母親のその表情には、どんなに世間に後ろ指を指されようとも、我が子を盲目的に庇おうとする身勝手な色がこれっぽちも隠されていない。
「結婚を迷っていたから、あいつは結婚式当日に、浮気相手の女と二人で海外へ高飛びしたんですか」
「浮気相手だなんて、まだそうと決まったわけではないでしょう?人聞きが悪いわ」
「決まっています。あいつらが購入した二人分の航空券の明細も、二人で出国した記録も、同じホテルへ出入りしている写真も、すでにすべてこちらの弁護士が押さえています。それどころか、会社の大切なお金を使って、その女性に高額なブランド物の贈り物をしているレシートまで見つかっているんです」
「拓也は昔から仕事熱心な子よ。今回だって、何か大きなプロジェクトの取引先の女性と一緒に、急な海外出張へ行った可能性だって――」
「母さん!いい加減にしなさい!」
見苦しい言い訳を重ねる妻を、拓也の父親が声を荒らげて厳しい口調で制止した。
「莉乃さんに、今そんな理不尽な言葉をぶつけるべきじゃないだろう!」
「でも、あなた!この莉乃さんという人は、昔からちょっと気が強すぎるのよ。拓也だって、こんな強情な女性とのこれからの結婚生活を、内心では不安に感じていたかもしれないじゃない。現に、結婚を機に勝手に仕事も辞めてしまって、これからは全面的に息子一人に頼り切って生きていく生活を、あの子に押し付けるつもりだったのではないの?」
あまりの言い草に、温厚な私の母親が怒りのあまりに席を立ち上がりかける。
だが、その不穏な動きよりも早く、私の隣にいた九条が、部屋全体の空気を震わせるほどの低い声で言い放った。
「神崎に退職を執拗に求めたのは、遠藤拓也の方です」
毅然とした九条の乱入に、拓也の母親が初めて彼を正面から睨み据えた。
「玲くん。あなた、拓也の親友のくせに、どうしてそこまで莉乃さんの味方ばかりするの?」
「味方をする、しないという次元の低い話をしているのではありません。俺は、明確な証拠が残されている『客観的な事実』だけを話しています」
「あなたは拓也と一緒に、苦労して会社を立ち上げた一番の理解者でしょう!?」
「友人だったからこそ、あいつの犯した卑劣な嘘を、綺麗な事実にすり替えてやるつもりは毛頭ありません」
手元の分厚いクリアファイルを、大きな音を立ててテーブルの中央へ置いた。
「遠藤拓也は、共同経営している自社から、少なくとも一千二百万円以上の運転資金を不正に流用しました。さらに、俺の個人名義を騙った偽装メールを作成し、経理担当者を巧妙に騙して処理を行わせています。相沢美月との宿泊費や私的な贈答品も、すべて会社の経費として処理されていました。現在、我々は業務上横領および有印私文書偽造の罪で、あいつを刑事告訴する準備を厳重に進めています」
拓也の父親が震える手でその資料をめくり、すべてを察したようにガタガタと肩を落とした。
「そんな……まさか、あの子がそこまでの大罪を……」
「式場にかかったすべての費用についても、法的な手続きを経て拓也本人へと全額請求します。神崎家がその不始末のツケを負担する理由は、どこにもありません」
「でも……もし、あの子にそんな大金を支払う能力がない場合は、結局のところ、親である私たちのところへ請求が回ってくるのでしょう?」
母親のどこまでも自己保身に満ちた言葉に、怒りを通り越して、静かに眉を跳ね上げた。
「ご両親に法的な支払い義務が一切発生しないことは、弁護士から聞いて十分に理解しています。ですから、どこまでも拓也本人へ請求を続けます」
「だったら……私たちをわざわざこんな場所に呼び出す必要なんて、最初からなかったじゃないの」
「呼び出したのは、そちらの方でしょう?」
私の冷ややかな一言に、会議室の空気が一瞬で静まり返った。
テーブルの下で膝の震えを必死に押さえつけながら、拓也の母親の目を真っ直ぐに見つめた。
「『莉乃さんにも原因があったのではないか。今夜、きちんと説明してほしい』と、私に直々にメッセージを送りつけてきたのはあなたです。だから、こうして説明するために来ました」
「それは……」
「私が気が強いから、息子さんは他の女性と浮気をしたんですか?私が仕事を辞めたから、息子さんは会社の大金を盗んだんですか?私があなたの息子との結婚式を心から楽しみにしていたから、あいつは式場へ来なかったんですか?」
感情を押し殺し、一つずつ、淡々と問い詰めていく。
拓也の母親は、私の気迫に完全に圧され、ぐうの音も出ない様子で気まずそうに目を逸らした。
「どれ一つとして、私の責任ではありません。私は、自分の前から汚く逃げ出した人間の犯した罪まで、身代わりに背負ってあげるほど優しくはありません」
声は、最後まで一切震えなかった。
