「……神崎さん?」
九条玲は、まるで信じられない怪異でも目撃したかのような顔で私を凝視した。
普段の完璧な仕事モードとは違い、少し癖のある黒髪は無造作に乱れ、上質な白シャツの袖を肘まで無造作にまくり上げている。
彫刻のように端正な顔立ちの男だが、その冷徹さを孕んだ鋭い目つきと、徹底した愛想のなさは、優しさが売りだった拓也とは正反対の印象を与える。
「どうして、そんな格好でここにいる」
「……あなたこそ。今日の結婚式、代表挨拶で参列してくれるんじゃなかったの?」
「これから着替えて向かうつもりだった。……それより、今は挙式中のはずだろう」
「主役が来なかったのよ」
玲の形の良い眉が、不審そうに中央へ寄った。
「……何を言っている」
「言葉通りの意味。拓也は式場に現れなかった。携帯も繋がらない。まさか、会社にも来ていないんでしょう?」
「今日は朝から連絡が取れない。だが、昨日まではいつも通りだった。何か事故にでも巻き込まれたんじゃ――」
「だったら、今すぐあなたが電話してみてよ」
手元のスマートフォンを突きつける。液晶画面は、虚しく残された拓也への発信履歴でびっしりと埋め尽くされていた。
玲はまだ納得のいかない表情のまま、自身の端末を取り出してコールする。けれど、やはり呼び出し音すら鳴らずに、あの冷たい機械音声のガイダンスへと切り替わった。
「電源が切れている」
「知ってる。もう何十回も聞いたわ」
「病院に問い合わせる。それから警察にも届けて――」
「その前に、部屋を見せて」
玲の制止を待たず、私は奥の廊下へと足を踏み入れた。
「待て。勝手に入るな」
「私の荷物も置いてあるのよ!」
「今日から二人がここで同居する予定だったのは知っているが……っ」
「だったら止めないで!」
拓也が使っていた寝室の扉を、勢いよく押し開ける。
――けれど、視界に飛び込んできたのは、もぬけの殻になった空っぽのクローゼットだった。
昨日まで確かに掛かっていたはずのオーダーメイドのスーツも、整然と掛けられていたシャツも、一枚残らず消えている。棚にディスプレイされていた高級時計も、愛用していた香水も、趣味のカメラも、すべて。
部屋に一歩踏み込むと、私が先に畳んで運び込んでいた寝具だけが、冷え切った壁際にぽつんと取り残されていた。
「……嘘。私の段ボールまでない」
新生活のために新調したお気に入りの食器、日用品、仕事を辞める日に職場の同僚たちが「お幸せに」と送り出してくれたコーヒーメーカー。それらを大切に詰めたはずの箱が、半分以上も消え去っていた。
背後からついてきた玲も部屋を見回し、その顔色を微かに変える。
「いつの間に、これだけの荷物を運び出したんだ」
「私に聞かないでよ!ここをオフィスにして、日常的に出入りしていたのはあなたたちでしょう!?」
「俺は一昨日から投資家との面談でほとんど外に出ていた。社員たちも下のオフィスフロアしか使わない」
「ずいぶん都合のいい言い訳ね」
「……俺を疑っているのか」
「三十分前まで、婚約者が結婚式当日に夜逃げするなんて想像もしていなかったの!今の私が、一体誰を信じられるっていうのよ!」
感情のままに言い返す声が、静かな廊下に虚しく響き渡る。
玲は何かを噛み殺すように低く顎を引き、無言でリビングへと引き返した。私も重い白無垢の裾を引きずりながら、必死でその背中を追う。
「会社の口座を確認する」
「どうして、今そんなものを……」
「あいつがここまで計画的に私物を持ち出しているんだ。それだけで済んでいるとは思えない」
玲はデスクのノートパソコンを叩き、いくつもの厳重なセキュリティ認証を瞬時に通していく。
画面に並ぶ数字の羅列を冷徹に追っていた彼の動きが、ある一点でピタリと止まった。
「……嘘だろ」
「何が、あったの」
