「遠藤の口約束をすべて実行するとは約束できません。ただし、御社が導入を決めた前提を崩さない範囲で、こちらも負担します」
一時間後、契約停止は撤回された。
社員たちから安堵の息が漏れる。宮田さんが私の手を握った。
「神崎さん、本当にありがとうございます」
「私だけじゃない。みんなでやったから」
「でも、最初に気づいたのは神崎さんです」
九条も近づいてきた。
「助かった」
「夕飯、忘れないでよ」
「そこか」
「働いた分は請求します」
その時、営業担当の携帯電話が鳴った。
青ざめた顔で差し出された画面には、経済系ニュースサイトの記事が表示されている。
『上場準備中のレガリアリンク、共同代表が資金持ち出しか』
社内の誰も、まだ公表していない内容だった。
画面を見つめる九条の横顔から、契約を守れた安堵が消えていく。今度の相手は、目の前にいない拓也だけではない。記事を信じる世間そのものだった。
記事がネット上に出てからというもの、オフィスの電話は鳴り止まなくなってしまった。
取引先、投資家、そして執拗な報道機関。ひっきりなしに響く無機質な呼び出し音は、会社の代表番号だけでなく、社員たちの個人の携帯電話にまで及んでいる。
「誰が漏らしたんだ」
低く苦い吐息を漏らした九条に、営業担当の社員が青ざめた顔でタブレットを差し出した。
「記事には、遠藤さん側の関係者によると、と書かれています」
その内容は、あまりにも巧妙で悪質だった。
拓也が会社の資金を持ち出した事実には最低限だけ触れながらも、そこには経営方針をめぐる対立、九条代表による権限の集中、共同創業者の排除という言葉がもっともらしく並べられている。まるで九条が拓也を強引に追い出し、すべての不正の責任を押しつけているかのような、悪意に満ちた書き方だった。
「これ、拓也が流したのね」
「おそらくな」
「海外に高飛びして身を隠しているくせに、こういう汚い根回しだけは早いのね」
怒りで視界が歪みそうになるのを堪えながら言うと、小さく顎を引いた。すぐに広報担当へ指示を出し、弁護士へ連絡を入れていく。その間にも、デスクの上には取引先から寄せられる緊迫した質問の数々が、紙に書き留められていった。
「九条、電話で同じ説明を何度も繰り返して時間を無駄にするより、一刻も早く想定問答を作った方がいいわ」
「今、広報に急ぎで作らせている」
「それから、社外向けだけじゃなくて社員向けのマニュアルも絶対に必要よ。個人で勝手に答えないこと、報道関係はすべて広報へ回すこと、個人のSNSには一切何も書かないこと。最初にその三つをルールとして統一して」
「神崎さん、その社内向けの雛形を作ってもらえますか。私、九条さんの社外向け資料を手伝いますから」
宮田さんに懇願するように言われ、深く頷いた。
「わかったわ」
誰から指示されたわけでもないのに、自然とパソコンに向かっていた。
前職の営業事務で、トラブル対応の手順書を作った嫌な経験が、皮肉にも今ここで役に立っている。緊急の連絡先、回答してよい範囲、記録の残し方。頭の中で整理しながら文章を短くまとめ、社員用のチャットツールへ素早く共有した。
夜になっても、オフィスの照明が消えることはなかった。
張り詰めた空気を少しでも和らげたくて、キッチンの大鍋でカレーを作った。食べる時間がばらばらになっても、これならその都度温め直せる。
オフィスにスパイスの豊かな匂いが漂うと、極限まで緊張していた社員たちの表情が、嘘のように少しだけ緩んだ。
「神崎さん、もういっそのこと、うちの会社に入ってくださいよ」
佐伯くんが、カレーの乗った皿を愛おしそうに持ちながら言った。
「今はしがない無職だけど、住み込みの食堂のおばさんになるつもりはないわよ」
「おばさんだなんてとんでもない。お姉さんです。まだ二十六歳なんですから」
「ふふ、学習が早くて大変よろしいわ」
そんなやり取りをしていると、ようやく電話を終えた九条が上のリビングから降りてきて、冷めかけたカレーを無造作に食べ始めた。
「ちゃんとよく噛んで食べて」
「時間がないんだ」
「喉に詰まらせて倒れたら、それこそもっと時間を失うわよ」
「お前は俺の母親か」
