「おい、この甘いケーキも文句を言わずに食え」
「ちょっと、私を子ども扱いしないでよ」
「お前のその青白い顔色に赤みが戻るまでは、絶対に家には帰さないからな」
「帰さないって言ったって、あなたの家に居候として帰るんだけど?」
「なら、なおさら連れて帰るわけにはいかない」
相変わらず口調は乱暴で不愛想極まりないのに、その切れ長の瞳の奥は、どこまでも真剣そのものだった。
言われるがまま、目の前の小さなシトラスケーキにフォークを入れた。口の中に広がった柑橘の鮮やかな香りと心地よい酸味が、疲弊しきった身体に染み渡っていく。その瞬間、自分が朝からほとんど何も口にしていなかったことに、ようやく気がついた。
「九条。……今日、一緒に来てくれて、本当に助かったわ」
「知っている」
「もう、そこは普通『どういたしまして』でしょうが」
「……お前が急にそんな素直なことを言うから、どう返せばいいのか分からないだけだ」
耳を少しだけ赤くして視線を逸らす彼の不器用な姿に、思わず、今日初めて心からの笑い声を漏らしてしまった。
その夜、九条の部屋へ戻り、自室で少し落ち着いた頃――私のスマートフォンの液晶画面が、突然ブブッと不快な音を立てて震えた。
表示されたのは、アドレス帳に登録されていない、見知らぬ海外の国番号からのメッセージ。
恐る恐るその画面を開いた瞬間、自分の目を疑った。
『莉乃。さっき親父から聞いたよ。母さんがそっちで余計なことを言って莉乃を傷つけたらしいな、本当にすまない。でも、俺たちの関係を周りはみんな誤解しているんだ。俺はただ、結婚を前にして少しだけ一人になって考える時間が欲しかっただけなんだよ』
続けて、二枚の写真が連続して送られてくる。
海外の美しい海辺に面した、高級ホテルのテラス席。真っ白なリネンのテーブルクロスの向かい側には、贅沢なカクテルグラスを指先で弄ぶ、相沢美月の細い手元が明らかに写り込んでいた。
『色々と片付いて落ち着いたら、必ず莉乃を迎えに行く。だから俺のことを信じて、日本で待っていてくれ』
液晶画面に躍る、あまりにも破綻した、自己中心的な愛の言葉。
画面を見つめたまま、怒りと呆れで完全に声を失い、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
異変を察したのか、いつの間にか背後から音もなく覗き込み、私の震える手からスマートフォンを容赦なく奪い取った。
画面の文字を一瞥した瞬間、九条の顔が鬼のように険しく引き締まる。
「――こいつ、本気で元の関係に戻れるとでも思っているのか?」
その低い声には、海外へ逃亡した元親友への、決定的なまでの怒りと軽蔑が煮えたぎっていた。
「返して」
「返信する気か」
「する」
「弁護士を通せ。直接やり取りするな」
「一言だけ言わせて」
九条が止めるより先に、文字を打った。
『待ちません。今後の連絡は弁護士を通してください。会社のお金と、私から持ち出した荷物を返してください』
すぐに既読がつく。
『九条に何を吹き込まれた? あいつは昔から俺を見下してる。莉乃を利用して会社を独占するつもりだ。あいつの言うことを信じるな。俺の婚約者だろ』
「まだ私を婚約者だと思ってる」
「頭がおかしいんだろう」
画面を保存し、弁護士へ転送した。
「これ以降は返信するな。ブロックもしない。証拠として残す」
「命令?」
「忠告だ」
「なら聞く」
九条が少し意外そうに私を見る。
「何よ」
「今日は素直だな」
「一日で拓也のお母さんと本人を相手にしたの。喧嘩の在庫が切れた」
「補充されるまで静かにしていろ」
「あなたが余計なことを言わなければね」
翌朝、全社員を集めた説明会が開かれた。
社員は二十六人。普段リモート勤務の人も、可能な限りオフィスか画面越しに集まっている。
九条は共同代表の不正と失踪、告訴の準備、当面の支払いに問題がないことを説明した。
「隠していたと思われないため、今日中に主要取引先と投資家へも同じ内容を伝える。質問があれば、今ここで答える」
社員たちは不安そうに顔を見合わせた。佐伯さんが手を挙げる。
「上場準備は止まりますか」
「一時的には止まる。管理体制を作り直し、監査を受け直す必要がある」
「会社は続けられるんですよね」
