない?」
「そうは言ってない。住むなら、恋人の家へ居候するんじゃなくて、二人で選んだ家に住みたい」
九条の眉間から、少しだけ力が抜けた。
「わかった。一緒に探す」
「候補を勝手に契約しないでね」
「契約はしない」
「内見の予約は?」
「……相談する」
「今、間があった」
「まだ何もしていない」
抱き寄せられ、胸元へ頬が触れた。
「そんなに私がいなくなるのが嫌?」
「嫌に決まっている。毎朝、目が覚めた時にお前がいる生活へ慣れた」
「三か月前までは一人だったでしょう」
「知らなかった頃には戻れない」
胸の奥が痛いほど熱くなる。
「そういうことを言って、私を折れさせる気?」
「少しはな」
「ずるい男」
「知っている」
唇が重なった。冷たい風の中で、九条の腕だけが熱い。
携帯電話が振動した。
画面を確認した瞬間、九条の目つきが変わる。
「監査法人から追加資料の依頼だ。明日の午前中までに必要らしい」
私から腕を離し、ジャケットの襟を直す。ほんの数秒前まで私の名前を甘く呼んでいた男が、もう経営者の顔へ戻っていた。
「戻ろう」
オフィスへ入ると、九条はパソコンを開き、私へ一枚の資料を差し出した。
「神崎さん。こちらの時系列整理をお願いできますか」
「はい、社長」
一瞬だけ目が合う。
それ以上は何もない。仕事が終わるまでは、業務委託先と代表取締役として向き合った。
翌日、九条のお父様から中途採用の募集要項が届いた。
九条グループ本社の総務職。待遇も仕事内容も申し分ない。