「あいにく、居候先の家主が倒れたら私が路頭に迷うから困るだけ」
それ以上言い返さず、けれど私の言葉に従うように、少しだけ食べる速度を落とした。
深夜一時を過ぎる頃、ようやく明朝の報道対応の方針が固まった。翌朝、会社名義で事実関係をありのまま公表し、同時に遠藤拓也に対する刑事告訴の準備を進めていることを明らかにする。
そこまで見届けると、限界を迎えていた社員たちは一人、また一人と静かに帰宅していった。
私が残された食器をすべて洗い終えてリビングへ戻ると、ダイニングテーブルに突っ伏して、深い眠りに落ちていた。
パソコンの画面には、投資家向けの説明文が開いたままだ。シャツの襟元が少しだけ緩み、起きている時はいつも険しく刻まれている眉間から、完全に力が抜けている。
こうして無防備に寝ていれば、少しだけ年相応の青年に見えるのに。
そっと自分の部屋から毛布を持ってきて、彼の広い肩へと掛けた。
そのまま静かに離れようとした瞬間、私の手首が、強い力でがしっと掴まれた。
「行くな」
「……九条?起きてるの?」
驚いて声をかけたけれど、固く目を閉じたままだ。
「……拓也」
その口から零れ落ちた名前に、私の胸の奥が、冷たい氷水を流し込まれたかのように一気に凍りついた。
寝ぼけて、かつての親友の夢を見ているだけだとわかっていても、今の私にとって、その名前だけは酷く聞きたくないものだった。
「九条。離して。私は拓也じゃないわ」
拒絶を込めて告げると、手首を掴んでいた彼の指の力が、ふっと微かに緩んだ。代わりに、長い睫毛が震え、薄く切れ長の目が開かれる。
「……神崎、か」
「そうよ」
「なら、もっと行くな」
今度は寝ぼけた様子ではない。開かれた瞳で私の顔をはっきりと見つめながら、低い声が返ってきた。
「何よ、それ」
「今、お前がいなくなったら困る」
「会社が、書類の整理に困るってこと?」
「違う。……俺が困るんだ」
連日の極限の疲労のせいで、彼の冷徹な理性が一時的に弱り切っているのだろう。普段のプライドの高い彼なら、絶対に言わないような、剥き出しの言葉だった。
私の心臓が、一度だけ、トクンと大きな音を立てて跳ね上がる。
一時間後、契約停止は撤回された。
社員たちから安堵の息が漏れる。宮田さんが私の手を握った。
「神崎さん、本当にありがとうございます」
「私だけじゃない。みんなでやったから」
「でも、最初に気づいたのは神崎さんです」
九条も近づいてきた。
「助かった」
「夕飯、忘れないでよ」
「そこか」
「働いた分は請求します」
その時、営業担当の携帯電話が鳴った。
青ざめた顔で差し出された画面には、経済系ニュースサイトの記事が表示されている。
『上場準備中のレガリアリンク、共同代表が資金持ち出しか』
社内の誰も、まだ公表していない内容だった。
画面を見つめる九条の横顔から、契約を守れた安堵が消えていく。今度の相手は、目の前にいない拓也だけではない。記事を信じる世間そのものだった。
記事がネット上に出てからというもの、オフィスの電話は鳴り止まなくなってしまった。
取引先、投資家、そして執拗な報道機関。ひっきりなしに響く無機質な呼び出し音は、会社の代表番号だけでなく、社員たちの個人の携帯電話にまで及んでいる。
「誰が漏らしたんだ」
低く苦い吐息を漏らした九条に、営業担当の社員が青ざめた顔でタブレットを差し出した。
「記事には、遠藤さん側の関係者によると、と書かれています」
その内容は、あまりにも巧妙で悪質だった。
拓也が会社の資金を持ち出した事実には最低限だけ触れながらも、そこには経営方針をめぐる対立、九条代表による権限の集中、共同創業者の排除という言葉がもっともらしく並べられている。まるで九条が拓也を強引に追い出し、すべての不正の責任を押しつけているかのような、悪意に満ちた書き方だった。
「これ、拓也が流したのね」
「おそらくな」
「海外に高飛びして身を隠しているくせに、こういう汚い根回しだけは早いのね」
怒りで視界が歪みそうになるのを堪えながら言うと、小さく顎を引いた。すぐに広報担当へ指示を出し、弁護士へ連絡を入れていく。その間にも、デスクの上には取引先から寄せられる緊迫した質問の数々が、紙に書き留められていった。
