私の耳へと、ガラス扉の向こうから、あまりにも聞き覚えのある、虫唾の走るような軽薄な笑い声が届いた。
頭の先からつま先まで、全身の血液が一瞬にして凍りつく。
その後、会場の中でどれほど洗練された高級な料理や美酒を差し出されても、私の口の中では砂を噛んでいるようで、ほとんど何の味も理解できなかった。九条が新しい知人に私を紹介するたび、会話の切れ目で一度だけ私へ視線を寄こす。そのささやかな合図だけが、「お前はここにいていいんだ」と、私をこの世界に繋ぎ止めてくれているようだった。
揺れるシャンパングラスの向こう、着飾った人混みの遥か奥のスペースで。
私の人生をすべてめちゃくちゃに破壊した張本人である、元婚約者の遠藤拓也が、何食わぬ顔で見知らぬ年配の男性へと、いつもの愛想のいい笑顔で名刺を差し出していた。
目の前の拓也は、警察の捜査から必死に逃亡しているような惨めな人間の姿には到底見えなかった。
どこかの超一流テーラーで仕立てたばかりであろう、身体に完璧にフィットした高級なスリーピーススーツを堂々と着こなし、ワックスで髪も上品にきれいに整えている。以前、私が心から愛していた頃と全く同じ、周囲を安心させるような穏やかで爽やかな笑顔を浮かべ、いかにもやり手の若手経営者らしい風格の男性たちへ、次々と笑顔で名刺を配り歩いていた。
「……どうして、あの人がここにいるのよ……?」
あまりの衝撃と怒りに、私の声は酷くかすれて消えそうになる。
「主催者側の招待客名簿に、あいつの名前は一切ない」
九条の横顔から、一瞬にしてすべての感情が完全に消え去った。
拓也が今しがた見知らぬ男性に手渡した名刺の文面を凝視すると、そこには『上場支援コンサルタント 遠藤拓也』と傲慢な肩書きが印刷されている。そのすぐ下には、小さく『レガリアリンク共同創業者』という、かつて九条と二人で血の滲むような思いで立ち上げたはずの会社の大切な名前が、まだ恥ずかしげもなく誇らしげに記されていた。
すべてを察した九条の全身から鋭い殺気が立ち上り、一歩前へ歩き出そうとする。
「……待って、九条」
「俺が今すぐあいつをここで力ずくで止める。つまみ出させる」
「いいえ、私が先に話すわ。私に行かせて」
「あんな男に向かって、今更お前が何を言うつもりだ」
「あの日からずっと、私のこの口から直接あいつに言いたかったことよ」
九条のたくましい腕からそっと自分の手を離すと、まっすぐに拓也の背中へ向かって歩き出した。
歩くたびに、メゾン・ルヴェールで選んだ最高級の濃紺ドレスの重厚な裾が私の足元に細かく絡みついてくる。それでも、あの日、冷たい雨の中で真っ白な白無垢の裾を泥だらけにして、絶望の中で必死に走り回ったあの日に比べたら、今の私の身体は驚くほど軽かった。
「……その名刺、会社を裏切って逃げ回っている今でも、まだ平気な顔をして使い続けているの?」
背後からの私の声に、拓也の肩がピクリと跳ね、こちらを振り返る。
一瞬だけ、その完璧な笑顔の裏で顔の筋肉が激しく強張ったのが分かったが、彼はすぐにビジネス用の人当たりのいい笑みを作ってみせた。
「……莉乃じゃないか。久しぶりだな、こんな華やかな場所で会えるなんて」
「結婚式当日に新婦を置き去りにして、すべての連絡を絶ってすっぽかした相手への第一声が、本当にそれかしら?」
「莉乃、あの件については、俺だってずっとどこかで落ち着いて二人きりで話したいと思ってたんだ」
「私は弁護士の先生を通してしか、あなたとは一切会話しないって何度も伝えたはずだけど?」
私たちの不穏なやり取りに気づき、周囲にいたきらびやかな招待客の人々が、一人、また一人と興味深そうに会話へ耳を傾け始め、じわじわと静かな人だかりができ始める。
拓也は周囲の視線を気に病むように眉をひそめると、私の細い腕へと馴れ馴れしく触れようと手を伸ばしてきた。
「ここではさすがに目立ちすぎる。莉乃、少し場所を変えて奥のラウンジで話そう」
その汚らわしい手を拒絶するように、一歩大きく後ろへ下がって完璧に避けた。
「……気安く触らないで」
「そんな怖い顔をして俺を睨むなよ。俺たちは二年間も、同じ未来を信じて付き合ってきた仲だろ?」
「付き合っていたから何だと言うの?」
