「明日、起きてからもその言い方をしたら本気で怒るからね」
「覚えておく」
「絶対よ」
「ああ」
九条の温かい胸へと頬を寄せる。トントンと刻まれる、彼の規則正しい心音が耳に心地よく届いた。
拓也の醜い嘘を示すあの報告書は、まだ下の階のリビングの封筒の中に入ったままだ。
それでも今夜、私が最後に見た景色は、私を裏切って逃げた男の冷たい背中なんかでは決してなかった。
朝、最初に目に入ったのは、九条の鎖骨だった。
数秒の間、自分が今どこで何をしているのか、状況をすぐに理解することができなかった。
頬の下に感じる、硬くて温かい男の胸。私の腰をしっかりと抱き寄せている逞しい腕。そして、自分の素肌へ直接触れる、いつもとは違う上質なシーツの滑らかな感触。
昨夜の甘くて熱い記憶が、頭の中に一気に押し寄せて戻ってくる。
「……起きてる?」
「今、起きた」
すぐ頭上から、少し掠れた低い声が降ってきた。
恥ずかしくて、どうしても顔を上げることができない。後悔なんてこれっぽっちもしていない。けれど、眩しい朝の光の中で、裸のまま彼と真っ正面から向き合うだけの心の準備までは、まだ用意できていなかった。
「腕、退けて」
「嫌だ」
「起きるのよ」
「まだ七時だ」
「本当に?」
「下の階のオフィスに彼らが来るのは九時だ。まだ二時間もある」
「朝ご飯を作るわ」
「今日は作らなくていい。ここで大人しくしてろ」
私の腰を抱く腕の力が、さらにぐっと強くなる。
「九条……」
「昨夜は何度も俺を呼んでいただろう」
からかうような囁きに、耳の先まで一気に熱くなっていくのが分かった。
「……覚えてないわよ」
「酒のせいにするなと、昨夜あれほど約束したはずだが」
「そこだけはよく覚えてるわね」
「なら、もう一度呼んでみろ」
「調子に乗らないでちょうだい」
胸を軽く押してようやく顔を上げると、彼は意外なほど穏やかで、優しさに満ちた表情を浮かべていた。いつも会社で見せるような、冷徹で人を寄せ付けない鋭さはどこにもない。
「後悔、してるか」
彼の声だけが、急に真剣なトーンを帯びる。
「……してないわ」
「本当に?」
「何度も同じことを聞かないで。昨夜、私は自分で決めたって言ったでしょう」
「なら、いい」
「あなたは……後悔してる?」
「するわけがないだろう」
少しの迷いもなく即答され、胸の奥がくすぐったいような、不思議な甘さに満たされる。
九条の長い指先が、私の乱れた髪をそっと耳の後ろへと掛けた。その拍子に、彼の視線が、私の首筋にうっすらと残る赤い痕へと落ちる。
「……思ったより目立つな」
「一体誰のせいだと思っているのよ」
「首元が隠れる服を買ってやる」
「またあの黒いクレジットカードで?」
「今度は俺が、お前に似合うものを選ぶ」
恥ずかしさをごまかすように起き上がろうとした私は、腰に上手く力が入らず、思わず「あ、」と小さく顔をしかめてしまった。
それを見た九条の整った口元が、意地悪そうに緩む。
「何よ、笑わないで」
「昨日はあれほど強気なことを言っていたのに」
「うるさいわね」
「ベッドの上では、あんなに素直に俺を求めていただろう」
枕元にあったクッションを掴んで九条に向けて投げつけたが、彼はそれを片手で軽々と受け止めた。
「最低」
「昨日も聞いたな、そのセリフ」
「前言撤回。昨日より何倍も最低よ」
「その割には、顔が真っ赤だぞ」
「……本当に殴るわよ」
「腰が痛むくせに、そんな力があるのか?」
「あるわよ。本当に一発殴ってやるんだから」
私が小さな拳を振り上げると、その手首を優しく掴み、そのまま指先へとそっと唇を寄せ、静かに口づけを落とした。
その一連の動きがあまりにも自然で、私の言葉は完全に途切れてしまう。
「……何してるのよ」
「殴られる前に、お前を懐柔しているんだ」
「そんな安易な子供騙しで、私が騙されると思ってる?」
「十分に効いている顔をしているがな」
悔しいけれど、全くその通りで否定することができない。
満足そうに微笑むと、ベッドから軽やかに降りて、床に散らばった自分の服を拾い上げた。シワの寄ったシャツを羽織る彼の広い背中には、昨夜、私が無我夢中でつけた爪痕がうっすらと赤く残っている。
