「勤務中は一度も目を合わせなかったでしょう」
「見ていた。気づかれないように」
「触りもしなかった」
「我慢した」
腰を抱かれ、胸元へ引き寄せられる。
「たった九時間よ」
「九時間も、だ」
唇が触れる直前、低く囁いた。
「ここからは莉乃に戻れ」
「私、ずっと莉乃だけど」
「会社では、俺の有能な業務委託先だ」
「家では?」
「離したくない恋人だ」
触れるだけの口づけが、すぐに深くなる。昼間の冷静さが嘘のように、九条の指は私の髪を何度も梳いた。
「公私を分けすぎじゃない?」
「分けろと言ったのはお前だ」
「ここまで徹底するとは思わなかったの」
「嫌か」
「……少し寂しかった、かも」
正直に言うと、九条の目がやわらかく細められた。
「俺もだ。だから家では甘やかす」
「誰を?」
「俺を」
思わず笑うと、抱く腕が強くなる。
初めての報酬が振り込まれた日、社員全員のために少し高価な牛肉を買い、すき焼きを作った。
「せっかくの報酬を会社の食費へ戻す気か」
「私がみんなと食べたいの」
「なら、今日はごちそうになる」
私のこだわりを押し切らず、素直に箸を取った。
食事の席でも、彼は他の社員と同じ距離を保っている。ただ一度、私が取り皿を渡した時にだけ、誰にも見えない角度で親指が手の甲を撫でた。
その小さな秘密が、以前の露骨なからかいよりずっと甘かった。
しかし翌朝、枕元の携帯電話が鳴った。
画面を見た九条の顔が険しくなる。
「誰から?」
「祖父だ」
短い通話を終えた九条が、ベッドの中で私を見つめた。
「今週末、実家へ食事に行く。祖父と両親が、お前に会いたいそうだ」
「九条グループの、あのご実家へ?」
「ああ」
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「そんな大事なこと、もっと心の準備をさせてよ!」
「安心しろ。俺も今、初めて聞いた」
「全然安心できない!」
慌てる私を抱き寄せ、耳元で小さく笑った。
「家族の前では、俺がお前の隣にいる」
仕事中には見せない甘い声が、かえって緊張を強くした。
九条の実家は、都心の喧騒から切り離された一等地にしずかに佇む大きな洋館だった。
視界を遮るほどに高くそびえる石造りの塀の向こうには、美しく手入れされた広大な庭園が広がっており、重厚な鉄製の正門をくぐってから玄関口にたどり着くまで、車でしばらく走り続けなければならないほどだった。ここは豪華なホテルではない。たった一つの家族が当たり前に暮らすためだけに、これほど果てしない土地と建物が存在しているのだという事実に、早くも圧倒されていた。
「……ねえ、やっぱり今からでもマンションに帰りたい」
緊張のあまり吐き気すら覚えながら、私が車内で小さく音を上げる。
「もう門を入ったあとにそんな往生際の悪いことを言うな」
「言ってみただけよ、気持ちの整理のためにね」
「そんなことを言いながら、手が信じられないくらい冷たいぞ」
震える指先を、大きな掌で包み込むようにしてぎゅっと握り締めてくれた。
「……だって、本当に緊張しているんだもの。私みたいな庶民がこんなところに来て、手ひどく追い返されたらどうしようって思って」
「仮に俺の家族の誰かにお前が嫌われたとしても、俺とお前の関係は何一つ変わらない。だから余計な心配はするな」
「ちょっと、会う前から揉める前提で話をするのはやめてちょうだい」
「お前のその気の強さなら、うちの祖父と初対面で喧嘩をしかねないからな」
「……お祖父様って、一体どんな方なの?」
「俺よりも遥かに口が悪い」
「最悪じゃない」
「だが、筋だけはきっちりと通す人間だ」
車が静かに停車し、重厚な玄関の扉が開くと、そこには九条のお母さんが上品な笑みを浮かべて待っていた。
とても五十代には見えないほどに若々しく肌が艶やかで、洗練された淡い灰色のワンピースを美しく着こなしている。九条とよく似た切れ長の鋭い目元をしているけれど、その表情や纏う空気は驚くほどに柔らかかった。
「莉乃さんね。玲の母です。今日は急なお誘いだったのに、わざわざ来てくださって本当にありがとう」
「神崎莉乃と申します。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
「そんなに肩肘を張って緊張しないでちょうだい。玲が女性をこの家へ連れてくるなんて生まれて初めてのことだから、実は私たち家族の方が朝から落ち着かなくて大変だったのよ」
「母さん、余計なことを言うな」
「あら、本当のことでしょう?」
お母さんにからかわれ、彼はひどく嫌そうな顔をしてフイと目を逸らした。その人間らしいやり取りに、私のガチガチだった緊張がほんの少しだけ解けていく。
案内された格式高い食堂には、すでに九条のお父さんとお祖父さんも席について揃っていた。
威厳に満ちた佇まいのお祖父様は、九条の顔を見るなり、フンと鼻を鳴らして冷ややかに言い放った。
「遅いぞ、玲」
「約束の時間の五分前ですが」
「大事な客人を迎える側が、待たせるような真似をするなという意味だ」
「客人である莉乃は、俺と一緒に来ました。待たせてはいません」
「相変わらず、口答えの屁理屈だけは一人前だな」
九条が車内で言っていたとおり、この二人は恐ろしいほどの似た者同士のようだった。
私が一歩前に出て緊張しながら挨拶を済ませると、お祖父様は私の顔をまっすぐ正面から鋭い眼光で見つめてきた。