「お前はあいつ――玲に都合よく利用されているだけなんだよ!あいつは、会社を完全に自分のものとして独り占めにするために、邪魔な俺を罠にはめて追い出したんだ。それだけじゃ飽き足らず、莉乃、お前まで自分の手元に取り込んで、俺の人生から全部の財産を奪い尽くすつもりなんだよ!」
「……私の人生からすべてを奪って踏みにじったのは、九条じゃなくて、他でもないあなたでしょう!」
「違う!あの時動かした金は、俺が新しく立ち上げる予定だった事業のために、正当な手段として一時的に動かしただけに過ぎない!」
「浮気相手の美月さんと一緒に泊まった海外の最高級ホテルの宿泊代や、彼女に買い与えた何百万円もする限定のブレスレットの経費が、あなたの言う正当な『新規事業の投資』だって言うの?」
あまりに具体的な証拠を突きつけられ、拓也の完璧だったはずの穏やかな笑顔が、みるみるうちに引きつっていく。
「……美月とは、あくまで新しいビジネスを進める上での、仕事上の深い付き合いだったんだ」
「仕事上の付き合いの相手と、会社の金を横領して海外のホテルへ二人きりで高飛びして逃げ回るわけ?」
「逃げたんじゃない!あれは、今後の事業を立て直すために、俺にとってどうしても必要な冷却期間の時間だったんだよ!」
「よりによって、私との結婚式の当日にそれを行う必要があったの?」
「……結婚なんて、そんなものは事業が成功した後からでも、いくらだってやり直せるだろう!」
あまりにも自分のことしか考えていない、命よりも軽いその言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥の深いところで、張り詰めていた何かが決定的に、音を立てて千切れ飛んだ。
「私は、あなたにとって『あとからでいいもの』なんかじゃない!!」
「莉乃……っ」
「私はあの日、あなたと結婚するために長年勤めた総務の仕事を辞めた!住み慣れた大好きな家も引き払った!私の両親も、大切な友人も、みんなが遠方からお祝いのために式場へ集まってくれていたの!私はあの日、あなたという人とこれからの人生を一緒に生きるつもりで、自分の持っているすべての財産と未来を、あの式場へ持って行ったのよ!!」
私の魂の叫びのような告発に、拓也は自分の体面が汚されるのを恐れるように、ますますキョロキョロと周囲の顔色を気にして視線を激しく動かす。
頭の先からつま先まで、全身の血液が一瞬にして凍りつく。
その後、会場の中でどれほど洗練された高級な料理や美酒を差し出されても、私の口の中では砂を噛んでいるようで、ほとんど何の味も理解できなかった。九条が新しい知人に私を紹介するたび、会話の切れ目で一度だけ私へ視線を寄こす。そのささやかな合図だけが、「お前はここにいていいんだ」と、私をこの世界に繋ぎ止めてくれているようだった。
揺れるシャンパングラスの向こう、着飾った人混みの遥か奥のスペースで。
私の人生をすべてめちゃくちゃに破壊した張本人である、元婚約者の遠藤拓也が、何食わぬ顔で見知らぬ年配の男性へと、いつもの愛想のいい笑顔で名刺を差し出していた。
目の前の拓也は、警察の捜査から必死に逃亡しているような惨めな人間の姿には到底見えなかった。
どこかの超一流テーラーで仕立てたばかりであろう、身体に完璧にフィットした高級なスリーピーススーツを堂々と着こなし、ワックスで髪も上品にきれいに整えている。以前、私が心から愛していた頃と全く同じ、周囲を安心させるような穏やかで爽やかな笑顔を浮かべ、いかにもやり手の若手経営者らしい風格の男性たちへ、次々と笑顔で名刺を配り歩いていた。
「……どうして、あの人がここにいるのよ……?」
あまりの衝撃と怒りに、私の声は酷くかすれて消えそうになる。
「主催者側の招待客名簿に、あいつの名前は一切ない」
九条の横顔から、一瞬にしてすべての感情が完全に消え去った。
拓也が今しがた見知らぬ男性に手渡した名刺の文面を凝視すると、そこには『上場支援コンサルタント 遠藤拓也』と傲慢な肩書きが印刷されている。そのすぐ下には、小さく『レガリアリンク共同創業者』という、かつて九条と二人で血の滲むような思いで立ち上げたはずの会社の大切な名前が、まだ恥ずかしげもなく誇らしげに記されていた。
すべてを察した九条の全身から鋭い殺気が立ち上り、一歩前へ歩き出そうとする。
「……待って、九条」
「俺が今すぐあいつをここで力ずくで止める。つまみ出させる」
「いいえ、私が先に話すわ。私に行かせて」
