「連れの、来週の周年パーティ用のドレスを仕立てたい」
「さようでございますか、すべて承っております。神崎様、どうぞこちらへ。奥の特等席へご案内いたします」
「……え、私の名前までもうご存知なんですか?」
「事前に予約を入れておいたからな」
「それ、一体いつの間に?」
「お前にあのゴールドの招待状を渡す、さらにその前だ」
「もし私が『行かない』って頑なに断る可能性については、一ミリも考えなかったわけ?」
「最初から、お前に断らせないつもりで段取りを組んでいた」
「……はぁ、本当にあなたという男はそういう強引なところがあるわよね」
周囲に聞こえないよう小声で小気味よく言い合いながら、一般の華やかな売り場を滑らかに通り抜けていく。案内された奥の重厚な扉の先には、ため息が出るほど広い完全個室のフィッティングルームが用意されていた。足が沈み込むほど柔らかな極上の絨毯、ゆったりとしたクラシカルな低いソファ、壁に掛けられたモダンな絵画。そして、大きな三面鏡のすぐ横には、あらかじめ私のサイズに合わせて選ばれたらしい、目の眩むような美しい最高級のドレスたちが一列に並んでいる。
私たちがソファに腰を下ろすと、スタッフが銀色のトレイに載ったグラスを恭しく運んできた。
「神崎様、お飲み物はシャンパーニュとお茶、どちらになさいますか」
「……えっ、シャンパン?」
「はい、当メゾン特製のヴィンテージでございます」
驚いて、隣に座る九条を思い切り振り返った。
「ちょっと、普通の洋服屋さんって、お買い物中にシャンパンなんか出さないわよ?」
「ここがそういう最高峰の店だということだろ」
「そういう返事を当然のようにする時点で、あなたの金銭感覚もやっぱり普通じゃないのよ」
私の非難などどこ吹く風という顔で、優雅にクリスタルのグラスを受け取った。
「お前も飲むだろ」
「そりゃあ、いただくけれど……。これ、後から恐ろしい額のサービス料として請求書に上乗せされたりしないでしょうね?」
「こんな場所でいちいち値札の有無を探すな」
「書いてないからこそ怖いのよ」
私たちの夫婦漫才のようなやり取りに、控えていたスタッフの女性が、口元を手で隠しながら楽しそうに笑いを堪えている。
最初にお勧めされた一着目は、妖精のように繊細で淡い銀色のドレス。二着目は、どこか神秘的な深い森を思わせるクラシカルな緑。どれも息をのむほど美しい仕立てだったけれど、どこか私には「最高級の服に着られている」ような、妙な浮ついた感覚が拭えなかった。
そして、三着目に袖を通したのが、夜空のように深い濃紺のシルクドレスだった。
両肩を美しく大胆に露出させ、キュッと締まった腰回りから足元へと、滑らかな液体のように波打って落ちていくデザイン。余計なスパンコールや装飾は極限まで削ぎ落とされているのに、だからこそ女性らしい身体の柔らかな曲線が一切隠れない。
試着室のカーテンを開けて外へ出ると、ソファに座っていた九条の動きが、目に見えてピタリと止まった。
「……どうかしら、これ」
「……それにしろ」
「決めるのが早すぎるわよ。まだ他にも試していないデザインがあるでしょう?」
「もうこれ以上、他のドレスを見る必要性がどこにもない」
「具体的な感想は?」
「信じられないくらい、よく似合っている」
「それだけ?」
私が少し不満げに片方の眉を上げて見せる。
すると、持っていたグラスをテーブルへ静かに置き、ゆっくり私の方へ近づいてきた。その空気を敏感に察したスタッフの女性が、「お二人でごゆっくりお確かめください」と言い残し、気を利かせるようにしてそっと個室から出ていく。
誰もいなくなった広い個室で、私のすぐ背後に立った。
「……本当に、綺麗だ」
普段の意地悪なトーンではない、心の底から震えるような低い声で囁かれ、私の頬は一気に火が点いたように熱くなる。
「……最初から、そうやって素直に褒めればいいのよ」
「思った以上に言葉が浮かんでこなかったんだ。お前があまりに美しすぎるのが原因だな」
九条の細長い指先が、ドレスから大胆に露出した私の白い肩へと、愛おしそうにそっと触れる。大きな三面鏡越しに、二人の視線が真っ正面から絡み合った。