「先週から、備品購入と外注費の名目で、執拗に大口の送金が繰り返されている。合計で、六百八十万」
「誰が操作したの?」
「最終承認のログは、すべて拓也だ。……振込先は、エヴォルという会社になっている」
「それ、取引先なの?」
「名前だけは知っている。拓也の大学の後輩が立ち上げた会社だ。だが、うちが今期、そこに正式な発注を掛けた記憶は一切ない」
玲の低く引き締まった声から、目に見えて血の気が引いていくのが分かった。
胸を突く不穏な予感に急かされるように、私はガラステーブルに雑多に積まれた郵便物へ手を伸ばした。未開封の封筒を一つずつ、狂ったように引き剥がしていく。
その中から、拓也宛ての旅行会社からの明細書が、ぽろりと床に落ちた。
二人分の、海外行きの航空券。
出発日は、昨日。行き先は、きらびやかな南国のリゾート。
そして――同行者の欄に印字されていたのは、私の名前ではなかった。
「相沢美月……。ねえ、この誰とも知らない女は、一体誰?」
玲が私の手から、ひったくるように明細書を奪い取った。その瞳が激しく揺れている。
「……以前、業務委託でうちの広報を手伝っていた女だ。二か月前に契約を切ったはずだった」
「どうして契約を切ったの?」
「拓也が無理に引っ張ってきたが、実績に対してあまりに請求額が高すぎた。だから、俺が更新を止めたんだ」
「じゃあ、何?その女と、拓也は昨日から……南国へ高飛びしているの?」
ほんの数時間前、式場の椅子に座って、胸を高鳴らせていた自分の姿が脳裏をよぎる。
おめでとうと涙ぐむ母と笑い合い、大切な人たちの祝福を受けながら、ただ一途に彼の到着を待っていた。
その同じ時間に、彼は別の女の手を握って、飛行機の中で甘い囁きを交わしていたのだ。
胃の奥が、氷を詰め込まれたように冷たく凍りついていく。
それなのに、やっぱり涙は出てこなかった。悔しさと、惨めさと、言葉にならない屈辱が、目の前の男への怒りへと姿を変えて爆発する。
「なんで……なんで、一番近くにいて気づかなかったのよ!」
「俺に当たるな!」
「一番近くにいた親友で、ビジネスパートナーでしょう!?会社のお金まで抜かれて、あなた一体、彼の何を見ていたのよ!」
「いくら共同経営者だからって、私生活の裏まで監視できるわけがないだろう!」
「お金の流れは仕事でしょう!あなたの役割じゃない!」
「見落とした責任は認める!だが、お前にそこまで責められる筋合いは――」
「あるわよ!!」
叫びながら、白無垢の袖をぎゅっと握りしめた。指先が情けなく震える。
「私、この結婚のために仕事も辞めたの!家も引き払ったの!今日からここで、あいつと生きるために全部、全部手放したのよ!なんで気づいてくれなかったの……っ。私、もう行く場所なんてどこにもないのよ!」
玲の顔にも、隠しきれない疲労と苛烈な怒りが滲み出る。
「――その気の強さで、直前になって逃げ出したくなったんじゃないのか」
ピリッ、と部屋の空気が凍りついた。
言葉を吐き出した直後、玲自身がハッとしたように目を見開く。
「……すまない。今のは、俺が最低だった」
「ええ。本当に最低。最悪よ」
そのまま踵を返して出て行く気力さえ失い、私は目の前の重厚なソファへとドサリと腰を下ろした。がちがちに固められた帯のせいで背筋を伸ばすしかなく、深く身を預けることさえできない。
「……何をしている」
「ここに住むわ」
「は?」
「次の仕事と、住む家が決まるまで。失業給付が出るまでの間よ。最長で三か月」
「正気か?ここは俺の自宅で、会社の役員フロアでもあるんだぞ」
「拓也の部屋、綺麗さっぱり空いたでしょう?」
「他人の家に居座る宣言を平然とするな」
「ただで置いてとは言わない。家賃の代わりに、掃除も洗濯も食事の支度も全部やる。これでも元総務だから、あなたの会社の備品管理だって手伝ってあげるわよ」
「そういう問題じゃないと言っている」