自分が彼にそんな痕を残したのだと思うと、ますます顔が火を噴きそうに熱くなった。
「見るな」
「私の部屋じゃないんだから、どこを見ようと勝手でしょう」
「なら、この傷の責任を取れ」
「だから、責任って言葉を簡単に使わないでって言ったじゃないの」
「これは俺の背中の傷に対する責任だ」
「ただの屁理屈よ」
朝食は、汚名返上とばかりに九条が作ると言い張った。
けれど、テーブルに並んだのは、端が少し焦げたトーストと、形が崩れて黄身が潰れた不格好な目玉焼きだった。
「……あなた、本当に料理の才能だけはないのね」
「食べられるレベルだろ」
「食べられることと、美味しいことは全然違うの。覚えておいて」
「昨日の夜は、何一つ文句を言わずに完食したくせに」
「何の話よ」
「俺が作ったわけじゃないが、お前は俺を貪るように――」
「朝からそんなこと言ったら、この焦げたトーストを皿ごと投げつけるわよ」
楽しそうに声を立てて笑いながら、淹れ立てのコーヒーを口へ運んだ。
九時前、首元が完全に隠れるハイネックのニットに着替えた。洗面台の鏡で、赤い痕がはみ出ていないか、何度も角度を変えて確認する。
リビングへ戻ると、気配もなく背後から近づき、私の襟元を長い指先で優しく直してくれた。
「よし、綺麗に隠れてる」
「だから、誰のせいだと思ってるの」
「俺のせいだな」
耳元でいたずらっぽく答えられ、私の肩がびくっと跳ねる。
「もうすぐ社員の皆さんが来るから、ここからは仕事の顔に戻ってね」
「わかっている」
「本当に?」
「勤務中は触れない。お前が望んだことだ」
名残惜しそうに私の襟元を整えると、すぐに一歩離れた。
「切り替えが早すぎない?」
「仕事中だからな」
「さっきまでと別人みたい」
「続きは今夜だ」
「今夜まで待てるの?」
「待てない。だが、待つ」
「偉いわね」
「褒めるなら、あとで聞く」
タイミング良く、リビングのインターホンが鳴った。玄関へと向かう。
「神崎さん。九時から昨日の引き継ぎを確認します」
「……もう仕事の呼び方?」
「勤務時間だからな」
「覚えておく」
「絶対よ」
「ああ」
九条の温かい胸へと頬を寄せる。トントンと刻まれる、彼の規則正しい心音が耳に心地よく届いた。
拓也の醜い嘘を示すあの報告書は、まだ下の階のリビングの封筒の中に入ったままだ。
それでも今夜、私が最後に見た景色は、私を裏切って逃げた男の冷たい背中なんかでは決してなかった。
朝、最初に目に入ったのは、九条の鎖骨だった。
数秒の間、自分が今どこで何をしているのか、状況をすぐに理解することができなかった。
頬の下に感じる、硬くて温かい男の胸。私の腰をしっかりと抱き寄せている逞しい腕。そして、自分の素肌へ直接触れる、いつもとは違う上質なシーツの滑らかな感触。
昨夜の甘くて熱い記憶が、頭の中に一気に押し寄せて戻ってくる。
「……起きてる?」
「今、起きた」
すぐ頭上から、少し掠れた低い声が降ってきた。
恥ずかしくて、どうしても顔を上げることができない。後悔なんてこれっぽっちもしていない。けれど、眩しい朝の光の中で、裸のまま彼と真っ正面から向き合うだけの心の準備までは、まだ用意できていなかった。
「腕、退けて」
「嫌だ」
「起きるのよ」
「まだ七時だ」
「本当に?」
「下の階のオフィスに彼らが来るのは九時だ。まだ二時間もある」
「朝ご飯を作るわ」
「今日は作らなくていい。ここで大人しくしてろ」
私の腰を抱く腕の力が、さらにぐっと強くなる。
「九条……」
「昨夜は何度も俺を呼んでいただろう」
からかうような囁きに、耳の先まで一気に熱くなっていくのが分かった。
「……覚えてないわよ」
「酒のせいにするなと、昨夜あれほど約束したはずだが」
「そこだけはよく覚えてるわね」
「なら、もう一度呼んでみろ」
「調子に乗らないでちょうだい」
胸を軽く押してようやく顔を上げると、彼は意外なほど穏やかで、優しさに満ちた表情を浮かべていた。いつも会社で見せるような、冷徹で人を寄せ付けない鋭さはどこにもない。
「後悔、してるか」
彼の声だけが、急に真剣なトーンを帯びる。
「……してないわ」