「あんな男に向かって、今更お前が何を言うつもりだ」
「あの日からずっと、私のこの口から直接あいつに言いたかったことよ」
九条のたくましい腕からそっと自分の手を離すと、まっすぐに拓也の背中へ向かって歩き出した。
歩くたびに、メゾン・ルヴェールで選んだ最高級の濃紺ドレスの重厚な裾が私の足元に細かく絡みついてくる。それでも、あの日、冷たい雨の中で真っ白な白無垢の裾を泥だらけにして、絶望の中で必死に走り回ったあの日に比べたら、今の私の身体は驚くほど軽かった。
「……その名刺、会社を裏切って逃げ回っている今でも、まだ平気な顔をして使い続けているの?」
背後からの私の声に、拓也の肩がピクリと跳ね、こちらを振り返る。
一瞬だけ、その完璧な笑顔の裏で顔の筋肉が激しく強張ったのが分かったが、彼はすぐにビジネス用の人当たりのいい笑みを作ってみせた。
「……莉乃じゃないか。久しぶりだな、こんな華やかな場所で会えるなんて」
「結婚式当日に新婦を置き去りにして、すべての連絡を絶ってすっぽかした相手への第一声が、本当にそれかしら?」
「莉乃、あの件については、俺だってずっとどこかで落ち着いて二人きりで話したいと思ってたんだ」
「私は弁護士の先生を通してしか、あなたとは一切会話しないって何度も伝えたはずだけど?」
私たちの不穏なやり取りに気づき、周囲にいたきらびやかな招待客の人々が、一人、また一人と興味深そうに会話へ耳を傾け始め、じわじわと静かな人だかりができ始める。
拓也は周囲の視線を気に病むように眉をひそめると、私の細い腕へと馴れ馴れしく触れようと手を伸ばしてきた。
「ここではさすがに目立ちすぎる。莉乃、少し場所を変えて奥のラウンジで話そう」
その汚らわしい手を拒絶するように、一歩大きく後ろへ下がって完璧に避けた。
「……気安く触らないで」
「そんな怖い顔をして俺を睨むなよ。俺たちは二年間も、同じ未来を信じて付き合ってきた仲だろ?」
「付き合っていたから何だと言うの?」
「お前はあいつ――玲に都合よく利用されているだけなんだよ!あいつは、会社を完全に自分のものとして独り占めにするために、邪魔な俺を罠にはめて追い出したんだ。それだけじゃ飽き足らず、莉乃、お前まで自分の手元に取り込んで、俺の人生から全部の財産を奪い尽くすつもりなんだよ!」
「……私の人生からすべてを奪って踏みにじったのは、九条じゃなくて、他でもないあなたでしょう!」
「違う!あの時動かした金は、俺が新しく立ち上げる予定だった事業のために、正当な手段として一時的に動かしただけに過ぎない!」
「浮気相手の美月さんと一緒に泊まった海外の最高級ホテルの宿泊代や、彼女に買い与えた何百万円もする限定のブレスレットの経費が、あなたの言う正当な『新規事業の投資』だって言うの?」
あまりに具体的な証拠を突きつけられ、拓也の完璧だったはずの穏やかな笑顔が、みるみるうちに引きつっていく。
「……美月とは、あくまで新しいビジネスを進める上での、仕事上の深い付き合いだったんだ」
「仕事上の付き合いの相手と、会社の金を横領して海外のホテルへ二人きりで高飛びして逃げ回るわけ?」
「逃げたんじゃない!あれは、今後の事業を立て直すために、俺にとってどうしても必要な冷却期間の時間だったんだよ!」
「よりによって、私との結婚式の当日にそれを行う必要があったの?」
「……結婚なんて、そんなものは事業が成功した後からでも、いくらだってやり直せるだろう!」
あまりにも自分のことしか考えていない、命よりも軽いその言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥の深いところで、張り詰めていた何かが決定的に、音を立てて千切れ飛んだ。
「私は、あなたにとって『あとからでいいもの』なんかじゃない!!」
「莉乃……っ」
「私はあの日、あなたと結婚するために長年勤めた総務の仕事を辞めた!住み慣れた大好きな家も引き払った!私の両親も、大切な友人も、みんなが遠方からお祝いのために式場へ集まってくれていたの!私はあの日、あなたという人とこれからの人生を一緒に生きるつもりで、自分の持っているすべての財産と未来を、あの式場へ持って行ったのよ!!」
私の魂の叫びのような告発に、拓也は自分の体面が汚されるのを恐れるように、ますますキョロキョロと周囲の顔色を気にして視線を激しく動かす。



