パーティでの一件は、翌朝には経済関係者や若手起業家の間へ広がっていた。
九条が公の場で拓也との関係を否定したため、レガリアリンクには早朝から事実確認の電話が相次いでいる。拓也の名刺を受け取り、すでに投資話を進めていた経営者までいた。
「確認できた契約候補は、こちらで全部です」
宮田さんが一覧を差し出す。
「遠藤個人が持ちかけた話でも、当社の名前を使っている以上は放置できない。広報文と弁護士の窓口を一本化する」
画面から顔を上げず、必要な指示だけを出していく。
社員の視線が一瞬、私の首元へ集まった。昨夜の痕を隠すため、季節外れのハイネックを着てきたせいだ。
「神崎さん、今日はずいぶん暖かそうですね」
佐伯さんが何気ない顔で言う。
「冷え性なのよ」
「佐伯」
九条の低い声が飛んだ。
「神崎さんの服装を詮索する暇があるなら、問い合わせ先の確認を進めろ」
「はい。失礼しました」
佐伯さんはすぐに画面へ向き直った。
こちらを見ない。昨夜、あれほど近くで名前を呼んだ男とは思えないほど、仕事の顔を崩さなかった。
昼過ぎ、顧問弁護士から連絡が入った。
拓也は都内のホテルで任意の事情聴取を受けており、旅券や複数の口座も調べられているという。ただし、本人は会社の金を新事業へ投資しただけだと、今も主張していた。
「結婚式については、破談の意思を事前に伝えたつもりだった、と話しているそうです」
「何も言わずに来なかっただけで?」
思わず声が尖る。
「どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのよ」
喉の奥が熱くなった。手元の書類の文字が、少しだけ滲んで見える。
「神崎さん」
九条が私を名字で呼んだ。
「午後の作業は宮田へ引き継いで、上で休んでください」
「まだできるわ」
「業務上の指示です」
反論しかけた私へ、九条は静かに続けた。
「今の状態で続けても、確認漏れが起きる。今日は休むことも仕事だ」
周囲に社員がいるから、手を伸ばしてはこない。それでも、声の底にある心配は私にだけわかった。
「……わかりました」
上階へ戻り、水を飲んでいると、しばらくして扉が開いた。九条が一人で入ってくる。
「仕事は?」
「五分だけ抜けた」
「さっき神崎さんって呼んだ」
「仕事中だったからな」
「触りもしなかった」
「お前が公私を分けろと言った」
「守っているのね」
「守った」
私の前まで来ると、ようやく腰へ腕を回した。
「だから今だけは、離す気がない」
胸元へ頬を寄せる。社員の前では一切見せなかった体温が、背中へゆっくり回る手から伝わってきた。
「五分だけでしょう」
「四分残っている」
「数えているの?」
「お前に触れられる時間ならな」
額へ一度だけ口づけると、本当に時間どおりに腕を離した。扉を開ける前には、もう冷静な社長の顔へ戻っている。
午後三時を過ぎた頃、顧問弁護士から再び連絡が入った。
遠藤拓也が、業務上横領、私文書偽造、複数の投資家に対する詐欺の疑いで正式に逮捕された。
オフィスを覆っていた緊張が、長い息とともにほどけていく。
胸へ手を当てた。嬉しいとも、ざまあみろとも思わなかった。ただ、結婚式の日から背後を追い続けていた影が、ようやく止まった。
「……終わったのかな」
「あいつの裁判はこれからだ。だが、もう好き勝手に逃げ回ることはできない」
社員の前では、それだけを答えた。
その夜、オフィスで小さな慰労会を開いた。
社員たちは料理を囲み、拓也に振り回された日々を少しずつ口にした。約束を守らなかったこと。都合の悪い案件を押しつけられたこと。今だから笑える失敗もあれば、まだ声が震える話もある。
傷ついたのは、私と九条だけではない。
会の終わりに、宮田さんが小さなホールケーキを運んできた。白いクリームの上には、『再出発』と書かれたプレートが載っている。
「誰の誕生日でもありません。新しいレガリアリンクと、ここにいる全員の再出発を祝うケーキです」
拍手が起きた。
照れたように視線を外したが、社員の前で私へ触れることはなかった。
最後の一人が帰り、エレベーターの音が遠ざかる。
その瞬間、背後から腕が回ってきた。
「今日一日、よく我慢したわね」
「限界だった」
「社長なのに?」
「社長だから我慢した」
