白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 九条の親指が、私の頬に残った涙をゆっくりと拭った。

「酔ってる」
「知ってるわよ」
「泣いてる」
「それも見ればわかるでしょう」
「今の私、相当ひどい顔よ」
「普段より素直で、かわいい」

 その言葉に、胸の奥がドクンと大きく跳ねる。

「……泣いてる女にそういうこと言うの、本当に趣味が悪いわ」
「否定はしない」

 九条の手は、私の頬から離れようとしない。触れられている場所からじわじわと熱が広がり、ワインのせいだけではない、特別な酔いが頭を回らせていく。

「部屋へ戻って寝ろ」
「……私を追い出すの?」
「このままお前が隣にいたら、俺がまともな判断をできなくなる」
「私は、まともじゃないって言いたいの?」
「そうじゃない。お前が明日、後悔するようなことをしたくないんだ」

 立ち上がろうとした九条のシャツの裾を、咄嗟に掴んでいた。

「行かないで」
「莉乃」

 再び、名前を呼ばれる。熱を出した夜の、朧気な呼びかけとは違う。彼は完全に目を覚ましていて、まっすぐに私だけを見つめている。

「今夜だけは、誰かのそばにいたいの」
「それが、俺でいいのか」
「誰でもいいんじゃないって、あなたが言ったんでしょう?」
「俺がそう言うのと、お前が俺を選ぶのは全く別の話だ」

 私の前へ少しだけ屈み、目線を合わせた。

「明日の朝、俺の顔を見て、拓也の代わりだったとは絶対に言わせない」
「言わないわ」
「寂しかったから、選択を間違えたとも言うな」
「言わない」
「酒のせいにもするな」
「しつこい」
「確認してるんだ」

 綺麗な瞳が、かすかに揺れているのが分かった。
 自ら涙を拭い、九条のシャツの襟元をぐっと強く掴んだ。

「私は、今夜のことを自分で決めたいの。拓也に勝手に決められた仕事も、家も、結婚も、私の人生から全部なくなったから。せめて、今ここで誰に触れてほしいかくらい、自分で選ばせてちょうだい」
「……後悔するぞ」
「その時は、私がちゃんと責任を取るわ」
「そんな言い方を、男の前でするな」
「どうしてよ」
「止まれなくなる」

 答える代わりに、九条の唇へ、自分の唇をそっと重ねた。
 一度だけ触れて、すぐに離れるつもりだった。
 けれど、私の後頭部へ九条の大きな手が回り、すぐに引き戻される。今度の口づけは深く、私の逃げ道をすべて塞いでしまうようだった。

 口の中に残るワインの渋みと、九条の熱い息が混ざり合う。
 私の指からすっと力が抜け、掴んでいたシャツの布を握り直した。九条の逞しい腕が私の腰へ回り、身体ごと強く引き寄せられる。

「まだ、やめられる」

 ほんのわずかに唇が離れた隙間で、低く囁いた。

「やめない」
「本当に強情だな」
「……嫌い?」
「逆だ」

 耳元へ落ちてきたその声に、背筋がゾクりと震えた。
 唇が私の頬を辿り、剥き出しの首筋へ深く触れる。普段は刺々しい言葉ばかりを投げてくる男が、私の存在を確かめるように、何度も優しく肌へ口づけていく。
 そのくすぐったさに身を竦めると、ふっと小さく笑った。

「そこ、弱いのか」
「知らないわよ」
「拓也は……」
「今、その名前を出さないで……!」
「悪い」
「本当に悪いと思ってる?」
「口を塞いだ方が早そうだな」

 不敵に笑う彼に、再び唇を奪われる。
 けれど、そのままソファへ押し倒される寸前、急に動きを止めた。

「ここは嫌だ」
「急に何よ」
「社員が朝、上がってくる」
「……現実的すぎるでしょう、あなた」
「お前の泣き顔を見られるのも嫌だが、別の顔はもっと見せたくない」

 その言葉の意味を正しく理解してしまい、頬が一気に熱くなる。

「……どの部屋へ行くの?」
「俺の部屋だ。あいつが使ってたあの部屋では、お前を抱きたくない」

 その言葉だけで、私の胸の奥に残っていた冷たい澱のようなものが、少しだけ溶けていくのが分かった。
 軽々と私を横抱きにした。

「ちょっと、歩けるわよ」
「足元がふらついてるだろ」
「……重いでしょう?」
「思ったよりずっと軽い。明日からちゃんと食え」
「今そんなこと言う?」

 彼の寝室へと運ばれ、広いベッドの上へと静かに下ろされる。
 部屋の照明が落とされ、カーテンの隙間から、外の青白い街明かりだけが薄く差し込んでいた。

 彼は、決して急がなかった。
 私の頬へ優しく触れ、乱れた髪を梳き、何度も私の意思を確かめるように見つめてくる。服の上から背中を大きな手で愛おしそうに撫でられるだけで、私の呼吸は浅くなっていった。

「嫌なら今すぐ言え」
「嫌じゃないわ」
「痛かったら?」
「……言う」
「名前は」
「何の確認よ、それ……」
「今、お前が誰に触れられてるか、ちゃんと分かっているか」

 九条の少し熱い頬を、両手でそっと挟み込んだ。

「九条玲。口が悪くて、生活能力がなくて、風邪を引くまで無茶をして働く馬鹿な社長よ」
「そこまでハキハキと言えるなら大丈夫そうだな」
「でも……私を置いていかなかった人」
「俺は、お前を絶対に置いていかない」

 九条の表情から、いつものからかうような色が完全に消え去る。
 その確かな言葉とともに、二人の唇が再び重なり合った。
 夜が深く深くなるにつれて、私の声は次第に言葉にならなくなっていった。強がる余裕も、怒りを鎧にする必要も、ここには何一つない。

 腕の中で、人生で初めて、自分から誰かへとしがみつき、強く縋っていた。
 九条の指は、私の左手の薬指には決して触れようとしなかった。そこに見えない深い傷があることを、すべて知っているかのように、手のひらや手首、肩へと丁寧に愛を注いでいく。急ごうとしないその慎重さが、かえって私の心を激しく、深く揺さぶった。
 私が微かに震えるたび、その都度動きの速度を緩めてくれた。強引な男だと思っていたのに、その触れ方は驚くほど優しく、慎重だった。私の身体から強張りが消え、痛みよりも安心が勝つまでじっと待ち、私が自分からその背中へ腕を回すと、ようやく愛おしそうに深く抱き締めてくれた。

「今は、俺だけを見ろ」

 少しだけ命令口調なのに、その声にはかすかな不安が混じっている。
 九条を呼び、まっすぐに彼の目を見つめた。
 そこにあったのは、必死に自分を抱き締め、朝まで絶対に離さないと誓った男の、剥き出しの顔だった。

 すべてが終わったあと、心地よい疲労感の中で裸の背中を抱かれたまま、静かに目を閉じた。

「泣き疲れたか?」
「一体誰のせいよ……」
「半分は俺のせいか」
「……半分以上よ」
「なら、俺がちゃんと責任を取る」

 その言葉に、薄く目を開いた。