九条の少し冷えた大きな手が、私の手をそっと包み込むようにして握りしめた。
人通りのある外の空間で、彼からこうして触れられたのは、これが初めてのことだった。
「……そろそろ、帰るか」
「そう、だね」
マンションへ戻り、玄関の扉を閉めた瞬間、背後から包み込むように抱き寄せられた。言葉を交わすよりも早く、熱い唇が重なり合う。
「ちょっと……急に何よ」
「お前が『一人にしない』と言ってくれた、その礼だ」
「あなたの礼の仕方は、いつもどこかおかしいわよ」
「……嫌か?」
「嫌だとは……言ってないでしょう」
私の小さな抵抗に、九条の切れ長の瞳へ、ようやくいつもの少し意地悪そうな笑みが戻ってきた。
それから数日後のこと。九条はリビングのテーブルで、ゴールドの縁取りがされた上質な一枚の招待状を私へと差し出してきた。
「来週の週末、お世話になっている主要な取引先の周年パーティがある。お前も同行してほしい」
「私が?でも、どうして」
「パートナー同伴が原則の、フォーマルな会なんだ」
「パートナーって……あなたの会社の、仕事のアシスタントとして?」
「違う。俺の、プライベートのパートナーとしてだ」
差し出されたその美しい招待状を、まじまじと見つめた。
「あのさ、私たちって、正式に『恋人になった』なんて話を一言でもしたかしら?」
「今さら、そんな分かりきった確認が必要なのか?」
「必要に決まっているでしょう。ただ身体の関係を持っただけで、私の意志も聞かずに勝手に決めないで」
面白くなさそうに、端正な眉をぎゅっと寄せた。
「ただの関係のつもりなら、俺が毎晩お前を自分の腕の中で抱き締めて眠るわけがないだろう」
「……それ、あなたなりの告白?」
「もし告白が必要だと言うなら、今ここでしてやるが」
「ちょっと待って。こんな、フレンチトーストの匂いが残るキッチンで?」
「お前は意外と、場所にこだわるタイプなのか」
「一生、頭の中で覚え続けるかもしれない大事な言葉なのよ?シチュエーションくらい考えなさいよ」
数秒間、真面目な顔で考え込むと、私の手からすっと招待状を抜き取った。
「なら、今の話は一旦保留だ」
「何よ、それ」
「改めて、ちゃんとした場所で言う。だが、パーティには必ず同行してくれ」
「そうは言っても、私、そんな華やかな場所にドレスアップして着ていく服なんて持ってないんだけど……」
「だから、明日買いに行くぞ」
「自分で買うわよ。もうこれ以上、あなたに借りは作りたくない」
「俺が同行を頼んだんだ。当然、費用はすべて俺が支払う」
「どうせ、私じゃ普段入れないような、目玉が飛び出るほど高い店に連れていくつもりでしょう」
「お前というパートナーに、一番似合う店だ」
翌日、私たちは軽い昼食を兼ねて外へ出かけることになった。
大通りから一本入った路地にある、隠れ家のようなイタリア料理店でモチモチのパスタを味わい、その後、静かな大型書店をのんびりと歩く。彼はいつものように専門的な経営書の棚へ向かったはずなのに、私がふと気になって手に取っていた一冊の小説を、いつの間にか無言で奪い取って会計へ持って行ってしまった。
「だから、本くらい自分で買うって言っているでしょう」
「服はまだ買っていないからな。これは、ほんの先払いだ」
「先払いって、何のよ」
「今日、こうして一緒に出かけてくれた礼だ」
「あなた、本当に何にでもお礼を言いたがる男ね」
「言葉で伝えるよりも、態度で示す方が早いからな」
「そういう不器用なところを、少しは直した方がいいと思うわよ」
書店を出ると、当たり前のように手を取られた。
休日の賑やかな街並みの中、お互いの指をしっかりと絡め合わせて歩く。
ただの洋服の買い出しのはずなのに、私の胸の奥は、どこか落ち着かない甘い鼓動を刻み続けていた。
「明日は、朝の十時にここを出るぞ」
「本当にどこのお店に行くの?そろそろ教えてよ」
「メゾン・ルヴェールだ」
思わず、その場に足を止めてしまった。
メゾン・ルヴェール――。
海外の王族や名立たる映画俳優がこぞって愛用すると噂される、フランスで百年以上の歴史を持つ超一流の老舗ブライダル・クチュールメゾンだ。