頬へ触れる指は、驚くほど甘い。
「莉乃。ここからは、俺の恋人としてそばにいろ」
昼間ずっと名字で呼ばれていた分、耳元へ落ちた『莉乃』の二文字が、胸の奥へ深く沁みた。
拓也が逮捕されてから、一か月が過ぎた。
レガリアリンクでは、上場審査の再開に向けた作業が本格化している。不正の公表、承認フローの見直し、監査法人との面談。慌ただしさは変わらないが、以前の殺伐とした空気は消えていた。
恋人になってから、勤務中の九条はむしろ私との距離を取るようになった。
「神崎さん、この契約書を確認してください」
「はい」
資料を渡す指先すら触れない。私を名字で呼び、仕事の質問には簡潔に答え、用が済めばすぐ自席へ戻る。
社員たちが、本当に付き合っているのかと疑い始めるほどだった。
昼食後、宮田さんが一通の契約書を差し出した。
「神崎さんの業務委託契約書です。これまで手伝っていただいた分も含め、正式に報酬をお支払いします」
「ちょっと、九条さん。お金のことを勝手に決めないでって言ったでしょう」
「契約するかどうかを決めるのは、神崎さんです。会社として、業務範囲と適正な金額を提示しただけです」
完全に仕事の声で答えた。
記載された報酬は、以前の月収より高い。宮田さんへ確認すると、市場相場として妥当だという。
「なお、今後の報酬査定と契約更新の判断から、私は外れます」
「え?」
「宮田と顧問弁護士で判断してもらう。恋人だから甘く評価したとも、逆に厳しく扱ったとも言わせない」
書類を指で示した。
「家事は業務委託の範囲外です。仕事と私生活は分けます」
あまりにきっちり線を引かれ、胸の奥が少しくすぐったくなる。
「そこまでしなくてもいいのに」
「必要だ。お前の仕事を、俺との関係の付属品にしたくない」
その一言に、契約書を持つ指へ力が入った。
夜まで内容を読み込み、疑問点を確認してから署名した。
最後の社員が帰り、エレベーターが下りていく音がする。デスクの画面を閉じ、ネクタイを緩めた。
「今日の業務は終わりだ」
「お疲れさまでした、九条社長」
「その呼び方はやめろ」
椅子から立った九条が、まっすぐ私のところへ来る。
九条が公の場で拓也との関係を否定したため、レガリアリンクには早朝から事実確認の電話が相次いでいる。拓也の名刺を受け取り、すでに投資話を進めていた経営者までいた。
「確認できた契約候補は、こちらで全部です」
宮田さんが一覧を差し出す。
「遠藤個人が持ちかけた話でも、当社の名前を使っている以上は放置できない。広報文と弁護士の窓口を一本化する」
画面から顔を上げず、必要な指示だけを出していく。
社員の視線が一瞬、私の首元へ集まった。昨夜の痕を隠すため、季節外れのハイネックを着てきたせいだ。
「神崎さん、今日はずいぶん暖かそうですね」
佐伯さんが何気ない顔で言う。
「冷え性なのよ」
「佐伯」
九条の低い声が飛んだ。
「神崎さんの服装を詮索する暇があるなら、問い合わせ先の確認を進めろ」
「はい。失礼しました」
佐伯さんはすぐに画面へ向き直った。
こちらを見ない。昨夜、あれほど近くで名前を呼んだ男とは思えないほど、仕事の顔を崩さなかった。
昼過ぎ、顧問弁護士から連絡が入った。
拓也は都内のホテルで任意の事情聴取を受けており、旅券や複数の口座も調べられているという。ただし、本人は会社の金を新事業へ投資しただけだと、今も主張していた。
「結婚式については、破談の意思を事前に伝えたつもりだった、と話しているそうです」
「何も言わずに来なかっただけで?」
思わず声が尖る。
「どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのよ」
喉の奥が熱くなった。手元の書類の文字が、少しだけ滲んで見える。
「神崎さん」
九条が私を名字で呼んだ。
「午後の作業は宮田へ引き継いで、上で休んでください」
「まだできるわ」
「業務上の指示です」
反論しかけた私へ、九条は静かに続けた。
「今の状態で続けても、確認漏れが起きる。今日は休むことも仕事だ」
周囲に社員がいるから、手を伸ばしてはこない。それでも、声の底にある心配は私にだけわかった。
「……わかりました」
上階へ戻り、水を飲んでいると、しばらくして扉が開いた。九条が一人で入ってくる。