「本当に?」
「何度も同じことを聞かないで。昨夜、私は自分で決めたって言ったでしょう」
「なら、いい」
「あなたは……後悔してる?」
「するわけがないだろう」
少しの迷いもなく即答され、胸の奥がくすぐったいような、不思議な甘さに満たされる。
九条の長い指先が、私の乱れた髪をそっと耳の後ろへと掛けた。その拍子に、彼の視線が、私の首筋にうっすらと残る赤い痕へと落ちる。
「……思ったより目立つな」
「一体誰のせいだと思っているのよ」
「首元が隠れる服を買ってやる」
「またあの黒いクレジットカードで?」
「今度は俺が、お前に似合うものを選ぶ」
恥ずかしさをごまかすように起き上がろうとした私は、腰に上手く力が入らず、思わず「あ、」と小さく顔をしかめてしまった。
それを見た九条の整った口元が、意地悪そうに緩む。
「何よ、笑わないで」
「昨日はあれほど強気なことを言っていたのに」
「うるさいわね」
「ベッドの上では、あんなに素直に俺を求めていただろう」
枕元にあったクッションを掴んで九条に向けて投げつけたが、彼はそれを片手で軽々と受け止めた。
「最低」
「昨日も聞いたな、そのセリフ」
「前言撤回。昨日より何倍も最低よ」
「その割には、顔が真っ赤だぞ」
「……本当に殴るわよ」
「腰が痛むくせに、そんな力があるのか?」
「あるわよ。本当に一発殴ってやるんだから」
私が小さな拳を振り上げると、その手首を優しく掴み、そのまま指先へとそっと唇を寄せ、静かに口づけを落とした。
その一連の動きがあまりにも自然で、私の言葉は完全に途切れてしまう。
「……何してるのよ」
「殴られる前に、お前を懐柔しているんだ」
「そんな安易な子供騙しで、私が騙されると思ってる?」
「十分に効いている顔をしているがな」
悔しいけれど、全くその通りで否定することができない。
満足そうに微笑むと、ベッドから軽やかに降りて、床に散らばった自分の服を拾い上げた。シワの寄ったシャツを羽織る彼の広い背中には、昨夜、私が無我夢中でつけた爪痕がうっすらと赤く残っている。
自分が彼にそんな痕を残したのだと思うと、ますます顔が火を噴きそうに熱くなった。
「見るな」
「私の部屋じゃないんだから、どこを見ようと勝手でしょう」
「なら、この傷の責任を取れ」
「だから、責任って言葉を簡単に使わないでって言ったじゃないの」
「これは俺の背中の傷に対する責任だ」
「ただの屁理屈よ」
朝食は、汚名返上とばかりに九条が作ると言い張った。
けれど、テーブルに並んだのは、端が少し焦げたトーストと、形が崩れて黄身が潰れた不格好な目玉焼きだった。
「……あなた、本当に料理の才能だけはないのね」
「食べられるレベルだろ」
「食べられることと、美味しいことは全然違うの。覚えておいて」
「昨日の夜は、何一つ文句を言わずに完食したくせに」
「何の話よ」
「俺が作ったわけじゃないが、お前は俺を貪るように――」
「朝からそんなこと言ったら、この焦げたトーストを皿ごと投げつけるわよ」
楽しそうに声を立てて笑いながら、淹れ立てのコーヒーを口へ運んだ。
九時前、首元が完全に隠れるハイネックのニットに着替えた。洗面台の鏡で、赤い痕がはみ出ていないか、何度も角度を変えて確認する。
リビングへ戻ると、気配もなく背後から近づき、私の襟元を長い指先で優しく直してくれた。
「よし、綺麗に隠れてる」
「だから、誰のせいだと思ってるの」
「俺のせいだな」
耳元でいたずらっぽく答えられ、私の肩がびくっと跳ねる。
「もうすぐ社員の皆さんが来るから、ここからは仕事の顔に戻ってね」
「わかっている」
「本当に?」
「勤務中は触れない。お前が望んだことだ」
名残惜しそうに私の襟元を整えると、すぐに一歩離れた。
「切り替えが早すぎない?」
「仕事中だからな」
「さっきまでと別人みたい」
「続きは今夜だ」
「今夜まで待てるの?」
「待てない。だが、待つ」
「偉いわね」
「褒めるなら、あとで聞く」
タイミング良く、リビングのインターホンが鳴った。玄関へと向かう。
「神崎さん。九時から昨日の引き継ぎを確認します」
「……もう仕事の呼び方?」
「勤務時間だからな」



