白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 九条の手を少しだけ乱暴に押し退け、次のページをめくった。
 終盤には、拓也と美月が揃って都内の不動産会社へ入っていく姿があった。海外逃亡の一か月前、あいつは私との新居とは別に、短期の高級賃貸物件を契約していた。
 つまり、私との結婚生活を始める気なんて、最初から一ミリもなかったのだ。
 最後のページにあった写真は、空港の出国ロビーだった。美月が拓也の広い肩へ甘えるように頭を預け、二人とも満面の笑みを浮かべていた。

 パタン、と静かに報告書を閉じた。

「……ありがとうございました」

 お礼を告げる自分の声が、まるでどこか遠くから響いているかのように冷たく聞こえる。
 担当者さんが静かに部屋を出て行ったあとも、椅子に縫い付けられたように、その場から一歩も動くことができなかった。

「今日はもう、下の会社へ手伝いに行かなくていい」
「私はあなたの会社の社員じゃないもの。もともと出勤日なんて存在しないわよ」
「ふん……そんな屁理屈をいつも通り言えるなら、まだ大丈夫そうだな」
「ええ、大丈夫よ」

 強がって即答したけれど、いざ立ち上がろうとした私の足には、情けないほどに全く力が入らなかった。
 ガクリと崩れそうになった私の腕を、九条が素早く掴み取る。

「大丈夫な人間は、椅子から立ち上がることすらできなくなりはしない」
「放して」
「お前の部屋へ行くか。運んでやる」
「一人にしてちょうだい」

 私の拒絶に、数秒間だけ沈黙した。切れ長の瞳に、言葉にできない複雑な感情が揺らめいている。

「……わかった。ただし、何かあったらすぐに俺を呼べ」
「何もないわよ」

 縋るような彼の視線から逃げるようにして自室へ戻り、固く扉を閉めた。
 ベッドの端へぽつんと腰掛ける。壁際に立てかけられたままの、拓也が残していったベッドフレーム。自分で選んで買った、真新しいお気に入りのシーツ。二人で新生活を始めるはずだった、この広いマンションの部屋。

 この八か月間、何一つ気づくことができなかった。
 あいつの優しい言葉をすべて信じ込み、幸せな結婚式を夢見て準備し、職場の仲間たちに寿退職の挨拶をして、自分のアパートを解約してしまった。
 なんて、自分の見る目がなかったのだろう。
 今まで怒りだけで無理に支えていた胸の内側が、悲しみによって音もなくガラガラと崩れ落ちていく。

 それでも、悔しくて涙は一滴しか溢れなかった。頬を伝ったその一筋の雫を乱暴に拭い、布団の中へ深く潜り込んだ。

 夕方になっても、失われた食欲が戻ることはなかった。
 夜の十時を過ぎた頃、酷く喉が渇いてリビングへ出ると、薄暗い部屋のテーブルの上に、一本の赤ワインと二つの美しいクリスタルグラスが静かに置かれていた。
 ソファに腰掛け、手元の資料へ目を通している。

「病み上がりのくせに、もうお酒を飲むつもり?」
「一杯だけだ。お前が少しは飲むかと思って用意した」
「……私を慰めるつもり?」
「飲みたくないと言うなら、今すぐ片づけるが」

 少しだけ躊躇ってから、彼の向かい側の席へと腰掛けた。

「飲むわ」

 静かな手つきでワインを注いでくれる。深い赤い液体が、ガラスの内側を滑らかに滑り落ちた。

 一杯目は、酷く味気なくて何もわからなかった。
 けれど、二杯目を飲み干す頃には、冷え切っていた喉の奥が少しだけ熱くなっていく。
 三杯目を注ごうとボトルを傾けた九条の手を、自分の手でそっと止めた。

「自分で入れるわ」
「あまりペースを上げるな。飲みすぎるなよ」
「いいじゃない。今日は酔うために飲んでいるのよ」
「明日、酷い頭痛に襲われて後悔することになるぞ」
「……今日私が感じているこの後悔よりは、明日の頭痛の方が何倍も軽いわ」

 グラスの中身を半分ほど一気に空けたところで、視界が急激に滲み始めた。

「私、本当に馬鹿みたい……」
「何がだ」
「八か月よ?八か月もの長い間、ずっと裏切られて浮気されていたのに、何も知らずに間抜け面して結婚式を心待ちにしていたのよ」
「騙した奴が全面的に悪い。お前が自分を責める必要はない」
「そんなこと、頭ではわかってるわよ!でも、あいつの周囲で、私だけが何も知らされずにピエロみたいに踊らされていたのよ……!」

 堪えきれなくなった声が、無残に崩れた。

「ドレスの試着だって、お料理の試食だって、寂しかったけれど全部一人でやったわ……。あいつが忙しいなら仕方ないって、自分に言い聞かせて我慢していたの。結婚したらきっと二人の時間ができるって、私が健気に支えればいいんだって信じて疑わなかった……!」

 大粒の涙が次から次へと溢れ落ち、グラスを握りしめる私の震える手へと当たって弾ける。

「仕事だって、本当は大好きだった……。辞めたくない気持ちだってずっとあったの。でも、拓也が『俺を支えるために家庭に入ってほしい』って必要としてくれたから……それがあいつなりの愛の形なんだって、そう思ったのに……!」

 私の泣き声に耐えかねたように、静かに隣の席へ移動してきた。
 私の震える肩へ触れようとして、彼の大きな手が空中で一度だけ躊躇うように止まる。

「……泣いていい」
「今更泣いたって、失った二年間も仕事も、何一つ戻ってこないわよ」
「戻すために泣くんじゃない。お前がこの数日、ずっと胸の奥に溜め込んでいたものを、すべて吐き出すために泣くんだ」
「あなたに何がわかるのよ。知ったようなことを言わないで」
「この数日、裏切られて家を失っても、一度だって俺の前で泣かなかったお前を見ていればわかる」

 胸を突く彼の優しさが切なくて、九条の広い胸を小さな拳で何度も叩いた。

「なんで……なんであなたがそんなに優しくするのよ」
「俺が優しくしたら、悪いか」
「困るわよ……!今、こんな風に優しくされたら……私、寂しさのあまり誰でもよくなっちゃいそうになるじゃない……!」

 叫ぶように告げた私の言葉に、九条の手が、涙で濡れた私の頬へとそっと触れた。
 愛おしむような、酷く優しい手のひらの熱。

「誰でもよくない。……俺が、お前のそばにいたいんだ」

 ハッとして顔を上げた。
 このワインのボトルは、九条が自分で選んで購入したものではなく、実家の格式高いホテルグループから届いた箱に紛れ込んでいたものらしい。
 きっと驚くほど高価な美酒だったはずなのに、その味のことなんて全く覚えていなくて、ただ、隣で静かに私の涙が止まるのを待ってくれる、この不器用で真っ直ぐな男の温もりばかりを全身で覚えていた。
 微かに潤んだ九条の瞳の奥に映っているのは、情けないほど泣き腫らした顔をした、私だけの姿だった。