「仕事は?」
「五分だけ抜けた」
「さっき神崎さんって呼んだ」
「仕事中だったからな」
「触りもしなかった」
「お前が公私を分けろと言った」
「守っているのね」
「守った」
私の前まで来ると、ようやく腰へ腕を回した。
「だから今だけは、離す気がない」
胸元へ頬を寄せる。社員の前では一切見せなかった体温が、背中へゆっくり回る手から伝わってきた。
「五分だけでしょう」
「四分残っている」
「数えているの?」
「お前に触れられる時間ならな」
額へ一度だけ口づけると、本当に時間どおりに腕を離した。扉を開ける前には、もう冷静な社長の顔へ戻っている。
午後三時を過ぎた頃、顧問弁護士から再び連絡が入った。
遠藤拓也が、業務上横領、私文書偽造、複数の投資家に対する詐欺の疑いで正式に逮捕された。
オフィスを覆っていた緊張が、長い息とともにほどけていく。
胸へ手を当てた。嬉しいとも、ざまあみろとも思わなかった。ただ、結婚式の日から背後を追い続けていた影が、ようやく止まった。
「……終わったのかな」
「あいつの裁判はこれからだ。だが、もう好き勝手に逃げ回ることはできない」
社員の前では、それだけを答えた。
その夜、オフィスで小さな慰労会を開いた。
社員たちは料理を囲み、拓也に振り回された日々を少しずつ口にした。約束を守らなかったこと。都合の悪い案件を押しつけられたこと。今だから笑える失敗もあれば、まだ声が震える話もある。
傷ついたのは、私と九条だけではない。
会の終わりに、宮田さんが小さなホールケーキを運んできた。白いクリームの上には、『再出発』と書かれたプレートが載っている。
「誰の誕生日でもありません。新しいレガリアリンクと、ここにいる全員の再出発を祝うケーキです」
拍手が起きた。
照れたように視線を外したが、社員の前で私へ触れることはなかった。
最後の一人が帰り、エレベーターの音が遠ざかる。
その瞬間、背後から腕が回ってきた。
「今日一日、よく我慢したわね」
「限界だった」
「社長なのに?」
「社長だから我慢した」
頬へ触れる指は、驚くほど甘い。
「莉乃。ここからは、俺の恋人としてそばにいろ」
昼間ずっと名字で呼ばれていた分、耳元へ落ちた『莉乃』の二文字が、胸の奥へ深く沁みた。
拓也が逮捕されてから、一か月が過ぎた。
レガリアリンクでは、上場審査の再開に向けた作業が本格化している。不正の公表、承認フローの見直し、監査法人との面談。慌ただしさは変わらないが、以前の殺伐とした空気は消えていた。
恋人になってから、勤務中の九条はむしろ私との距離を取るようになった。
「神崎さん、この契約書を確認してください」
「はい」
資料を渡す指先すら触れない。私を名字で呼び、仕事の質問には簡潔に答え、用が済めばすぐ自席へ戻る。
社員たちが、本当に付き合っているのかと疑い始めるほどだった。
昼食後、宮田さんが一通の契約書を差し出した。
「神崎さんの業務委託契約書です。これまで手伝っていただいた分も含め、正式に報酬をお支払いします」
「ちょっと、九条さん。お金のことを勝手に決めないでって言ったでしょう」
「契約するかどうかを決めるのは、神崎さんです。会社として、業務範囲と適正な金額を提示しただけです」
完全に仕事の声で答えた。
記載された報酬は、以前の月収より高い。宮田さんへ確認すると、市場相場として妥当だという。
「なお、今後の報酬査定と契約更新の判断から、私は外れます」
「え?」
「宮田と顧問弁護士で判断してもらう。恋人だから甘く評価したとも、逆に厳しく扱ったとも言わせない」
書類を指で示した。
「家事は業務委託の範囲外です。仕事と私生活は分けます」
あまりにきっちり線を引かれ、胸の奥が少しくすぐったくなる。
「そこまでしなくてもいいのに」
「必要だ。お前の仕事を、俺との関係の付属品にしたくない」
その一言に、契約書を持つ指へ力が入った。
夜まで内容を読み込み、疑問点を確認してから署名した。
最後の社員が帰り、エレベーターが下りていく音がする。デスクの画面を閉じ、ネクタイを緩めた。
「今日の業務は終わりだ」
「お疲れさまでした、九条社長」
「その呼び方はやめろ」
椅子から立った九条が、まっすぐ私のところへ来る。



