「……相当寝ぼけてるわね」
「そうかもな」
「だったら手を離して。私も寝るから」
「ここにいろ」
「私にこの冷たい床で寝ろって言うの?」
「隣のソファが空いてるだろ」
文句をブツブツと言いながらも、彼の頑固さに根負けし、向かいの大きなソファへと腰を落ち着けた。
私が近くに留まったのを見て安心したのか、再び深い眠りへ落ちるように目を閉じた。掴んでいた手首は離してくれたけれど、その代わりに、自分の肩に掛かっていた毛布の端を、私の方へと無造作に押しやってきた。
「半分使え」
「あなたが掛けてなさいって。風邪を引くわよ」
「寒いだろ」
室内は暖房が十分に効いているはずなのに、その差し出された毛布の端を、拒むことなく静かに自分の膝へと掛けた。
二人の間には、木製のコーヒーテーブル一つ分の距離がある。
それなのに、同じ一枚の毛布の温もりを共有しているという事実だけで、どうしようもなく落ち着かない、奇妙な熱が胸の奥で燻り続けていた。
夜明け前の窓の外は、静かで青白い光に満ちていて、街の音もまだほとんど聞こえてこない。ソファの背もたれにそっと頭を預け、静まり返った部屋の中で、九条の規則正しい穏やかな寝息にじっと耳を澄ませていた。
誰かの気配をこれほど身近に感じながら眠ることが、これほどの安心感と、そして同時に胸を締め付けるような切ない緊張感を連れてくるものだとは、今までの人生の中で一度も知らなかった。
眠りにつく直前まで、自分が作成した社員向けの想定問答のシートを、スマートフォンの画面でもう一度細かく見直していた。誰かが理不尽に責められるような表現になっていないか、曖昧な一節がないか。
この会社を、そしてここを守るということは、単に九条という一人の男を守るということではない。ここで夜遅くまでひたむきに働く、宮田さんや佐伯くんたち全員の、大切な生活を守るということなのだと、この短い時間の中で、深く学び始めていた。
翌朝、カーテンの隙間から眩しい光が差し込む頃、九条は何事もなかったかのような、いつも通りのすました顔で目を覚ました。
「どうしてお前がそこで寝てるんだ」
「あなたが行くなって言ったからでしょう?」
「俺が?」
「ええ。『俺が困るから、ここにしろ』って、随分はっきりおっしゃいました」
九条の動きが、その瞬間、完全にピタリと停止した。
「……ただの寝言だ。忘れろ」
「嫌よ。弱みとして私の心のハードディスクに厳重に保管しておくわ。あーあ、あの瞬間の音声をちゃんと録音しておけばよかった」
信じられないほどきまり悪そうに、片手で顔を覆ってしまった。
いつも完璧で他人に隙を見せない彼の、そんな人間らしい姿がおかしくて、久しぶりに、心の底から声を立てて笑ってしまった。
同じ日の午後、会社が発表した誠実な公式声明を受け、主要投資家の一社から連絡が入る。
『今回の件に関して、説明責任を果たす姿勢は評価する。現段階で、資金を引き揚げる予定はない。引き続き応援している』
オフィスフロアにその一報が流れた瞬間、張り詰めていた社員たちの間から、割れんばかりの大きな拍手と安堵の声が沸き起こった。
しかし、安堵するより先に、次の対応へ移るためデスクの上の電話へ手を伸ばす。
だが、その指先が携帯電話をうまく掴み損ね、床へ落とした。
「九条?」
「大丈夫だ」
床に落ちた端末を拾い上げ、立ち上がった彼の身体が、まるで平衡感覚を失ったかのように、わずかにグラリと不自然に傾いた。
驚いて駆け寄り、彼の額へそっと手のひらを当てると、そこから伝わってきたのは、胸が痛くなるほどに、驚くほど熱い熱の塊だった。
「三十八度七分」
体温計の液晶画面に表示された数字を見て、ため息混じりに告げる。
「大したことない」
「あなたの平熱、四十度なの?」
「寝れば治る」
「だから寝なさいって言ってるの」
頑なにベッドから起き上がろうとしたけれど、その肩を容赦なく押し戻す。
「会議がある」
「佐伯さんが代わりに仕切ってくれるわ。投資家への連絡も宮田さんが調整するって。さっき全部引き継いできたから」
「勝手にそんなことを」
「倒れた社長に許可を取ってる時間はありません」
不機嫌そうに私を睨んだけれど、熱のせいでいつもの鋭い迫力はどこにもない。
