白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 暗証番号を叩き込み、エレベーターへ滑り込む。
 静かに上昇していく密室の中で、激しい心臓の音だけが耳の奥でうるさいほどに鳴り響いていた。

 拓也を見つけたら、まずどの面下げて私に言い訳をするつもりだろう。
 もしも、くだらない理由で逃げ出したのだとしたら、一発殴るくらいじゃ絶対に気が済まない。

 最上階に到着した瞬間、呼び鈴も押さず、手荒に鍵を開けて扉を押し開けた。

「拓也……っ!!」

 怒号とともにリビングへ踏み込む。
 広い部屋の中央、書類の山を抱えた長身の男が、驚いたようにこちらを振り返った。

 ――そこにいたのは、拓也ではなかった。

 大学時代からの親友であり、この会社の共同代表でもある、九条玲。
 いつも冷静沈着で、滅多に感情を崩さない彼が、白無垢姿で肩を荒く上下させている私を見て、完全に言葉を失っていた。

「……神崎さん?」

 九条玲は、まるで信じられない怪異でも目撃したかのような顔で私を凝視した。
 普段の完璧な仕事モードとは違い、少し癖のある黒髪は無造作に乱れ、上質な白シャツの袖を肘まで無造作にまくり上げている。
 彫刻のように端正な顔立ちの男だが、その冷徹さを孕んだ鋭い目つきと、徹底した愛想のなさは、優しさが売りだった拓也とは正反対の印象を与える。

「どうして、そんな格好でここにいる」
「……あなたこそ。今日の結婚式、代表挨拶で参列してくれるんじゃなかったの?」
「これから着替えて向かうつもりだった。……それより、もうすぐ挙式のはずだろう」
「主役が来なかったのよ」

 九条の形の良い眉が、不審そうに中央へ寄った。

「……何を言っている」
「言葉通りの意味。拓也は式場に現れなかった。携帯も繋がらない。まさか、会社にも来ていないんでしょう?」
「今日は朝から連絡が取れない。だが、昨日まではいつも通りだった。何か事故にでも巻き込まれたんじゃ――」
「だったら、今すぐあなたが電話してみてよ」

 手元のスマートフォンを突きつける。液晶画面は、虚しく残された拓也への発信履歴でびっしりと埋め尽くされていた。
 九条はまだ納得のいかない表情のまま、自身の端末を取り出してコールする。
 けれど、やはり呼び出し音すら鳴らずに、あの冷たい機械音声のガイダンスへと切り替わった。

「電源が切れている」
「知ってる。もう何十回も聞いたわ」
「病院に問い合わせる。それから警察にも届けて――」
「その前に、部屋を見せて」

 九条の制止を待たず、奥の廊下へと足を踏み入れた。

「待て。勝手に入るな」
「私の荷物も置いてあるのよ!」
「今日から二人がここで同居する予定だったのは知っているが……っ」
「だったら止めないで!」

 拓也が使っていた寝室の扉を、勢いよく押し開ける。
 ――けれど、視界に飛び込んできたのは、もぬけの殻になった空っぽのクローゼットだった。

 昨日まで確かに掛かっていたはずのオーダーメイドのスーツも、整然と掛けられていたシャツも、一枚残らず消えている。
 棚にディスプレイされていた高級時計も、愛用していた香水も、趣味のカメラも、すべて。
 部屋に一歩踏み込むと、私が先に畳んで運び込んでいた寝具だけが、冷え切った壁際にぽつんと取り残されていた。

「……嘘。私の段ボールまでない」

 新生活のために新調したお気に入りの食器、日用品、仕事を辞める日に職場の同僚たちが「お幸せに」と送り出してくれたコーヒーメーカー。
 それらを大切に詰めたはずの箱が、半分以上も消え去っていた。
 背後からついてきた九条も部屋を見回し、その顔色を微かに変える。

「いつの間に、これだけの荷物を運び出したんだ」
「私に聞かないでよ!ここをオフィスにして、日常的に出入りしていたのはあなたたちでしょう!?」
「俺は一昨日から投資家との面談でほとんど外に出ていた。社員たちも下のオフィスフロアしか使わない」
「ずいぶん都合のいい言い訳ね」
「……俺を疑っているのか」
「三十分前まで、婚約者が結婚式当日に夜逃げするなんて想像もしていなかったの!今の私が、一体誰を信じられるっていうのよ!」

 感情のままに言い返す声が、静かな廊下に虚しく響き渡る。
 九条は何かを噛み殺すように低く顎を引き、無言でリビングへと引き返した。私も重い白無垢の裾を引きずりながら、必死でその背中を追う。

「会社の口座を確認する」
「どうして、今そんなものを……」
「あいつがここまで計画的に私物を持ち出しているんだ。それだけで済んでいるとは思えない」

 九条はデスクのノートパソコンを叩き、いくつもの厳重なセキュリティ認証を瞬時に通していく。
 画面に並ぶ数字の羅列を冷徹に追っていた彼の動きが、ある一点でピタリと止まった。

「……嘘だろ」
「何が、あったの」
「先週から、備品購入と外注費の名目で、執拗に大口の送金が繰り返されている。合計で、六百八十万」
「誰が操作したの?」
「最終承認のログは、すべて拓也だ。……振込先は、エヴォルという会社になっている」
「それ、取引先なの?」
「名前だけは知っている。拓也の大学の後輩が立ち上げた会社だ。だが、うちが今期、そこに正式な発注を掛けた記憶は一切ない」

 九条の低く引き締まった声から、目に見えて血の気が引いていくのが分かった。
 胸を突く不穏な予感に急かされるように、ガラステーブルに雑多に積まれた郵便物へ手を伸ばす。
 未開封の封筒を一つずつ、狂ったように引き剥がしていく。
 その中から、拓也宛ての旅行会社からの明細書が、ぽろりと床に落ちた。

 二人分の、海外行きの航空券。
 出発日は、昨日。行き先は、きらびやかな南国のリゾート。
 そして――同行者の欄に印字されていたのは、私の名前ではなかった。

「相沢美月……。ねえ、この女、誰?」

 私の手から、ひったくるように明細書を奪い取った。その瞳が激しく揺れている。

「……以前、業務委託でうちの広報を手伝っていた女だ。二か月前に契約を切ったはずだった」
「どうして契約を切ったの?」
「拓也が無理に引っ張ってきたが、実績に対してあまりに請求額が高すぎた。だから、俺が更新を止めたんだ」
「じゃあ、何?その女と、拓也は昨日から……南国へ高飛びしているの?」

 ほんの数時間前、式場の椅子に座って、胸を高鳴らせていた自分の姿が脳裏をよぎる。
 おめでとうと涙ぐむ母と笑い合い、大切な人たちの祝福を受けながら、ただ一途に彼の到着を待っていた。
 その同じ時間に、彼は別の女の手を握って、飛行機の中で甘い囁きを交わしていたのだ。