「じゃあ、何?結婚式当日に男に逃げられた白無垢姿の女を、今すぐ路上に放り出すっていうの?」
玲は苦々しく口を閉ざした。
ぐっと言葉に詰まった彼の顔を、私はソファから真っ直ぐに見上げる。
「あなたも被害者で、私も被害者。もしかしたら、拓也が戻ってくる可能性だってゼロじゃない。あいつの裏切りの証拠を集めるなら、私という当事者がここにいた方が、絶対に役に立つはずよ」
「…………三か月だけだ」
「交渉成立ね」
「ただし、まだ条件がある。下の社員たちの仕事を絶対に邪魔しないこと。会社の書類には勝手に触れないこと。……それから、男を連れ込まないこと」
「結婚式の当日に男に逃げられた女に向かって、よくそんな心配ができるわね。嫌味?」
「……念のためだ」
玲はひどく疲れた様子で額を押さえたあと、上質な革の財布から、一枚の黒いカードを細い指先で引き抜いた。
「近くのショップで、当面の着替えと日用品を買い揃えてこい」
「これ、何?」
「見れば分かるだろう、クレジットカードだ」
「色を見れば分かるわよ。どうしてこんなに黒いのって聞いてるの」
「余計なものは買うなよ」
「質問の答えになってない」
「早く行け。そんな白無垢姿で、下の社員たちに遭遇したくないだろう」
差し出されたカードを受け取る。ずしりと奇妙な重みを感じるのは、私の先入観のせいだろうか。
重い裾を抱え、玄関へ向かいかけて、ふと足を止める。
「暗証番号は?」
「必要ない。サインで使えるようにしてある」
「何それ、怖いんだけど。上限とかないの?」
「限度額を気にするような買い方だけはするな、と言っているんだ」
手の中の、冷たい黒いカードを強く握りしめた。
信じていた花婿には、最悪の形で逃げられた。
けれどその代わりに、私は彼の、偏屈で傲慢な親友と暮らすことになってしまった。
人生で最悪の日は、どうやらまだ、終わりを迎えてはくれないらしい。
九条玲は、まるで信じられない怪異でも目撃したかのような顔で私を凝視した。
普段の完璧な仕事モードとは違い、少し癖のある黒髪は無造作に乱れ、上質な白シャツの袖を肘まで無造作にまくり上げている。
彫刻のように端正な顔立ちの男だが、その冷徹さを孕んだ鋭い目つきと、徹底した愛想のなさは、優しさが売りだった拓也とは正反対の印象を与える。
「どうして、そんな格好でここにいる」
「……あなたこそ。今日の結婚式、代表挨拶で参列してくれるんじゃなかったの?」
「これから着替えて向かうつもりだった。……それより、今は挙式中のはずだろう」
「主役が来なかったのよ」
玲の形の良い眉が、不審そうに中央へ寄った。
「……何を言っている」
「言葉通りの意味。拓也は式場に現れなかった。携帯も繋がらない。まさか、会社にも来ていないんでしょう?」
「今日は朝から連絡が取れない。だが、昨日まではいつも通りだった。何か事故にでも巻き込まれたんじゃ――」
「だったら、今すぐあなたが電話してみてよ」
手元のスマートフォンを突きつける。液晶画面は、虚しく残された拓也への発信履歴でびっしりと埋め尽くされていた。
玲はまだ納得のいかない表情のまま、自身の端末を取り出してコールする。けれど、やはり呼び出し音すら鳴らずに、あの冷たい機械音声のガイダンスへと切り替わった。
「電源が切れている」
「知ってる。もう何十回も聞いたわ」
「病院に問い合わせる。それから警察にも届けて――」
「その前に、部屋を見せて」
玲の制止を待たず、私は奥の廊下へと足を踏み入れた。
「待て。勝手に入るな」
「私の荷物も置いてあるのよ!」
「今日から二人がここで同居する予定だったのは知っているが……っ」
「だったら止めないで!」
拓也が使っていた寝室の扉を、勢いよく押し開ける。
――けれど、視界に飛び込んできたのは、もぬけの殻になった空っぽのクローゼットだった。
