振り返ると、九条の表情からはすでに私的な甘さが消えていた。
出会ったばかりの頃の彼は、もっと無愛想で、必要なこと以外は一切口にしない冷徹な人間だったはずなのに。
二人きりの時にだけ見せる顔を知ってしまったせいで、冷徹な社長の横顔まで以前より眩しく見える。
玄関を開けると、宮田さんが心配そうな顔で、少し重そうな紙袋を両手で抱えて立っていた。
「神崎さん、おはようございます。九条さんの風邪、大丈夫でしたか?」
「おはよう、宮田さん。ええ、もうすっかり元気よ。元気すぎてこっちが困っちゃうくらいにね」
「ふふ、何かあったんですか?」
「何もないわ。本当に、何も」
私が必死に平静を装って答えていると、私の背後から静かに近づいてきた九条が、低く落ち着いた声で口を挟む。
「もう問題ない。宮田、引き継ぎを助かった」
宮田さんは安堵したように頷いた。
すぐに紙袋から引き継ぎ資料を取り出す。
「安心しました。昨日の対応内容をまとめてあります」
資料を受け取ると、私へ向けていた甘さを一切残さず、確認事項を簡潔に伝え始めた。
二人の仕事を邪魔しないよう、洗面所へ向かい、冷たい水で何度も顔を洗った。
タオルで水分を拭いながらふと鏡を見つめると、自分の唇がいつもより少しだけ赤く、ぷっくりと腫れていることに気づいた。慌てて指先で冷たい水を当ててみるけれど、皮膚の下で燻る心地よい熱はちっとも引いてくれない。鏡の向こうの女は、昨日までの自分と全く同じ顔をしているはずなのに、その目元だけが、自分でも驚くほど妙に柔らかく潤んで見えた。
その日の夜、最後の社員が帰ったあと、私たちは洗面台に並んで立った。
九条がいつも使っている黒い歯ブラシのすぐ隣には、私がこの家に転がり込んできた日から仮として使っていた、飾り気のない使い捨ての歯ブラシがひっそりと置かれている。
「今日、新しいのを買う」
「……私、まだただの居候なのに?」
「毎晩こっちの部屋にいるなら、きちんとしたものが必要だろ」
「毎晩なんて、勝手に決めないでちょうだい」
「昨日のあの様子なら、今日も間違いなく来る」
「あなた、本当に自信家ね」
ぷいっと横を向いて言い返しながらも、洗面台のホルダーに収まった自分の古い歯ブラシを、ゴミ箱へ捨てることだけはしなかった。
そんな強がりを一ミリも信じていない様子で、ただ嬉しそうに私の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
関係を持ったからといって、すぐに恋人になったわけではない。
少なくとも、そう思っていた。
何も言わない。ただし、以前より明らかに距離が近い。
キッチンで料理をしていれば、背後から手を伸ばして味見をする。ソファで求人情報を見ていると、当然のように隣へ座り、肩へ腕を回す。眠る前には私の部屋を覗き、「今日はこっちで寝るか」と聞く。
「どうして私の部屋じゃなく、あなたの部屋なの」
「拓也が使っていた部屋で、お前に触れたくない」
そう言われると、強く拒めない。
最初の夜から一週間で、私が自室のベッドを使ったのは二日だけ。
朝、九条のシャツを借りてキッチンへ立っていると、本人が背後から私の腰を抱きすくめてくる。
「離れて。包丁を持ってるわよ」
「危ないな」
「あなたがね」
「今日の朝食は何だ」
「フレンチトースト」
「甘いな」
「嫌なら食べなくていいわよ」
「お前が作ったものは、全部食べる」
首筋へ、甘い口づけがふわりと落ちる。
「ちょっと、朝からやめて」
「昨夜はもっと、強情に求めてただろう」
「社員が来る前に、ちゃんと社長の顔に戻って」
「俺はいつも同じ顔だ」
「……キャラ変し過ぎじゃない、あなた……?」
「全部お前のせいだろ」
さらりと言われ、ボウルの卵液を混ぜる手を止める。
「そういう恥ずかしいセリフ、普通に言うようになったわね」
「何がだ」
「なんでもないわよ」
私の首筋へ顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「やめてってば」
「まだ跡が残ってるな」
「増やさないでよ」
「見えないところならいいか?」
「そういう問題じゃないわよ」
「ベッドでは、もっと、と頼んでたくせに」