彼の額に手早く冷却シートを貼り、水と薬を枕元に置いた。キッチンでは、大鍋の横の小さな手鍋で卵粥を煮ている。生姜のツンとした優しい匂いが、白い湯気に混じって寝室に漂った。
「お前、看病まで居候代に含める気か」
「当然よ。特別料金をきっちり請求するわ」
「いくらだ」
「元気になってから考える」
食欲はないと言い張る九条の口元へ匙を運び、半量だけ粥を食べさせた。普段は傲慢なくらい偉そうな男が、布団の中で不満そうに匙を動かす姿は少しおかしい。
「笑うな」
「笑ってないわよ」
「口元が笑ってる」
「鉄人の社長にも、こんな分かりやすい弱点があるんだなと思って」
「熱を出すのは弱点じゃない」
「生活能力がないのは?」
「今、その話をする必要があるか」
「風邪薬の場所を自分で知らなかったでしょう?」
「必要ならその都度買う」
「同じ薬が洗面台の棚に三箱もあったわ。毎回買ってるのね」
気まずそうに目を逸らした。
夕方には熱が三十九度を超えた。念のためオンライン診療を手配し、処方された薬を受け取りに走る。結果は感染症ではなく、過労からくる風邪だろうという診断だった。
「医者にも休めと言われたでしょう」
「明日の午後には前線に戻る」
「最低二日は大人しく寝るの」
「社長には有給を申請する相手がいない」
「今から特例の承認者になるわ。却下」
「横暴だな」
「あんたにだけは言われたくない」
小さく息を吐き、諦めたように目を閉じた。
夜、心配になって私が様子を見に行くと、布団から伸びた彼の大きな手が、宙を探るように力なく動いた。
「水?」
枕元のコップを渡そうとした瞬間、私の指をがしっと掴まれた。
「……莉乃」
初めて、彼に名前を呼ばれた。
酔ってもいない。周囲に社員もいない。ただ熱に浮かされているだけかもしれない。
「何」
「いるか」
「いるわよ」
「ならいい」
私の指を強く掴んだまま、そのまま深い眠りへ落ちていった。
ベッド脇の椅子に腰掛けた。離そうと思えば簡単に引き抜ける程度の力。それでも、なぜだかそのままにしておく。
「そうかもな」
「だったら手を離して。私も寝るから」
「ここにいろ」
「私にこの冷たい床で寝ろって言うの?」
「隣のソファが空いてるだろ」
文句をブツブツと言いながらも、彼の頑固さに根負けし、向かいの大きなソファへと腰を落ち着けた。
私が近くに留まったのを見て安心したのか、再び深い眠りへ落ちるように目を閉じた。掴んでいた手首は離してくれたけれど、その代わりに、自分の肩に掛かっていた毛布の端を、私の方へと無造作に押しやってきた。
「半分使え」
「あなたが掛けてなさいって。風邪を引くわよ」
「寒いだろ」
室内は暖房が十分に効いているはずなのに、その差し出された毛布の端を、拒むことなく静かに自分の膝へと掛けた。
二人の間には、木製のコーヒーテーブル一つ分の距離がある。
それなのに、同じ一枚の毛布の温もりを共有しているという事実だけで、どうしようもなく落ち着かない、奇妙な熱が胸の奥で燻り続けていた。
夜明け前の窓の外は、静かで青白い光に満ちていて、街の音もまだほとんど聞こえてこない。ソファの背もたれにそっと頭を預け、静まり返った部屋の中で、九条の規則正しい穏やかな寝息にじっと耳を澄ませていた。
誰かの気配をこれほど身近に感じながら眠ることが、これほどの安心感と、そして同時に胸を締め付けるような切ない緊張感を連れてくるものだとは、今までの人生の中で一度も知らなかった。
眠りにつく直前まで、自分が作成した社員向けの想定問答のシートを、スマートフォンの画面でもう一度細かく見直していた。誰かが理不尽に責められるような表現になっていないか、曖昧な一節がないか。
この会社を、そしてここを守るということは、単に九条という一人の男を守るということではない。ここで夜遅くまでひたむきに働く、宮田さんや佐伯くんたち全員の、大切な生活を守るということなのだと、この短い時間の中で、深く学び始めていた。
翌朝、カーテンの隙間から眩しい光が差し込む頃、九条は何事もなかったかのような、いつも通りのすました顔で目を覚ました。
「どうしてお前がそこで寝てるんだ」