昨日まで確かに掛かっていたはずのオーダーメイドのスーツも、整然と掛けられていたシャツも、一枚残らず消えている。棚にディスプレイされていた高級時計も、愛用していた香水も、趣味のカメラも、すべて。
部屋に一歩踏み込むと、私が先に畳んで運び込んでいた寝具だけが、冷え切った壁際にぽつんと取り残されていた。
「……嘘。私の段ボールまでない」
新生活のために新調したお気に入りの食器、日用品、仕事を辞める日に職場の同僚たちが「お幸せに」と送り出してくれたコーヒーメーカー。それらを大切に詰めたはずの箱が、半分以上も消え去っていた。
背後からついてきた玲も部屋を見回し、その顔色を微かに変える。
「いつの間に、これだけの荷物を運び出したんだ」
「私に聞かないでよ!ここをオフィスにして、日常的に出入りしていたのはあなたたちでしょう!?」
「俺は一昨日から投資家との面談でほとんど外に出ていた。社員たちも下のオフィスフロアしか使わない」
「ずいぶん都合のいい言い訳ね」
「……俺を疑っているのか」
「三十分前まで、婚約者が結婚式当日に夜逃げするなんて想像もしていなかったの!今の私が、一体誰を信じられるっていうのよ!」
感情のままに言い返す声が、静かな廊下に虚しく響き渡る。
玲は何かを噛み殺すように低く顎を引き、無言でリビングへと引き返した。私も重い白無垢の裾を引きずりながら、必死でその背中を追う。
「会社の口座を確認する」
「どうして、今そんなものを……」
「あいつがここまで計画的に私物を持ち出しているんだ。それだけで済んでいるとは思えない」
玲はデスクのノートパソコンを叩き、いくつもの厳重なセキュリティ認証を瞬時に通していく。
画面に並ぶ数字の羅列を冷徹に追っていた彼の動きが、ある一点でピタリと止まった。
「……嘘だろ」
「何が、あったの」
「先週から、備品購入と外注費の名目で、執拗に大口の送金が繰り返されている。合計で、六百八十万」
「誰が操作したの?」
「最終承認のログは、すべて拓也だ。……振込先は、エヴォルという会社になっている」
「それ、取引先なの?」
「名前だけは知っている。拓也の大学の後輩が立ち上げた会社だ。だが、うちが今期、そこに正式な発注を掛けた記憶は一切ない」
玲の低く引き締まった声から、目に見えて血の気が引いていくのが分かった。
胸を突く不穏な予感に急かされるように、私はガラステーブルに雑多に積まれた郵便物へ手を伸ばした。未開封の封筒を一つずつ、狂ったように引き剥がしていく。
その中から、拓也宛ての旅行会社からの明細書が、ぽろりと床に落ちた。
二人分の、海外行きの航空券。
出発日は、昨日。行き先は、きらびやかな南国のリゾート。
そして――同行者の欄に印字されていたのは、私の名前ではなかった。
「相沢美月……。ねえ、この誰とも知らない女は、一体誰?」
玲が私の手から、ひったくるように明細書を奪い取った。その瞳が激しく揺れている。
「……以前、業務委託でうちの広報を手伝っていた女だ。二か月前に契約を切ったはずだった」
「どうして契約を切ったの?」
「拓也が無理に引っ張ってきたが、実績に対してあまりに請求額が高すぎた。だから、俺が更新を止めたんだ」
「じゃあ、何?その女と、拓也は昨日から……南国へ高飛びしているの?」
ほんの数時間前、式場の椅子に座って、胸を高鳴らせていた自分の姿が脳裏をよぎる。
おめでとうと涙ぐむ母と笑い合い、大切な人たちの祝福を受けながら、ただ一途に彼の到着を待っていた。
その同じ時間に、彼は別の女の手を握って、飛行機の中で甘い囁きを交わしていたのだ。
胃の奥が、氷を詰め込まれたように冷たく凍りついていく。
それなのに、やっぱり涙は出てこなかった。悔しさと、惨めさと、言葉にならない屈辱が、目の前の男への怒りへと姿を変えて爆発する。