「九条、電話で同じ説明を何度も繰り返して時間を無駄にするより、一刻も早く想定問答を作った方がいいわ」
「今、広報に急ぎで作らせている」
「それから、社外向けだけじゃなくて社員向けのマニュアルも絶対に必要よ。個人で勝手に答えないこと、報道関係はすべて広報へ回すこと、個人のSNSには一切何も書かないこと。最初にその三つをルールとして統一して」
「神崎さん、その社内向けの雛形を作ってもらえますか。私、九条さんの社外向け資料を手伝いますから」
宮田さんに懇願するように言われ、深く頷いた。
「わかったわ」
誰から指示されたわけでもないのに、自然とパソコンに向かっていた。
前職の営業事務で、トラブル対応の手順書を作った嫌な経験が、皮肉にも今ここで役に立っている。緊急の連絡先、回答してよい範囲、記録の残し方。頭の中で整理しながら文章を短くまとめ、社員用のチャットツールへ素早く共有した。
夜になっても、オフィスの照明が消えることはなかった。
張り詰めた空気を少しでも和らげたくて、キッチンの大鍋でカレーを作った。食べる時間がばらばらになっても、これならその都度温め直せる。
オフィスにスパイスの豊かな匂いが漂うと、極限まで緊張していた社員たちの表情が、嘘のように少しだけ緩んだ。
「神崎さん、もういっそのこと、うちの会社に入ってくださいよ」
佐伯くんが、カレーの乗った皿を愛おしそうに持ちながら言った。
「今はしがない無職だけど、住み込みの食堂のおばさんになるつもりはないわよ」
「おばさんだなんてとんでもない。お姉さんです。まだ二十六歳なんですから」
「ふふ、学習が早くて大変よろしいわ」
そんなやり取りをしていると、ようやく電話を終えた九条が上のリビングから降りてきて、冷めかけたカレーを無造作に食べ始めた。
「ちゃんとよく噛んで食べて」
「時間がないんだ」
「喉に詰まらせて倒れたら、それこそもっと時間を失うわよ」
「お前は俺の母親か」
「あいにく、居候先の家主が倒れたら私が路頭に迷うから困るだけ」
それ以上言い返さず、けれど私の言葉に従うように、少しだけ食べる速度を落とした。
深夜一時を過ぎる頃、ようやく明朝の報道対応の方針が固まった。翌朝、会社名義で事実関係をありのまま公表し、同時に遠藤拓也に対する刑事告訴の準備を進めていることを明らかにする。
そこまで見届けると、限界を迎えていた社員たちは一人、また一人と静かに帰宅していった。
私が残された食器をすべて洗い終えてリビングへ戻ると、ダイニングテーブルに突っ伏して、深い眠りに落ちていた。
パソコンの画面には、投資家向けの説明文が開いたままだ。シャツの襟元が少しだけ緩み、起きている時はいつも険しく刻まれている眉間から、完全に力が抜けている。
こうして無防備に寝ていれば、少しだけ年相応の青年に見えるのに。
そっと自分の部屋から毛布を持ってきて、彼の広い肩へと掛けた。
そのまま静かに離れようとした瞬間、私の手首が、強い力でがしっと掴まれた。
「行くな」
「……九条?起きてるの?」
驚いて声をかけたけれど、固く目を閉じたままだ。
「……拓也」
その口から零れ落ちた名前に、私の胸の奥が、冷たい氷水を流し込まれたかのように一気に凍りついた。
寝ぼけて、かつての親友の夢を見ているだけだとわかっていても、今の私にとって、その名前だけは酷く聞きたくないものだった。
「九条。離して。私は拓也じゃないわ」
拒絶を込めて告げると、手首を掴んでいた彼の指の力が、ふっと微かに緩んだ。代わりに、長い睫毛が震え、薄く切れ長の目が開かれる。
「……神崎、か」
「そうよ」
「なら、もっと行くな」
今度は寝ぼけた様子ではない。開かれた瞳で私の顔をはっきりと見つめながら、低い声が返ってきた。
「何よ、それ」
「今、お前がいなくなったら困る」
「会社が、書類の整理に困るってこと?」
「違う。……俺が困るんだ」
連日の極限の疲労のせいで、彼の冷徹な理性が一時的に弱り切っているのだろう。普段のプライドの高い彼なら、絶対に言わないような、剥き出しの言葉だった。
私の心臓が、一度だけ、トクンと大きな音を立てて跳ね上がる。