「……今日の朝食、抜きにするわよ」
「それは困る」
名残惜しそうに、ゆっくりと腰から腕が離れていく。
下の階のオフィスでは、社員たちが以前どおり忙しなく働いている。私も頼まれた経理資料の整理を手伝いながら、合間に求人サイトを真剣に確認し始めた。
九条の会社で必要とされるのは、純粋に嬉しい。けれど、このまま甘えて無給の手伝いを続けるわけにはいかないのだ。
「神崎さん、正式にうちへ入社しないんですか?」
「九条にも同じことを言われたけど、今はそのつもりはないの」
「どうしてです?息もぴったりなのに」
「家も仕事も九条に頼ってしまったら、もし喧嘩した時に、私の居場所が全部一瞬でなくなるでしょう?」
「なるほど、現実的ですね」
「一回、まとめてすべてを失ったからね」
宮田さんは納得したように、深く頷いた。
「でも、神崎さんがいなくなったら困ります」
「会社が?」
「いいえ、九条さんがです」
「えっ」
午後、取引先とのオンライン会議の最中、九条の携帯電話が何度も激しく鳴った。顧問弁護士からだ。
会議が終わるや否や、上階のプライベートスペースへ呼ばれた。
「拓也が日本に帰国した」
「空港で警察に捕まったの?」
「いや。警察が動く前に入国し、そのまま行方をくらませたらしい。相沢とは完全に別行動だ」
「あいつ、また逃げたのね」
「ただ、相沢がこちらの弁護士へ直接連絡してきた」
美月は海外で拓也と揉め、一足先に一人で帰国していた。持ち出した資金の多くを拓也が独占管理し、美月には「これはお前と結婚するための資金だ」と話していたらしい。
「私と結婚式を挙げる予定だったのに、よくそんなことが言えたわね」
「相沢には、お前との婚約はすべて会社の信用のための偽装だと言い訳していたそうだ」
怒るより先に、あまりのくだらなさに呆れが勝つ。
「よく、そんな嘘を次々と吐けるものね」
「相沢は『自分も騙された被害者だ』と主張している。拓也の隠し場所や証拠を出す代わりに、こちらの告訴の責任を軽くしてほしいと求めてきている」
「浮気相手に同情する気はないけれど、いかにも拓也らしい姑息なやり方ね」
手元の資料をパタンと閉じた。
出会ったばかりの頃の彼は、もっと無愛想で、必要なこと以外は一切口にしない冷徹な人間だったはずなのに。
二人きりの時にだけ見せる顔を知ってしまったせいで、冷徹な社長の横顔まで以前より眩しく見える。
玄関を開けると、宮田さんが心配そうな顔で、少し重そうな紙袋を両手で抱えて立っていた。
「神崎さん、おはようございます。九条さんの風邪、大丈夫でしたか?」
「おはよう、宮田さん。ええ、もうすっかり元気よ。元気すぎてこっちが困っちゃうくらいにね」
「ふふ、何かあったんですか?」
「何もないわ。本当に、何も」
私が必死に平静を装って答えていると、私の背後から静かに近づいてきた九条が、低く落ち着いた声で口を挟む。
「もう問題ない。宮田、引き継ぎを助かった」
宮田さんは安堵したように頷いた。
すぐに紙袋から引き継ぎ資料を取り出す。
「安心しました。昨日の対応内容をまとめてあります」
資料を受け取ると、私へ向けていた甘さを一切残さず、確認事項を簡潔に伝え始めた。
二人の仕事を邪魔しないよう、洗面所へ向かい、冷たい水で何度も顔を洗った。
タオルで水分を拭いながらふと鏡を見つめると、自分の唇がいつもより少しだけ赤く、ぷっくりと腫れていることに気づいた。慌てて指先で冷たい水を当ててみるけれど、皮膚の下で燻る心地よい熱はちっとも引いてくれない。鏡の向こうの女は、昨日までの自分と全く同じ顔をしているはずなのに、その目元だけが、自分でも驚くほど妙に柔らかく潤んで見えた。
その日の夜、最後の社員が帰ったあと、私たちは洗面台に並んで立った。
九条がいつも使っている黒い歯ブラシのすぐ隣には、私がこの家に転がり込んできた日から仮として使っていた、飾り気のない使い捨ての歯ブラシがひっそりと置かれている。
「今日、新しいのを買う」
「……私、まだただの居候なのに?」
「毎晩こっちの部屋にいるなら、きちんとしたものが必要だろ」
「毎晩なんて、勝手に決めないでちょうだい」
「昨日のあの様子なら、今日も間違いなく来る」
「あなた、本当に自信家ね」