「ちょっと……あそこって、ただのパーティの一着を買うような、普通のセレクトショップじゃないわよね?」
「一着で済むかどうかは、実際に行ってドレスを試着するお前の姿を見てから決める」
「絶対、ただのパーティウェアの買い物じゃないでしょう、これ!」
「フッ……今さら、そのことに気づいたのか?」
私の手を少し強く引き、再びゆっくりと歩き出す。
私を振り返った彼の横顔は、悪戯が成功した子供のように、とても楽しそうに優しく微笑んでいた。
メゾン・ルヴェールの広々とした路面店は、事前にその高名な店名を知らされていなければ、静謐な現代美術館か何かにしか見えなかった。
大きなガラス扉の向こうに広がる贅沢な空間には、商品はほんの数点しか美しくディスプレイされていない。当然のように、どこにも値札なんて見当たらなかった。がっしりとした体格の警備員が厳重に立つ入口の前で、思わず完全に足を止めてしまった。
「……ねえ、本当にここに入るの?」
「看板の店名を読め」
「読めるからこうして聞いてるのよ。私、今日の手持ちの中で一番ましなワンピースを着てきたつもりだけど、本当にこの格好のまま入って大丈夫?ドレスコードとかあるんじゃ……」
店内を歩く数少ない他のお客や、洗練されたスタッフの隙のない服装を見ると、自分だけがひどく場違いな場所に迷い込んでしまったように思えて気後れしてしまう。
そんな不安を察したように、大きな手のひらが背中へそっと添えられた。
「お前は俺が連れてきたパートナーだ。何一つ臆することはない、堂々としていろ」
「相変わらず、その言い方はものすごく偉そうね」
「その顔で俺の隣に立てば、誰も文句は言わない」
「それ、褒めているの?」
「事実を言っただけだ」
フッと口元を緩めると、重厚なガラス扉をスマートに開けた。
一歩店内へ足を踏み入れた瞬間、上質な黒いパンツスーツを隙なく着こなした大人の女性スタッフが、流れるような動作で私たちへと近づいてきた。
「九条様。本日はお足元の悪い中、ご来店いただき誠にありがとうございます。お待ちしておりました」
こちらからまだ名前すら名乗っていないというのに、彼女は迷いなく深々と頭を下げる。
人通りのある外の空間で、彼からこうして触れられたのは、これが初めてのことだった。
「……そろそろ、帰るか」
「そう、だね」
マンションへ戻り、玄関の扉を閉めた瞬間、背後から包み込むように抱き寄せられた。言葉を交わすよりも早く、熱い唇が重なり合う。
「ちょっと……急に何よ」
「お前が『一人にしない』と言ってくれた、その礼だ」
「あなたの礼の仕方は、いつもどこかおかしいわよ」
「……嫌か?」
「嫌だとは……言ってないでしょう」
私の小さな抵抗に、九条の切れ長の瞳へ、ようやくいつもの少し意地悪そうな笑みが戻ってきた。
それから数日後のこと。九条はリビングのテーブルで、ゴールドの縁取りがされた上質な一枚の招待状を私へと差し出してきた。
「来週の週末、お世話になっている主要な取引先の周年パーティがある。お前も同行してほしい」
「私が?でも、どうして」
「パートナー同伴が原則の、フォーマルな会なんだ」
「パートナーって……あなたの会社の、仕事のアシスタントとして?」
「違う。俺の、プライベートのパートナーとしてだ」
差し出されたその美しい招待状を、まじまじと見つめた。
「あのさ、私たちって、正式に『恋人になった』なんて話を一言でもしたかしら?」
「今さら、そんな分かりきった確認が必要なのか?」
「必要に決まっているでしょう。ただ身体の関係を持っただけで、私の意志も聞かずに勝手に決めないで」
面白くなさそうに、端正な眉をぎゅっと寄せた。
「ただの関係のつもりなら、俺が毎晩お前を自分の腕の中で抱き締めて眠るわけがないだろう」
「……それ、あなたなりの告白?」
「もし告白が必要だと言うなら、今ここでしてやるが」
「ちょっと待って。こんな、フレンチトーストの匂いが残るキッチンで?」
「お前は意外と、場所にこだわるタイプなのか」
「一生、頭の中で覚え続けるかもしれない大事な言葉なのよ?シチュエーションくらい考えなさいよ」
数秒間、真面目な顔で考え込むと、私の手からすっと招待状を抜き取った。
「なら、今の話は一旦保留だ」