「続ける。給与も支払いも止めない。俺の個人資金を入れてでも守る。ただし、遠藤の判断で進んでいた案件はすべて再確認する。負担をかけるが、協力してほしい」
九条が頭を下げる。
親友の裏切りを公に認め、自分の責任として社員へ謝る。その背中は、数日前より少し小さく見えた。
説明会のあと、取引先への連絡が続いた。
レガリアリンクが提供しているのは、ホテルや式場向けの予約・顧客管理システムだ。九条家のホテルグループを最初の導入先にして成長し、今では全国の施設が利用している。
拓也が担当していた営業と資金調達の穴は大きい。
「桐生ホテルから、契約を一旦停止したいと連絡がありました」
営業担当が青い顔で報告する。
「今夜までに説明資料を出す。俺が先方へ行く」
「九条さん、今日はもう三件回っています」
「行くしかない」
机に積まれた資料へ目をやった。契約書、導入予定表、拓也が作った提案書。
「待って。これ、拓也が追加費用を口頭で約束してる」
「何?」
「契約書にはないのに、議事録には『開発費は当社負担』とある。先方が不安なのは、横領だけじゃなく、この条件まで反故にされると思っているからじゃない?」
営業担当が議事録を確認した。
「担当者から、遠藤さんと話が違うと言われました」
「追加開発の見積もりは?」
「まだです」
ホワイトボードへ必要事項を書き出す。
「契約上の義務と、拓也の口約束を分ける。全部否定したら、相手は騙されたと思う。対応できる範囲と、できない範囲を先に示した方がいい」
「神崎、お前は社員じゃない」
「知ってる。でも、営業事務でこういう火消しは何度もやった。口約束した営業が消えて、事務が謝るの」
「嫌な経験が役に立ったな」
「本当にね」
数秒考え、頷いた。
「佐伯、追加開発の工数を出せ。宮田、費用の上限を計算。神崎は議事録を時系列にまとめてくれ」
「了解」
反射的に答えてから、九条を見る。
「今、普通に指示したわね」
「役に立つと言ったのはお前だろう」
「居候代にしては重いんだけど」
「今夜、夕飯は俺が買う」
「高くつくわよ」
「好きなものを選べ」
夜まで作業を続けた。
私がまとめた資料をもとに、九条は桐生ホテルの役員とオンラインで話す。
「ちょっと、私を子ども扱いしないでよ」
「お前のその青白い顔色に赤みが戻るまでは、絶対に家には帰さないからな」
「帰さないって言ったって、あなたの家に居候として帰るんだけど?」
「なら、なおさら連れて帰るわけにはいかない」
相変わらず口調は乱暴で不愛想極まりないのに、その切れ長の瞳の奥は、どこまでも真剣そのものだった。
言われるがまま、目の前の小さなシトラスケーキにフォークを入れた。口の中に広がった柑橘の鮮やかな香りと心地よい酸味が、疲弊しきった身体に染み渡っていく。その瞬間、自分が朝からほとんど何も口にしていなかったことに、ようやく気がついた。
「九条。……今日、一緒に来てくれて、本当に助かったわ」
「知っている」
「もう、そこは普通『どういたしまして』でしょうが」
「……お前が急にそんな素直なことを言うから、どう返せばいいのか分からないだけだ」
耳を少しだけ赤くして視線を逸らす彼の不器用な姿に、思わず、今日初めて心からの笑い声を漏らしてしまった。
その夜、九条の部屋へ戻り、自室で少し落ち着いた頃――私のスマートフォンの液晶画面が、突然ブブッと不快な音を立てて震えた。
表示されたのは、アドレス帳に登録されていない、見知らぬ海外の国番号からのメッセージ。
恐る恐るその画面を開いた瞬間、自分の目を疑った。
『莉乃。さっき親父から聞いたよ。母さんがそっちで余計なことを言って莉乃を傷つけたらしいな、本当にすまない。でも、俺たちの関係を周りはみんな誤解しているんだ。俺はただ、結婚を前にして少しだけ一人になって考える時間が欲しかっただけなんだよ』
続けて、二枚の写真が連続して送られてくる。
海外の美しい海辺に面した、高級ホテルのテラス席。真っ白なリネンのテーブルクロスの向かい側には、贅沢なカクテルグラスを指先で弄ぶ、相沢美月の細い手元が明らかに写り込んでいた。
『色々と片付いて落ち着いたら、必ず莉乃を迎えに行く。だから俺のことを信じて、日本で待っていてくれ』
液晶画面に躍る、あまりにも破綻した、自己中心的な愛の言葉。
