白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

「今夜、弁護士同席で相沢から直接話を聞く。お前はここで行く必要はない」
「行くわ」
「必要ないと言っている」
「私の人生と結婚式をめちゃくちゃに壊した相手よ。自分の目を見て、直接話を聞きたいの」
「また、お前が傷つくだけだ」
「それを決めるのは、あなたじゃなくて私よ」

 強い口調で言い返すと、降参したように大きなため息をついた。

「本当に、お前は言うことを聞かないな」
「今さら驚くことじゃないでしょう?」

 しばらく黙ったあと、低い声で言った。

「怖いのは、お前だけじゃない。俺もだ」
「あなたも?」
「親友だった男の裏切りを、浮気相手の口から聞くことになる」
「なら、なおさら一緒に行くわ」
「……助かる」

 その言葉だけで、九条の指先からわずかに力が抜けた。
 気丈に見せているけれど、私の頬に触れる九条の指先は、少しだけ冷たかった。
 かつての親友であり、ビジネスパートナーだった男の裏切りを、その浮気相手から生々しく突きつけられる。怖いのは、私だけじゃない。彼も同じなのだ。
 九条のシャツの袖を、ぎゅっと強く掴んだ。

「私も一緒に行くわ。……あなたを、一人にしないためでもあるから」

 九条の切れ長の目が、ふわりと細くなった。

「一人で抱え込むなと言ったのは、お前だったな」
「だから今、言ったでしょう」
「ああ。聞いた」
「私も怖い。でも、逃げない」
「俺も逃げない」

 テーブルの下で、九条の指先へ一度だけ触れた。
 短い接触でも、彼には伝わったらしい。

「これで少しは落ち着いた?」
「少しだけな」

 その時、上の階へ続く扉が三度ノックされた。
 私から一歩距離を取り、すぐに仕事の顔に戻る。

「九条さん、次の会議資料をお持ちしました」

 佐伯さんが室内へ入り、資料を差し出す。
 九条は受け取り、会議室へ置くよう簡潔に指示した。

「十分後に行く」
「承知しました」

 佐伯さんが一礼して退室した直後、顧問弁護士からメッセージが届く。

『相沢美月氏が、予定より一時間早く事務所へ到着しました』

 私たちは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。

 相沢美月は、以前に写真で見せてもらった姿よりも、ずっと幼く見えた。
 弁護士事務所の重厚な会議室で、彼女は小さく両手を膝の上に重ねて座っている。身にまとっているのは淡いベージュのニット。その細い指先からは、会社の資金で購入されたというあの赤い石のブレスレットは、もう綺麗に消えていた。

「神崎さん、本当に申し訳ありませんでした」

 私の顔を認識するなり、美月は深く頭を下げた。

「……謝られても、私の失った二年間がなかったことにはならないわ」
「わかっています」
「私と拓也が正式に婚約していたことは、当然知っていたんでしょう?」
「最初は、知っていました。でも、もうお二人の関係は冷え切っていて、破談になっていると聞かされて……。結婚式は、九条さんの会社へ信用をつけるために、拓也さんがどうしても挙げなきゃいけない形だけのセレモニーなんだって」
「形だけの結婚式のために、私の親族も、会社の人たちもあんなにたくさん呼んだっていうの?」
「今思えば、絶対におかしいって気づくべきでした。でも、拓也さんはその……」
「優しくて、誠実そうで、自分だけは世界で特別に愛されていると思わせるのが、本当に上手だったんでしょう?」

 美月が弾かれたように顔を上げると、自嘲するように弱々しく笑った。

「私も、あなたと全く同じだったから。だからわかるわよ」

 もちろん、彼女に同情するつもりは一ミリもない。美月は私の存在をはっきりと知りながら、拓也との関係を続けていたのだから。だが、拓也の甘い言葉を信じ切ってしまったその愚かさだけは、私自身にもあまりに痛いほどの覚えがあった。
 美月は震える手で、拓也が海外で管理・保管していた隠し口座のメモや、実質的に詐欺会社『エヴォル』を支配していたのが拓也であることを証明する、メッセージ履歴のコピーをテーブルへと提出した。

「海外に着いてから、私名義の口座に全額を移せと言われました。怪しいと思って私が断ったら、あの人、急に見たこともないほど態度が変わって……。激しい暴言を吐かれて、携帯も無理やり取り上げられそうになったんです」
「それで、あいつから逃げ出したのね」
「はい。現地のホテルのスタッフに必死に泣きついて、別の部屋へ匿ってもらいました」

 彼は、その間ほとんど口を開かなかった。
 提出された拓也のメッセージの束を読み進めるたび、彼の彫りの深い横顔が彫刻のように硬くなっていく。二人が出会った大学時代の眩しい思い出まで、そのすべてが拓也の嘘によって無残に塗り替えられていくような、そんな残酷な時間だった。

 すべての聴取を終え、重苦しい事務所の扉を出る。
 外はすでにすっかり暗くなっていた。前を見つめたまま、無言で歩き続ける。

「ねえ、どこまで行くの?」
「少し、歩きたいんだ」
「なら、私も付き合うわ」
「お前はもう疲れただろう。タクシーで帰っていいぞ」
「一人にしないって、さっき私が言ったでしょう?」

 歩幅を早めて、彼の隣へと並んで歩く。
 夜の繁華街のきらびやかな明かりが、昨日の雨で濡れたアスファルトの舗道へと、色とりどりに反射して光っている。しばらく黙って歩いたあと、川にかかる静かな橋の上で不意に足を止めた。

「あいつと、ボロアパートの一室で会社を立ち上げた時、本当に一分も金がなかった」
「うん」
「俺は実家のグループを絶対に頼りたくなくて、拓也は泥臭く営業先をいくつも走り回ってくれた。二人で一番安いコンビニ弁当を分け合って食って、毎日のように徹夜して……最初の大きな契約が取れた時は、二人で朝まで安い居酒屋で泥酔するまで飲んだんだ。……あの時の熱量まで、すべてが最初から嘘だったとは思えない。だが、一体どこからあいつが変わってしまったのか、俺にはわからないんだ」
「……変わったんじゃなくて、ただ、隠すのが上手くなっただけかもしれないわよ」
「お前は本当に、容赦がないな」
「だって、私も全く同じことを何度も考えたから。あいつが私に向けてくれた優しい言葉も、あの笑顔の日も、全部が嘘だったのかなって」

 まっすぐな視線が、私へ向けられる。

「その問いに、お前なりの答えは出たのか」
「出ないわよ。だから、もう考えるのをやめることにしたの。過去の拓也が本気だったかどうかを悩むより、今、この場所で私がどう生きるかの方が、ずっと大事だから」
「お前は、本当に強いな」
「……それ、今日で何度目?」
「何度でも言ってやる」