「なんで……なんで、一番近くにいて気づかなかったのよ!」
「俺に当たるな!」
「一番近くにいた親友で、ビジネスパートナーでしょう!?会社のお金まで抜かれて、あなた一体、彼の何を見ていたのよ!」
「いくら共同経営者だからって、私生活の裏まで監視できるわけがないだろう!」
「お金の流れは仕事でしょう!あなたの役割じゃない!」
「見落とした責任は認める!だが、お前にそこまで責められる筋合いは――」
「あるわよ!!」
叫びながら、白無垢の袖をぎゅっと握りしめた。指先が情けなく震える。
「私、この結婚のために仕事も辞めたの!家も引き払ったの!今日からここで、あいつと生きるために全部、全部手放したのよ!なんで気づいてくれなかったの……っ。私、もう行く場所なんてどこにもないのよ!」
玲の顔にも、隠しきれない疲労と苛烈な怒りが滲み出る。
「――その気の強さで、直前になって逃げ出したくなったんじゃないのか」
ピリッ、と部屋の空気が凍りついた。
言葉を吐き出した直後、玲自身がハッとしたように目を見開く。
「……すまない。今のは、俺が最低だった」
「ええ。本当に最低。最悪よ」
そのまま踵を返して出て行く気力さえ失い、私は目の前の重厚なソファへとドサリと腰を下ろした。がちがちに固められた帯のせいで背筋を伸ばすしかなく、深く身を預けることさえできない。
「……何をしている」
「ここに住むわ」
「は?」
「次の仕事と、住む家が決まるまで。失業給付が出るまでの間よ。最長で三か月」
「正気か?ここは俺の自宅で、会社の役員フロアでもあるんだぞ」
「拓也の部屋、綺麗さっぱり空いたでしょう?」
「他人の家に居座る宣言を平然とするな」
「ただで置いてとは言わない。家賃の代わりに、掃除も洗濯も食事の支度も全部やる。これでも元総務だから、あなたの会社の備品管理だって手伝ってあげるわよ」
「そういう問題じゃないと言っている」
「じゃあ、何?結婚式当日に男に逃げられた白無垢姿の女を、今すぐ路上に放り出すっていうの?」
玲は苦々しく口を閉ざした。
ぐっと言葉に詰まった彼の顔を、私はソファから真っ直ぐに見上げる。
「あなたも被害者で、私も被害者。もしかしたら、拓也が戻ってくる可能性だってゼロじゃない。あいつの裏切りの証拠を集めるなら、私という当事者がここにいた方が、絶対に役に立つはずよ」
「…………三か月だけだ」
「交渉成立ね」
「ただし、まだ条件がある。下の社員たちの仕事を絶対に邪魔しないこと。会社の書類には勝手に触れないこと。……それから、男を連れ込まないこと」
「結婚式の当日に男に逃げられた女に向かって、よくそんな心配ができるわね。嫌味?」
「……念のためだ」
玲はひどく疲れた様子で額を押さえたあと、上質な革の財布から、一枚の黒いカードを細い指先で引き抜いた。
「近くのショップで、当面の着替えと日用品を買い揃えてこい」
「これ、何?」
「見れば分かるだろう、クレジットカードだ」
「色を見れば分かるわよ。どうしてこんなに黒いのって聞いてるの」
「余計なものは買うなよ」
「質問の答えになってない」
「早く行け。そんな白無垢姿で、下の社員たちに遭遇したくないだろう」
差し出されたカードを受け取る。ずしりと奇妙な重みを感じるのは、私の先入観のせいだろうか。
重い裾を抱え、玄関へ向かいかけて、ふと足を止める。
「暗証番号は?」
「必要ない。サインで使えるようにしてある」
「何それ、怖いんだけど。上限とかないの?」
「限度額を気にするような買い方だけはするな、と言っているんだ」
手の中の、冷たい黒いカードを強く握りしめた。
信じていた花婿には、最悪の形で逃げられた。
けれどその代わりに、私は彼の、偏屈で傲慢な親友と暮らすことになってしまった。
人生で最悪の日は、どうやらまだ、終わりを迎えてはくれないらしい。



