白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

「九条……」
「神崎さん、こちらへ」

 私へ触れず、拓也から完全に庇う位置を崩さなかった。

「彼女がどこで誰と生きるかは、彼女自身が決めることだ。お前の下劣な言葉で、その価値を決めさせるつもりはない」

 私情を匂わせる言葉は一つもない。それでも、私を一人の人間として守る姿勢が、冷え切った胸を熱く満たした。
 拓也の周囲に群がっていた投資家たちの中には、さっきまで「あのレガリアリンクの共同創業者なら安心だ」などと口にしていた者もいたけれど、その輝かしい信用が、本当は九条や残された真面目な社員たちの地道な努力の積み重ねだけで出来上がっていたものだと知っている私には、胸ポケットに折れた名刺を突き刺されたまま呆然と立ち尽くす拓也の歪んだ笑顔が、これまでの人生のどの瞬間よりも、ひどく醜く、哀れなものに見えていた。

 華やかなパーティ会場を出たあと、逃げ込むようにしてホテルの広々とした化粧室へ駆け込んだ。
 大理石の洗面台の前で、冷たい水を勢いよく出して両手を洗う。水は凍るように冷たいというのに、胸の奥の激しい動揺のせいか、指先の震えがどうしても止まらなかった。

 あいつに向かって、ずっと言いたかったことはすべて完璧に言い返せた。
 拓也の哀れな負け犬の顔を間近で見ても、あの穏やかだった日々に少しでも戻りたいなんて、心から一度だって思わなかった。
 それなのに、あいつが最後に放った『お前みたいな女はすぐに飽きられて、また無様に捨てられるだけだ』という呪いのような言葉だけが、トゲのように深く胸の奥に突き刺さって残っている。

「莉乃」

 個室の化粧室の外から、低くよく通る九条の声が響いた。

「いつまで中に入っている。これ以上出てこないなら、ホテルの女性スタッフを呼んで中を確認させるぞ」
「……今、行くわよ」

 慌てて水を止め、鏡の中の自分の顔を見て深く息を吸い込む。
 化粧室の重い扉を開けて外に出ると、九条がすぐ近くの静かな壁際で、腕を組んでじっと待っていた。彼は私の姿を認めるなり、自分が着ていた仕立ての良い高級なジャケットを脱ぎ、私の露出した両肩へとふわりと包み込むように掛けてくれた。

「……別に、寒くなんてないわよ」
「嘘を言うな、まだ小さく震えている」
「これはただ、あいつの言い草に信じられないくらい腹が立っているだけ」
「フッ、まあ、それもあるだろうな」

 私の言葉に小さく苦笑すると、私の冷え切った手を大きな掌でそっと包み込むようにして握った。

「帰るぞ」
「えっ?でも、主催者の方たちへの終わりのご挨拶とかはいいの?」
「そんなものはとっくに済ませた」
「いつの間に……。随分と早いのね」
「当たり前だ。あんな場所でお前をこれ以上待たせて、一人で不安な思いをさせる方が嫌だからな」

 エントランスに横付けされた車へ乗り込むと、運転手へ短く「自宅へ戻ってくれ」とだけ告げた。すぐに前席との間を仕切る遮音ガラスのパーテーションが静かに上がり、後部座席は一瞬にして私たち二人きりの完全なプライベート空間に変わる。
 気まずさを紛らわすように、小さく流れる車内のライトを浴びながら、流れる夜景が映る窓の外へと視線を向けた。

「……莉乃。お前、さっきからまだ拓也の言ったくだらない言葉を気にしているのか」
「……気にしてなんか、ないわよ」
「お前は本当に嘘が下手だな。顔に全部書いてある」
「……あいつの言った『お前は玲の世界じゃ生きられない』って言葉、そこだけは、ほんの少しだけ正しいのかもしれないって思っただけよ」
「何が正しいというんだ」
「だって、今日ここで初めて分かったでしょう?あなたがそんな有名な大財閥の御曹司だってことすら、今の今まで何も知らなかった。会場にいた周りの人たちはみんな、あなたの家柄も立場も当然のように知っているのに……私だけが、何も知らずに間抜けな顔をしてあなたの隣にいたのよ」
「お前がそれを知らなかったからと言って、一体それがどうしたというんだ」
「この先だって、きっと私が何も知らないことがたくさん出てくるわ。そのたびに、今日みたいに惨めな気持ちになるの?」
「その時に、お前から俺に直接聞けばいいだけだろう」
「……じゃあ、聞かなかったら、あなたはこれからもずっと何も言わないつもりなの?」

 私の問いかけに、一瞬だけ言葉を失い、静かに黙り込んだ。
 車のエンジン音だけが低く響くその沈黙が、私の胸をズキリと痛ませる。

「……拓也もそうだった。あいつも、私にとって本当に大事なことは何一つ言葉にして言わなかったわ。何も言わずに、自分の中で勝手に都合よく全部を決めて、最後にあんな風に裏切って消えたの」
「……俺をあいつと同じにするな」
「同じだなんて言ってないわ。ただ、自分の都合で大切なことを相手に『言わない』という独善的なところが、少しだけ似ているって言っているのよ」

 九条の綺麗な眉間に、ピキリと不機嫌そうな深い皺が寄る。

「俺は、お前を騙すつもりで実家のことを隠していたわけじゃない」
「分かっているわ。でも、『莉乃に実家のことなんてわざわざ知らせる必要はない』って、あなたが自分一人で勝手に境界線を決めて、それを私に言わなかったんでしょう?」

 車内が、今度こそ張り詰めたような重い静寂に包まれる。
 しばらく険しい顔で前方の暗闇を見つめていたが、やがて観念したように、小さく深い溜息を吐きながら低く呟いた。

「……悪かった。お前の言う通り、お前から聞かれなかったから言わなくていい、で済ませていた。俺にとっては生まれた時からのただの当たり前でも、一般のお前にはそうではない。……きちんと、話すべきだったな」

 あのプライドの高い九条が、ここまで素直に自分の非を認めて謝罪してくるなんて思ってもみなかったから、驚いて次の言葉に詰まってしまう。

「……私も、パーティの途中であなたがあの人たちに囲まれた時、すぐにあなたに聞けばよかったのよね。それをしないで、勝手に『あの人とは住む世界が違うんだ』って落ち込んで、一人で逃げ出して……」
「お前と俺の住む世界が違うというのは、今更悩むまでもない厳然たる事実だ」
「……そこは、お約束の慰めでもいいから否定してくれないのね」
「自分と全く同じ環境で育った、同じ価値観の人間と付き合っても何一つ面白くないだろう」
「……付き合ってる、ことになってるの?」

 私の小さな呟きに、不意にこちらへ身体ごと向き直った。