ぷいっと横を向いて言い返しながらも、洗面台のホルダーに収まった自分の古い歯ブラシを、ゴミ箱へ捨てることだけはしなかった。
そんな強がりを一ミリも信じていない様子で、ただ嬉しそうに私の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
関係を持ったからといって、すぐに恋人になったわけではない。
少なくとも、そう思っていた。
何も言わない。ただし、以前より明らかに距離が近い。
キッチンで料理をしていれば、背後から手を伸ばして味見をする。ソファで求人情報を見ていると、当然のように隣へ座り、肩へ腕を回す。眠る前には私の部屋を覗き、「今日はこっちで寝るか」と聞く。
「どうして私の部屋じゃなく、あなたの部屋なの」
「拓也が使っていた部屋で、お前に触れたくない」
そう言われると、強く拒めない。
最初の夜から一週間で、私が自室のベッドを使ったのは二日だけ。
朝、九条のシャツを借りてキッチンへ立っていると、本人が背後から私の腰を抱きすくめてくる。
「離れて。包丁を持ってるわよ」
「危ないな」
「あなたがね」
「今日の朝食は何だ」
「フレンチトースト」
「甘いな」
「嫌なら食べなくていいわよ」
「お前が作ったものは、全部食べる」
首筋へ、甘い口づけがふわりと落ちる。
「ちょっと、朝からやめて」
「昨夜はもっと、強情に求めてただろう」
「社員が来る前に、ちゃんと社長の顔に戻って」
「俺はいつも同じ顔だ」
「……キャラ変し過ぎじゃない、あなた……?」
「全部お前のせいだろ」
さらりと言われ、ボウルの卵液を混ぜる手を止める。
「そういう恥ずかしいセリフ、普通に言うようになったわね」
「何がだ」
「なんでもないわよ」
私の首筋へ顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「やめてってば」
「まだ跡が残ってるな」
「増やさないでよ」
「見えないところならいいか?」
「そういう問題じゃないわよ」
「ベッドでは、もっと、と頼んでたくせに」
「……今日の朝食、抜きにするわよ」
「それは困る」
名残惜しそうに、ゆっくりと腰から腕が離れていく。
下の階のオフィスでは、社員たちが以前どおり忙しなく働いている。私も頼まれた経理資料の整理を手伝いながら、合間に求人サイトを真剣に確認し始めた。
九条の会社で必要とされるのは、純粋に嬉しい。けれど、このまま甘えて無給の手伝いを続けるわけにはいかないのだ。
「神崎さん、正式にうちへ入社しないんですか?」
「九条にも同じことを言われたけど、今はそのつもりはないの」
「どうしてです?息もぴったりなのに」
「家も仕事も九条に頼ってしまったら、もし喧嘩した時に、私の居場所が全部一瞬でなくなるでしょう?」
「なるほど、現実的ですね」
「一回、まとめてすべてを失ったからね」
宮田さんは納得したように、深く頷いた。
「でも、神崎さんがいなくなったら困ります」
「会社が?」
「いいえ、九条さんがです」
「えっ」
午後、取引先とのオンライン会議の最中、九条の携帯電話が何度も激しく鳴った。顧問弁護士からだ。
会議が終わるや否や、上階のプライベートスペースへ呼ばれた。
「拓也が日本に帰国した」
「空港で警察に捕まったの?」
「いや。警察が動く前に入国し、そのまま行方をくらませたらしい。相沢とは完全に別行動だ」
「あいつ、また逃げたのね」
「ただ、相沢がこちらの弁護士へ直接連絡してきた」
美月は海外で拓也と揉め、一足先に一人で帰国していた。持ち出した資金の多くを拓也が独占管理し、美月には「これはお前と結婚するための資金だ」と話していたらしい。
「私と結婚式を挙げる予定だったのに、よくそんなことが言えたわね」
「相沢には、お前との婚約はすべて会社の信用のための偽装だと言い訳していたそうだ」
怒るより先に、あまりのくだらなさに呆れが勝つ。
「よく、そんな嘘を次々と吐けるものね」
「相沢は『自分も騙された被害者だ』と主張している。拓也の隠し場所や証拠を出す代わりに、こちらの告訴の責任を軽くしてほしいと求めてきている」
「浮気相手に同情する気はないけれど、いかにも拓也らしい姑息なやり方ね」
手元の資料をパタンと閉じた。



