白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 触れている彼の手のひらが、酷く熱い。
 拓也と付き合っていた頃、風邪を引いた彼の部屋へ看病に行ったことを思い出していた。慣れない料理を作り、洗濯をして、尽くして帰った。拓也は口先では感謝していたけれど、逆に私が体調を崩した時は『仕事が詰まってるから』と冷たいメッセージが届くだけだった。

 そんな過去を今更思い出した自分に腹が立つ。
 九条と拓也を比べる必要なんてどこにもない。九条は一時的な同居人で、同じ裏切りを経験した共同被害者。それ以上の関係ではない。
 なのに、ただ名前を呼ばれただけで、どうしてこんなに胸が落ち着かないのだろう。

 翌朝、九条の熱は三十七度台まで下がっていた。
 目を覚ました彼は、自分の手が私の手をしっかりと握っていることに気づき、きまずそうに無言で離した。

「おはよう」
「……いつからそこにいた」
「夜中から。水を持ってきたら捕まったのよ」
「悪い」
「私のこと、莉乃って呼んだわね」
「熱のせいだ」
「便利ね、熱って」
「何が言いたい」
「別に。朝ご飯、食べられる?」
「食べる」

 私がキッチンへ向かおうと立ち上がると、一瞬だけ名残惜しそうに手が伸び、ハッとしたように止まった。
 一瞬のことで、見間違いかと思う。

「どうしたの」
「何でもない」
「今度は寝言じゃなく、はっきり起きてるでしょう」
「粥が冷める」
「誤魔化したわね」
「うるさい」

 昼過ぎ、九条が大人しく眠っている間に、下の階のオフィスへ降りて社員たちの仕事を手伝った。
 看病をしている間も、九条の携帯電話は何度も鳴り響いていた。事前に本人の許可を取り、緊急度だけ確認して宮田さんへ回す。意識が朦朧としていても仕事へ手を伸ばそうとしたけれど、そのたびに私が端末を遠ざけた。

「会社は、社長が一日寝たくらいで潰れないわ」
「俺がいないと進まない案件が」
「みんなを信用して」

 そう言うと、不満そうに、けれど大人しく目を閉じた。翌朝、宮田さんから「社長が私たちに仕事を任せてくれたのは初めてです。神崎さんのおかげです」と深く礼を言われ、少しだけ誇らしい気持ちになった。

 夕方、調査会社から九条宛てに緊急の連絡が入る。さすがに代理で受けるわけにはいかず、寝室へ端末を持っていった。

「九条、起きられる?」
「ああ」

 ベッドの上の九条の許可を得て、通話をスピーカーにする。

『遠藤拓也氏と相沢美月氏ですが、来週中の便で帰国する予約が確認できました』

 信じられない報告に、私と九条は思わず顔を見合わせた。

『ただ、別の不穏な情報もあります。相沢氏は昨日、単独で別のホテルを移っています。二人の間で何らかのトラブルが起きた可能性があります』
「帰国後の動きは追えますか」
『空港から継続してマークします。それと、お二人の過去の交際記録について詳細な報告書がまとまりました。生々しい画像が多いため、明日、直接お届けします』

 無機質な通話が切れる。
 静まり返った寝室で、私の喉がカラカラに乾いた。
 あいつらの裏切りの写真を見る覚悟は、まだ、できていない。

「無理に見る必要はない」

 布団の中から、気遣うような視線が向けられた。

「見るわ。私の過ごした二年間が、一体どこから全部嘘だったのか、ちゃんと知りたい」
「知ったところで、お前の傷が増えるだけだ」
「知らないまま、最悪な想像を膨らませている方が嫌よ」
「なら、一人で見るな」

 その低い声は、熱のせいで掠れているわけではなかった。
 まっすぐな瞳が私を射抜く。

「俺も一緒に見る」

 再び眠りに就いたあと、寝室のカーテンを少しだけ開けた。朝の光が入れば、目覚めた時に彼が時間を把握しやすいから。水差しを新しいものに替え、次に薬を飲む時間をメモに書き残す。
 やっていることはただの事務的な看病なのに、夜中に名前を呼ばれたあの甘い余韻だけが、私の指先にいつまでも、熱く残っていた。

 調査会社の担当者さんが持参した報告書は、ずっしりと重みのある厚い封筒に入っていた。
 彼はまだ本調子ではないはずなのに、寝室で休んでいなさいという私の言葉を無視して、シックな黒いニットに着替え、すでにリビングのテーブルへ腰を下ろしている。

「病人は大人しくベッドで寝ていればいいのに」
「俺もお前と一緒に見ると言ったはずだ」
「本当に律儀ね」
「放っておいたら、お前が無茶をして一人で傷つくだけだからな」

 担当者さんは、私と拓也、そして九条の複雑な関係を知らないのだろう。私へ一度だけ、探るような視線を向けたあと、感情を交えずに淡々と説明を始めた。

「遠藤氏と相沢氏が親密な関係になった時期ですが、データを見る限り、少なくとも八か月前まで遡ります」

 八か月前――。
 その言葉を聞いた瞬間、心臓がドクリと嫌な音を立てた。
 それは、私と拓也が、嬉々として結婚式場を決めたあの頃だった。
 報告書の最初のページに添付された写真には、都内の高級レストランから睦まじげに出てくる二人の姿が写っている。拓也の手は、美月の細い腰へと自然に回されていた。

 次のページをめくると、ホテルのラグジュアリーなエントランス。
 その次は、きらびやかなジュエリー店。
 記載された日付を目にするたび、私の脳裏に当時の記憶が鮮明に重なっていく。

『今日は九条と、どうしても外せない大事な打ち合わせがあるんだ』
『上場準備で本当に忙しくてさ、式の細かいことは莉乃に全部任せるよ』
『新婚旅行の下調べなんて、会社が落ち着いてからでいいだろ』

 あいつがそんな言い訳を並べていたあの日、私が式場でたった一人、寂しさを堪えながら引き出物を選んでいた日。拓也は美月と甘いホテルの一室にいた。
 ウエディングケーキの試食を急にキャンセルされた日も、二人は海辺のロマンチックなレストランで愉しげに食事をしていたのだ。
 悔しさと悲しさで指先が震えたけれど、ページをめくる手を決して止めなかった。

「もういい、見るな」

 見かねた九条の大きな手が、報告書の上にそっと置かれ、私の視界を遮る。

「最後まで見るわ」
「お前、顔色が最悪だぞ」
「見ない方が、もっと最悪な想像をして苦しくなるもの」
「そんな不確かな想像で、これ以上傷つく必要などどこにもない」
「これは私の人生のことよ。私の二年間なの」