「何よ、それ」
「改めて、ちゃんとした場所で言う。だが、パーティには必ず同行してくれ」
「そうは言っても、私、そんな華やかな場所にドレスアップして着ていく服なんて持ってないんだけど……」
「だから、明日買いに行くぞ」
「自分で買うわよ。もうこれ以上、あなたに借りは作りたくない」
「俺が同行を頼んだんだ。当然、費用はすべて俺が支払う」
「どうせ、私じゃ普段入れないような、目玉が飛び出るほど高い店に連れていくつもりでしょう」
「お前というパートナーに、一番似合う店だ」
翌日、私たちは軽い昼食を兼ねて外へ出かけることになった。
大通りから一本入った路地にある、隠れ家のようなイタリア料理店でモチモチのパスタを味わい、その後、静かな大型書店をのんびりと歩く。彼はいつものように専門的な経営書の棚へ向かったはずなのに、私がふと気になって手に取っていた一冊の小説を、いつの間にか無言で奪い取って会計へ持って行ってしまった。
「だから、本くらい自分で買うって言っているでしょう」
「服はまだ買っていないからな。これは、ほんの先払いだ」
「先払いって、何のよ」
「今日、こうして一緒に出かけてくれた礼だ」
「あなた、本当に何にでもお礼を言いたがる男ね」
「言葉で伝えるよりも、態度で示す方が早いからな」
「そういう不器用なところを、少しは直した方がいいと思うわよ」
書店を出ると、当たり前のように手を取られた。
休日の賑やかな街並みの中、お互いの指をしっかりと絡め合わせて歩く。
ただの洋服の買い出しのはずなのに、私の胸の奥は、どこか落ち着かない甘い鼓動を刻み続けていた。
「明日は、朝の十時にここを出るぞ」
「本当にどこのお店に行くの?そろそろ教えてよ」
「メゾン・ルヴェールだ」
思わず、その場に足を止めてしまった。
メゾン・ルヴェール――。
海外の王族や名立たる映画俳優がこぞって愛用すると噂される、フランスで百年以上の歴史を持つ超一流の老舗ブライダル・クチュールメゾンだ。
「ちょっと……あそこって、ただのパーティの一着を買うような、普通のセレクトショップじゃないわよね?」
「一着で済むかどうかは、実際に行ってドレスを試着するお前の姿を見てから決める」
「絶対、ただのパーティウェアの買い物じゃないでしょう、これ!」
「フッ……今さら、そのことに気づいたのか?」
私の手を少し強く引き、再びゆっくりと歩き出す。
私を振り返った彼の横顔は、悪戯が成功した子供のように、とても楽しそうに優しく微笑んでいた。
メゾン・ルヴェールの広々とした路面店は、事前にその高名な店名を知らされていなければ、静謐な現代美術館か何かにしか見えなかった。
大きなガラス扉の向こうに広がる贅沢な空間には、商品はほんの数点しか美しくディスプレイされていない。当然のように、どこにも値札なんて見当たらなかった。がっしりとした体格の警備員が厳重に立つ入口の前で、思わず完全に足を止めてしまった。
「……ねえ、本当にここに入るの?」
「看板の店名を読め」
「読めるからこうして聞いてるのよ。私、今日の手持ちの中で一番ましなワンピースを着てきたつもりだけど、本当にこの格好のまま入って大丈夫?ドレスコードとかあるんじゃ……」
店内を歩く数少ない他のお客や、洗練されたスタッフの隙のない服装を見ると、自分だけがひどく場違いな場所に迷い込んでしまったように思えて気後れしてしまう。
そんな不安を察したように、大きな手のひらが背中へそっと添えられた。
「お前は俺が連れてきたパートナーだ。何一つ臆することはない、堂々としていろ」
「相変わらず、その言い方はものすごく偉そうね」
「その顔で俺の隣に立てば、誰も文句は言わない」
「それ、褒めているの?」
「事実を言っただけだ」
フッと口元を緩めると、重厚なガラス扉をスマートに開けた。
一歩店内へ足を踏み入れた瞬間、上質な黒いパンツスーツを隙なく着こなした大人の女性スタッフが、流れるような動作で私たちへと近づいてきた。
「九条様。本日はお足元の悪い中、ご来店いただき誠にありがとうございます。お待ちしておりました」
こちらからまだ名前すら名乗っていないというのに、彼女は迷いなく深々と頭を下げる。