「ちょっと。まだお買い上げ前なんだから、商品に触るなら、肌じゃなくて服の布地だけにしてちょうだい」
「……男という生き物が、どうして愛する女に高価な服を贈りたがるのか、その本当の理由が今ようやく分かった気がする」
「何よ、それ」
「俺が自ら選んで贈った美しい服を、後で自分の手で綺麗に脱がしたいからだ」
あまりに直球で破廉恥な言葉に、鏡の中で完全に硬直してしまった。
「……サイテー」
「これ以上ないほどお前を気に入った、という意味だ」
「絶対、そんな綺麗な意味のニュアンスじゃないでしょう!」
「それ以上は家で言う。ここは店だ」
「もう、あなたにこのドレス買ってもらうの、やっぱりやめようかしら」
「あいにく、お前がその試着室に入った時点で、会計の手続きはすでにすべて済ませてある」
「ちょっと、本人の最終的な意見はどこにいったのよ!」
「どの服にするかを選ぶのはお前だ。会計は、俺が贈りたいと思ってした」
「そこは先に相談して!」
恥ずかしさのあまり、肩を撫でていた九条の手の甲をパシッと軽く叩いた。彼が声を殺して愉快そうに笑う。肩へ触れていた指を離し、鏡越しにもう一度だけ私を見た。
「……ちゃんと止まるのね」
「店では店の礼儀を守る」
「意外」
「その顔は、家まで取っておけ」
すぐ耳元でそんな甘い息を囁かれ、いたたまれなくなって、逃げ込むようにして再び試着室のカーテンの奥へと飛び込んだ。
その後、ドレスに合わせて、彼の見立てで最高級のヒール靴と、職人技の光る小さなクラッチバッグを選んだ。
結局、最後までトータルの会計金額が記載された明細書は、私の目には一切見せてもらえなかった。
「ちょっと、お願いだから明細を見せて。いくらだったの?」
「明細はすべて俺宛てのプライベート口座へ直接送られる設定になっている」
「後でちゃんとお金を貯めて返すから」
「一円たりとも返さなくていい」
「こんな自分には高すぎるものを、当然みたいな顔をしてただで受け取ることなんてできないわよ」
超一流メゾンの店を出た後も、私たちのそんな押し問答は延々と街中で続いていた。
すると、不意に足を止め、私の身体を正面から向き直らせた。
「さようでございますか、すべて承っております。神崎様、どうぞこちらへ。奥の特等席へご案内いたします」
「……え、私の名前までもうご存知なんですか?」
「事前に予約を入れておいたからな」
「それ、一体いつの間に?」
「お前にあのゴールドの招待状を渡す、さらにその前だ」
「もし私が『行かない』って頑なに断る可能性については、一ミリも考えなかったわけ?」
「最初から、お前に断らせないつもりで段取りを組んでいた」
「……はぁ、本当にあなたという男はそういう強引なところがあるわよね」
周囲に聞こえないよう小声で小気味よく言い合いながら、一般の華やかな売り場を滑らかに通り抜けていく。案内された奥の重厚な扉の先には、ため息が出るほど広い完全個室のフィッティングルームが用意されていた。足が沈み込むほど柔らかな極上の絨毯、ゆったりとしたクラシカルな低いソファ、壁に掛けられたモダンな絵画。そして、大きな三面鏡のすぐ横には、あらかじめ私のサイズに合わせて選ばれたらしい、目の眩むような美しい最高級のドレスたちが一列に並んでいる。
私たちがソファに腰を下ろすと、スタッフが銀色のトレイに載ったグラスを恭しく運んできた。
「神崎様、お飲み物はシャンパーニュとお茶、どちらになさいますか」
「……えっ、シャンパン?」
「はい、当メゾン特製のヴィンテージでございます」
驚いて、隣に座る九条を思い切り振り返った。
「ちょっと、普通の洋服屋さんって、お買い物中にシャンパンなんか出さないわよ?」
「ここがそういう最高峰の店だということだろ」
「そういう返事を当然のようにする時点で、あなたの金銭感覚もやっぱり普通じゃないのよ」
私の非難などどこ吹く風という顔で、優雅にクリスタルのグラスを受け取った。
「お前も飲むだろ」
「そりゃあ、いただくけれど……。これ、後から恐ろしい額のサービス料として請求書に上乗せされたりしないでしょうね?」
「こんな場所でいちいち値札の有無を探すな」
「書いてないからこそ怖いのよ」