画面を見つめたまま、怒りと呆れで完全に声を失い、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
異変を察したのか、いつの間にか背後から音もなく覗き込み、私の震える手からスマートフォンを容赦なく奪い取った。
画面の文字を一瞥した瞬間、九条の顔が鬼のように険しく引き締まる。
「――こいつ、本気で元の関係に戻れるとでも思っているのか?」
その低い声には、海外へ逃亡した元親友への、決定的なまでの怒りと軽蔑が煮えたぎっていた。
「返して」
「返信する気か」
「する」
「弁護士を通せ。直接やり取りするな」
「一言だけ言わせて」
九条が止めるより先に、文字を打った。
『待ちません。今後の連絡は弁護士を通してください。会社のお金と、私から持ち出した荷物を返してください』
すぐに既読がつく。
『九条に何を吹き込まれた? あいつは昔から俺を見下してる。莉乃を利用して会社を独占するつもりだ。あいつの言うことを信じるな。俺の婚約者だろ』
「まだ私を婚約者だと思ってる」
「頭がおかしいんだろう」
画面を保存し、弁護士へ転送した。
「これ以降は返信するな。ブロックもしない。証拠として残す」
「命令?」
「忠告だ」
「なら聞く」
九条が少し意外そうに私を見る。
「何よ」
「今日は素直だな」
「一日で拓也のお母さんと本人を相手にしたの。喧嘩の在庫が切れた」
「補充されるまで静かにしていろ」
「あなたが余計なことを言わなければね」
翌朝、全社員を集めた説明会が開かれた。
社員は二十六人。普段リモート勤務の人も、可能な限りオフィスか画面越しに集まっている。
九条は共同代表の不正と失踪、告訴の準備、当面の支払いに問題がないことを説明した。
「隠していたと思われないため、今日中に主要取引先と投資家へも同じ内容を伝える。質問があれば、今ここで答える」
社員たちは不安そうに顔を見合わせた。佐伯さんが手を挙げる。
「上場準備は止まりますか」
「一時的には止まる。管理体制を作り直し、監査を受け直す必要がある」
「会社は続けられるんですよね」
「続ける。給与も支払いも止めない。俺の個人資金を入れてでも守る。ただし、遠藤の判断で進んでいた案件はすべて再確認する。負担をかけるが、協力してほしい」
九条が頭を下げる。
親友の裏切りを公に認め、自分の責任として社員へ謝る。その背中は、数日前より少し小さく見えた。
説明会のあと、取引先への連絡が続いた。
レガリアリンクが提供しているのは、ホテルや式場向けの予約・顧客管理システムだ。九条家のホテルグループを最初の導入先にして成長し、今では全国の施設が利用している。
拓也が担当していた営業と資金調達の穴は大きい。
「桐生ホテルから、契約を一旦停止したいと連絡がありました」
営業担当が青い顔で報告する。
「今夜までに説明資料を出す。俺が先方へ行く」
「九条さん、今日はもう三件回っています」
「行くしかない」
机に積まれた資料へ目をやった。契約書、導入予定表、拓也が作った提案書。
「待って。これ、拓也が追加費用を口頭で約束してる」
「何?」
「契約書にはないのに、議事録には『開発費は当社負担』とある。先方が不安なのは、横領だけじゃなく、この条件まで反故にされると思っているからじゃない?」
営業担当が議事録を確認した。
「担当者から、遠藤さんと話が違うと言われました」
「追加開発の見積もりは?」
「まだです」
ホワイトボードへ必要事項を書き出す。
「契約上の義務と、拓也の口約束を分ける。全部否定したら、相手は騙されたと思う。対応できる範囲と、できない範囲を先に示した方がいい」
「神崎、お前は社員じゃない」
「知ってる。でも、営業事務でこういう火消しは何度もやった。口約束した営業が消えて、事務が謝るの」
「嫌な経験が役に立ったな」
「本当にね」
数秒考え、頷いた。
「佐伯、追加開発の工数を出せ。宮田、費用の上限を計算。神崎は議事録を時系列にまとめてくれ」
「了解」
反射的に答えてから、九条を見る。
「今、普通に指示したわね」
「役に立つと言ったのはお前だろう」
「居候代にしては重いんだけど」
「今夜、夕飯は俺が買う」
「高くつくわよ」
「好きなものを選べ」
夜まで作業を続けた。
私がまとめた資料をもとに、九条は桐生ホテルの役員とオンラインで話す。



