白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

「なんで……なんで、一番近くにいて気づかなかったのよ!」
「俺に当たるな!」
「一番近くにいた親友で、ビジネスパートナーでしょう!?会社のお金まで抜かれて、あなた一体、彼の何を見ていたのよ!」

 胃の奥が、氷を詰め込まれたように冷たく凍りついていく。
 それなのに、やっぱり涙は出てこなかった。
 悔しさと、惨めさと、言葉にならない屈辱が、目の前の男への怒りへと姿を変えて爆発する。

「いくら共同経営者だからって、私生活の裏まで監視できるわけがないだろう!」
「お金の流れは仕事でしょう!あなたの役割じゃない!」
「見落とした責任は認める!だが、お前にそこまで責められる筋合いは――」
「あるわよ!!」

 叫びながら、白無垢の袖をぎゅっと握りしめた。指先が情けなく震える。

「私、この結婚のために仕事も辞めたの!家も引き払ったの!新居が決まるまで、ここであいつと生きるために全部、全部手放したのよ!なんで気づいてくれなかったの……っ。私、もう行く場所なんてどこにもないのよ!」

 九条の顔にも、隠しきれない疲労と苛烈な怒りが滲み出る。

「――その気の強さで、直前になって逃げ出したくなったんじゃないのか」

 ピリッ、と部屋の空気が凍りついた。
 言葉を吐き出した直後、九条自身がハッとしたように目を見開く。

「……すまない。今のは、俺が最低だった」
「ええ。本当に最低。最悪よ」

 そのまま踵を返して出て行く気力さえ失い、目の前の大きなソファへとドサリと腰を下ろす。
 がちがちに固められた帯のせいで背筋を伸ばすしかなく、深く身を預けることさえできない。
 とりあえず、頭が重い……綿帽子をゆっくりと外す。

「……何をしている」
「ここに住むわ」
「は?」
「次の仕事と、住む家が決まるまで。失業給付が出るまでの間よ。最長で三か月」
「正気か?ここは俺の自宅で、会社の役員フロアでもあるんだぞ」
「拓也の部屋、綺麗さっぱり空いたでしょう?」
「他人の家に居座る宣言を平然とするな」
「ただで置いてとは言わない。家賃の代わりに、掃除も洗濯も食事の支度も全部やる。これでも元総務だから、あなたの会社の備品管理だって手伝ってあげるわよ」
「そういう問題じゃないと言っている」
「じゃあ、何?結婚式当日に男に逃げられた白無垢姿の女を、今すぐ路上に放り出すっていうの?」

 九条は苦々しく口を閉ざした。
 ぐっと言葉に詰まった彼の顔を、ソファから真っ直ぐに見上げる。

「あなたも被害者で、私も被害者。もしかしたら、拓也が戻ってくる可能性だってゼロじゃない。あいつの裏切りの証拠を集めるなら、私という当事者がここにいた方が、絶対に役に立つはずよ」
「…………三か月だけだ」
「交渉成立ね」
「ただし、まだ条件がある。下の社員たちの仕事を絶対に邪魔しないこと。会社の書類には勝手に触れないこと。……それから、男を連れ込まないこと」
「結婚式の当日に男に逃げられた女に向かって、よくそんな心配ができるわね。嫌味?」
「……念のためだ」

 九条はひどく疲れた様子で額を押さえたあと、革の財布から、一枚の黒いカードを細い指先で引き抜いた。

「近くのショップで、当面の着替えと日用品を買い揃えてこい」
「これ、何?」
「見れば分かるだろう、クレジットカードだ」
「それくらい分かるわよ。どうしてこんなに黒いのって聞いてるの」
「余計なものは買うなよ」
「質問の答えになってない」
「早く行け。そんな白無垢姿で、下の社員たちに遭遇したくないだろう」

 差し出されたカードを受け取る。ずしりと奇妙な重みを感じるのは、私の先入観のせいだろうか。
 重い裾を抱え、玄関へ向かいかけて、ふと足を止める。

「暗証番号は?」
「必要ない。サインで使えるようにしてある」
「何それ、怖いんだけど。上限とかないの?」
「限度額を気にするような買い方だけはするな、と言っているんだ」

 手の中の、冷たい黒いカードを強く握りしめた。
 信じていた花婿には、最悪の形で逃げられた。
 けれどその代わりに、彼の、偏屈で傲慢な親友と暮らすことになってしまった。

 人生で最悪の日は、どうやらまだ、終わりを迎えてはくれないらしい。

 ――さすがの私でも、白無垢姿で駅前の量販店まで突き進む勇気は持ち合わせていなかった。

 九条に手配してもらったタクシーに滑り込み、駅前の商業施設へと向かう。車内から式場へ連絡を入れると、衣装担当の女性が慌てて着替えのワンピースを携えて駆けつけてくれることになった。
 施設の多目的化粧室をお借りして、ようやく重たい白無垢を脱ぎ捨てる。
 スタッフの方が用意してくれた簡易的なネイビーのワンピースに袖を通し、がちがちに固められていた帯を外した瞬間、潰されていた肺に一気に酸素が流れ込んできた。
 身体がふっと軽くなった分、置き去りにされた現実の重みだけが、容赦なく両肩にのしかかってくる。

「……お衣装は、私どもで責任を持って式場へ戻しますね。神崎様、ご家族の皆様も、皆様本当に心配されていました」
「すみません、ご迷惑をおかけして……。あとで、必ず私から連絡を入れます」
「謝らないでください、神崎様。あなたは、何も悪くないのですから」

 そっと背中に添えられた温かい手のひらと、慈しむようなその言葉。
 それを聞いた途端、視界が急激に歪んで、熱い涙が溢れそうになった。
 慌ててきつく唇を噛み締め、ぐっと頭を下げて化粧室を飛び出す。
 今、一滴でも涙を流したら、二度と立ち上がれなくなる。泣くのは、すべての決着をつけて、あいつを地獄に叩き落としてからでいい。

 九条から預かった漆黒のカードを手に、最低限の下着と部屋着、それから明日以降の活動にも使えそうなシンプルなパンツとブラウス、洗面用品だけをカゴに入れた。
 場違いなほど高級感のあるカードを前に、値札を何度も何度も執拗に確認し、合計金額をスマートフォンのメモに残していく。
 いざレジでカードを差し出すと、若い女性店員がレジの手を止め、一瞬だけ私の顔を不審そうに覗き込んだ。

「……恐れ入ります、ご本人様のお名義と異なるようですが……」
「借りものです。今、目の前で本人に確認を取りますね」

 すぐさま九条へ電話を掛ける。二コール目で、億劫そうな低い声が耳元に響いた。

『……何だ』
「お店の人が本人確認したいって。そもそも、このカード、本当に普通に使って大丈夫なのよね?」
『渡しただろう。好きにしろと言ったはずだ』
「暗証番号も知らない、他人名義のブラックカードなんて、普通の一般市民は怖くて震えるの!」
『……店員に代われ』