「見ていた。気づかれないように」
「触りもしなかった」
「我慢した」
腰を抱かれ、胸元へ引き寄せられる。
「たった九時間よ」
「九時間も、だ」
唇が触れる直前、低く囁いた。
「ここからは莉乃に戻れ」
「私、ずっと莉乃だけど」
「会社では、俺の有能な業務委託先だ」
「家では?」
「離したくない恋人だ」
触れるだけの口づけが、すぐに深くなる。昼間の冷静さが嘘のように、九条の指は私の髪を何度も梳いた。
「公私を分けすぎじゃない?」
「分けろと言ったのはお前だ」
「ここまで徹底するとは思わなかったの」
「嫌か」
「……少し寂しかった、かも」
正直に言うと、九条の目がやわらかく細められた。
「俺もだ。だから家では甘やかす」
「誰を?」
「俺を」
思わず笑うと、抱く腕が強くなる。
初めての報酬が振り込まれた日、社員全員のために少し高価な牛肉を買い、すき焼きを作った。
「せっかくの報酬を会社の食費へ戻す気か」
「私がみんなと食べたいの」
「なら、今日はごちそうになる」
私のこだわりを押し切らず、素直に箸を取った。
食事の席でも、彼は他の社員と同じ距離を保っている。ただ一度、私が取り皿を渡した時にだけ、誰にも見えない角度で親指が手の甲を撫でた。
その小さな秘密が、以前の露骨なからかいよりずっと甘かった。
しかし翌朝、枕元の携帯電話が鳴った。
画面を見た九条の顔が険しくなる。
「誰から?」
「祖父だ」
短い通話を終えた九条が、ベッドの中で私を見つめた。
「今週末、実家へ食事に行く。祖父と両親が、お前に会いたいそうだ」
「九条グループの、あのご実家へ?」
「ああ」
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「そんな大事なこと、もっと心の準備をさせてよ!」
「安心しろ。俺も今、初めて聞いた」
「全然安心できない!」
慌てる私を抱き寄せ、耳元で小さく笑った。
「家族の前では、俺がお前の隣にいる」
仕事中には見せない甘い声が、かえって緊張を強くした。
九条の実家は、都心の喧騒から切り離された一等地にしずかに佇む大きな洋館だった。
視界を遮るほどに高くそびえる石造りの塀の向こうには、美しく手入れされた広大な庭園が広がっており、重厚な鉄製の正門をくぐってから玄関口にたどり着くまで、車でしばらく走り続けなければならないほどだった。ここは豪華なホテルではない。たった一つの家族が当たり前に暮らすためだけに、これほど果てしない土地と建物が存在しているのだという事実に、早くも圧倒されていた。
「……ねえ、やっぱり今からでもマンションに帰りたい」
緊張のあまり吐き気すら覚えながら、私が車内で小さく音を上げる。
「もう門を入ったあとにそんな往生際の悪いことを言うな」
「言ってみただけよ、気持ちの整理のためにね」
「そんなことを言いながら、手が信じられないくらい冷たいぞ」
震える指先を、大きな掌で包み込むようにしてぎゅっと握り締めてくれた。
「……だって、本当に緊張しているんだもの。私みたいな庶民がこんなところに来て、手ひどく追い返されたらどうしようって思って」
「仮に俺の家族の誰かにお前が嫌われたとしても、俺とお前の関係は何一つ変わらない。だから余計な心配はするな」
「ちょっと、会う前から揉める前提で話をするのはやめてちょうだい」
「お前のその気の強さなら、うちの祖父と初対面で喧嘩をしかねないからな」
「……お祖父様って、一体どんな方なの?」
「俺よりも遥かに口が悪い」
「最悪じゃない」
「だが、筋だけはきっちりと通す人間だ」
車が静かに停車し、重厚な玄関の扉が開くと、そこには九条のお母さんが上品な笑みを浮かべて待っていた。
とても五十代には見えないほどに若々しく肌が艶やかで、洗練された淡い灰色のワンピースを美しく着こなしている。九条とよく似た切れ長の鋭い目元をしているけれど、その表情や纏う空気は驚くほどに柔らかかった。
「莉乃さんね。玲の母です。今日は急なお誘いだったのに、わざわざ来てくださって本当にありがとう」
「神崎莉乃と申します。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
「そんなに肩肘を張って緊張しないでちょうだい。玲が女性をこの家へ連れてくるなんて生まれて初めてのことだから、実は私たち家族の方が朝から落ち着かなくて大変だったのよ」
「母さん、余計なことを言うな」
「あら、本当のことでしょう?」
お母さんにからかわれ、彼はひどく嫌そうな顔をしてフイと目を逸らした。その人間らしいやり取りに、私のガチガチだった緊張がほんの少しだけ解けていく。
案内された格式高い食堂には、すでに九条のお父さんとお祖父さんも席について揃っていた。
威厳に満ちた佇まいのお祖父様は、九条の顔を見るなり、フンと鼻を鳴らして冷ややかに言い放った。
「遅いぞ、玲」
「約束の時間の五分前ですが」
「大事な客人を迎える側が、待たせるような真似をするなという意味だ」
「客人である莉乃は、俺と一緒に来ました。待たせてはいません」
「相変わらず、口答えの屁理屈だけは一人前だな」
九条が車内で言っていたとおり、この二人は恐ろしいほどの似た者同士のようだった。
私が一歩前に出て緊張しながら挨拶を済ませると、お祖父様は私の顔をまっすぐ正面から鋭い眼光で見つめてきた。