「あなたが行くなって言ったからでしょう?」
「俺が?」
「ええ。『俺が困るから、ここにしろ』って、随分はっきりおっしゃいました」
九条の動きが、その瞬間、完全にピタリと停止した。
「……ただの寝言だ。忘れろ」
「嫌よ。弱みとして私の心のハードディスクに厳重に保管しておくわ。あーあ、あの瞬間の音声をちゃんと録音しておけばよかった」
信じられないほどきまり悪そうに、片手で顔を覆ってしまった。
いつも完璧で他人に隙を見せない彼の、そんな人間らしい姿がおかしくて、久しぶりに、心の底から声を立てて笑ってしまった。
同じ日の午後、会社が発表した誠実な公式声明を受け、主要投資家の一社から連絡が入る。
『今回の件に関して、説明責任を果たす姿勢は評価する。現段階で、資金を引き揚げる予定はない。引き続き応援している』
オフィスフロアにその一報が流れた瞬間、張り詰めていた社員たちの間から、割れんばかりの大きな拍手と安堵の声が沸き起こった。
しかし、安堵するより先に、次の対応へ移るためデスクの上の電話へ手を伸ばす。
だが、その指先が携帯電話をうまく掴み損ね、床へ落とした。
「九条?」
「大丈夫だ」
床に落ちた端末を拾い上げ、立ち上がった彼の身体が、まるで平衡感覚を失ったかのように、わずかにグラリと不自然に傾いた。
驚いて駆け寄り、彼の額へそっと手のひらを当てると、そこから伝わってきたのは、胸が痛くなるほどに、驚くほど熱い熱の塊だった。
「三十八度七分」
体温計の液晶画面に表示された数字を見て、ため息混じりに告げる。
「大したことない」
「あなたの平熱、四十度なの?」
「寝れば治る」
「だから寝なさいって言ってるの」
頑なにベッドから起き上がろうとしたけれど、その肩を容赦なく押し戻す。
「会議がある」
「佐伯さんが代わりに仕切ってくれるわ。投資家への連絡も宮田さんが調整するって。さっき全部引き継いできたから」
「勝手にそんなことを」
「倒れた社長に許可を取ってる時間はありません」
不機嫌そうに私を睨んだけれど、熱のせいでいつもの鋭い迫力はどこにもない。
彼の額に手早く冷却シートを貼り、水と薬を枕元に置いた。キッチンでは、大鍋の横の小さな手鍋で卵粥を煮ている。生姜のツンとした優しい匂いが、白い湯気に混じって寝室に漂った。
「お前、看病まで居候代に含める気か」
「当然よ。特別料金をきっちり請求するわ」
「いくらだ」
「元気になってから考える」
食欲はないと言い張る九条の口元へ匙を運び、半量だけ粥を食べさせた。普段は傲慢なくらい偉そうな男が、布団の中で不満そうに匙を動かす姿は少しおかしい。
「笑うな」
「笑ってないわよ」
「口元が笑ってる」
「鉄人の社長にも、こんな分かりやすい弱点があるんだなと思って」
「熱を出すのは弱点じゃない」
「生活能力がないのは?」
「今、その話をする必要があるか」
「風邪薬の場所を自分で知らなかったでしょう?」
「必要ならその都度買う」
「同じ薬が洗面台の棚に三箱もあったわ。毎回買ってるのね」
気まずそうに目を逸らした。
夕方には熱が三十九度を超えた。念のためオンライン診療を手配し、処方された薬を受け取りに走る。結果は感染症ではなく、過労からくる風邪だろうという診断だった。
「医者にも休めと言われたでしょう」
「明日の午後には前線に戻る」
「最低二日は大人しく寝るの」
「社長には有給を申請する相手がいない」
「今から特例の承認者になるわ。却下」
「横暴だな」
「あんたにだけは言われたくない」
小さく息を吐き、諦めたように目を閉じた。
夜、心配になって私が様子を見に行くと、布団から伸びた彼の大きな手が、宙を探るように力なく動いた。
「水?」
枕元のコップを渡そうとした瞬間、私の指をがしっと掴まれた。
「……莉乃」
初めて、彼に名前を呼ばれた。
酔ってもいない。周囲に社員もいない。ただ熱に浮かされているだけかもしれない。
「何」
「いるか」
「いるわよ」
「ならいい」
私の指を強く掴んだまま、そのまま深い眠りへ落ちていった。
ベッド脇の椅子に腰掛けた。離そうと思えば簡単に引き抜ける程度の力。それでも、なぜだかそのままにしておく。