私たちの夫婦漫才のようなやり取りに、控えていたスタッフの女性が、口元を手で隠しながら楽しそうに笑いを堪えている。
最初にお勧めされた一着目は、妖精のように繊細で淡い銀色のドレス。二着目は、どこか神秘的な深い森を思わせるクラシカルな緑。どれも息をのむほど美しい仕立てだったけれど、どこか私には「最高級の服に着られている」ような、妙な浮ついた感覚が拭えなかった。
そして、三着目に袖を通したのが、夜空のように深い濃紺のシルクドレスだった。
両肩を美しく大胆に露出させ、キュッと締まった腰回りから足元へと、滑らかな液体のように波打って落ちていくデザイン。余計なスパンコールや装飾は極限まで削ぎ落とされているのに、だからこそ女性らしい身体の柔らかな曲線が一切隠れない。
試着室のカーテンを開けて外へ出ると、ソファに座っていた九条の動きが、目に見えてピタリと止まった。
「……どうかしら、これ」
「……それにしろ」
「決めるのが早すぎるわよ。まだ他にも試していないデザインがあるでしょう?」
「もうこれ以上、他のドレスを見る必要性がどこにもない」
「具体的な感想は?」
「信じられないくらい、よく似合っている」
「それだけ?」
私が少し不満げに片方の眉を上げて見せる。
すると、持っていたグラスをテーブルへ静かに置き、ゆっくり私の方へ近づいてきた。その空気を敏感に察したスタッフの女性が、「お二人でごゆっくりお確かめください」と言い残し、気を利かせるようにしてそっと個室から出ていく。
誰もいなくなった広い個室で、私のすぐ背後に立った。
「……本当に、綺麗だ」
普段の意地悪なトーンではない、心の底から震えるような低い声で囁かれ、私の頬は一気に火が点いたように熱くなる。
「……最初から、そうやって素直に褒めればいいのよ」
「思った以上に言葉が浮かんでこなかったんだ。お前があまりに美しすぎるのが原因だな」
九条の細長い指先が、ドレスから大胆に露出した私の白い肩へと、愛おしそうにそっと触れる。大きな三面鏡越しに、二人の視線が真っ正面から絡み合った。
「ちょっと。まだお買い上げ前なんだから、商品に触るなら、肌じゃなくて服の布地だけにしてちょうだい」
「……男という生き物が、どうして愛する女に高価な服を贈りたがるのか、その本当の理由が今ようやく分かった気がする」
「何よ、それ」
「俺が自ら選んで贈った美しい服を、後で自分の手で綺麗に脱がしたいからだ」
あまりに直球で破廉恥な言葉に、鏡の中で完全に硬直してしまった。
「……サイテー」
「これ以上ないほどお前を気に入った、という意味だ」
「絶対、そんな綺麗な意味のニュアンスじゃないでしょう!」
「それ以上は家で言う。ここは店だ」
「もう、あなたにこのドレス買ってもらうの、やっぱりやめようかしら」
「あいにく、お前がその試着室に入った時点で、会計の手続きはすでにすべて済ませてある」
「ちょっと、本人の最終的な意見はどこにいったのよ!」
「どの服にするかを選ぶのはお前だ。会計は、俺が贈りたいと思ってした」
「そこは先に相談して!」
恥ずかしさのあまり、肩を撫でていた九条の手の甲をパシッと軽く叩いた。彼が声を殺して愉快そうに笑う。肩へ触れていた指を離し、鏡越しにもう一度だけ私を見た。
「……ちゃんと止まるのね」
「店では店の礼儀を守る」
「意外」
「その顔は、家まで取っておけ」
すぐ耳元でそんな甘い息を囁かれ、いたたまれなくなって、逃げ込むようにして再び試着室のカーテンの奥へと飛び込んだ。
その後、ドレスに合わせて、彼の見立てで最高級のヒール靴と、職人技の光る小さなクラッチバッグを選んだ。
結局、最後までトータルの会計金額が記載された明細書は、私の目には一切見せてもらえなかった。
「ちょっと、お願いだから明細を見せて。いくらだったの?」
「明細はすべて俺宛てのプライベート口座へ直接送られる設定になっている」
「後でちゃんとお金を貯めて返すから」
「一円たりとも返さなくていい」
「こんな自分には高すぎるものを、当然みたいな顔をしてただで受け取ることなんてできないわよ」
超一流メゾンの店を出た後も、私たちのそんな押し問答は延々と街中で続いていた。
すると、不意に足を止め、私の身体を正面から向き直らせた。