ただ、テーブルの下でぎゅっと握り締めていた爪が、手のひらの肉に深く食い込み、痛烈な痛みを訴えていた。
拓也の父親が、顔を真っ赤にして深く、深く頭を下げた。
「莉乃さん、本当に、本当に申し訳ない……。式場のキャンセル費用は、ひとまずこちらで全額立て替えさせてほしい。拓也が見つかったら、親の責任として、あの子から必ず莉乃さんに全額を返させると約束する」
「お父様、そのお気持ちだけはありがたく受け取っておきます。ですが、今後のやり取りはすべて、私の弁護士を通してください」
「莉乃……」
隣で静かに見守っていた私の父が、心配そうに小さく私の名前を呼んだ。
「大丈夫よ、お父さん。私、自分の人生の不始末は、自分自身の手できちんと終わらせたいの」
長い話し合いをようやく終え、一歩廊下へ出た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、膝からガクリと力が抜けた。
倒れそうになった私の身体を、隣にいた九条が素早い動きでがしっと肘を掴んで支えてくれた。
「おい……全然大丈夫じゃないだろうが」
「床に転んでいないんだから、セーフよ。大丈夫」
「俺がこうして掴んで支えているから転んでいないだけだ」
「……じゃあ、ありがとう」
私が珍しく素直に、弱々しく礼を言うと、私の腕を掴んでいた九条の手の力が、一瞬だけぎゅっと強くなった。
「――よく言った」
「何がよ」
「全部だ。あいつの母親に、一歩も引かずに自分の言葉で叩きつけたな」
そのぶっきらぼうな一言が、冷え切っていた私の胸の奥に、じんわりとした熱い塊となって広がっていった。
そのまま私を帰さず、ホテルの格式高いラウンジへ強引に連れていった。彼は手際よく温かい紅茶を二つ頼むと、淹れたてのカップを黙って私の目の前へと押し置いた。
「結婚を迷っていたから、あいつは結婚式当日に、浮気相手の女と二人で海外へ高飛びしたんですか」
「浮気相手だなんて、まだそうと決まったわけではないでしょう?人聞きが悪いわ」
「決まっています。あいつらが購入した二人分の航空券の明細も、二人で出国した記録も、同じホテルへ出入りしている写真も、すでにすべてこちらの弁護士が押さえています。それどころか、会社の大切なお金を使って、その女性に高額なブランド物の贈り物をしているレシートまで見つかっているんです」
「拓也は昔から仕事熱心な子よ。今回だって、何か大きなプロジェクトの取引先の女性と一緒に、急な海外出張へ行った可能性だって――」
「母さん!いい加減にしなさい!」
見苦しい言い訳を重ねる妻を、拓也の父親が声を荒らげて厳しい口調で制止した。
「莉乃さんに、今そんな理不尽な言葉をぶつけるべきじゃないだろう!」
「でも、あなた!この莉乃さんという人は、昔からちょっと気が強すぎるのよ。拓也だって、こんな強情な女性とのこれからの結婚生活を、内心では不安に感じていたかもしれないじゃない。現に、結婚を機に勝手に仕事も辞めてしまって、これからは全面的に息子一人に頼り切って生きていく生活を、あの子に押し付けるつもりだったのではないの?」
あまりの言い草に、温厚な私の母親が怒りのあまりに席を立ち上がりかける。
だが、その不穏な動きよりも早く、私の隣にいた九条が、部屋全体の空気を震わせるほどの低い声で言い放った。
「神崎に退職を執拗に求めたのは、遠藤拓也の方です」
毅然とした九条の乱入に、拓也の母親が初めて彼を正面から睨み据えた。
「玲くん。あなた、拓也の親友のくせに、どうしてそこまで莉乃さんの味方ばかりするの?」
「味方をする、しないという次元の低い話をしているのではありません。俺は、明確な証拠が残されている『客観的な事実』だけを話しています」
「あなたは拓也と一緒に、苦労して会社を立ち上げた一番の理解者でしょう!?」
「友人だったからこそ、あいつの犯した卑劣な嘘を、綺麗な事実にすり替えてやるつもりは毛頭ありません」
手元の分厚いクリアファイルを、大きな音を立ててテーブルの中央へ置いた。
「遠藤拓也は、共同経営している自社から、少なくとも一千二百万円以上の運転資金を不正に流用しました。さらに、俺の個人名義を騙った偽装メールを作成し、経理担当者を巧妙に騙して処理を行わせています。相沢美月との宿泊費や私的な贈答品も、すべて会社の経費として処理されていました。現在、我々は業務上横領および有印私文書偽造の罪で、あいつを刑事告訴する準備を厳重に進めています」
拓也の父親が震える手でその資料をめくり、すべてを察したようにガタガタと肩を落とした。
「そんな……まさか、あの子がそこまでの大罪を……」
「式場にかかったすべての費用についても、法的な手続きを経て拓也本人へと全額請求します。神崎家がその不始末のツケを負担する理由は、どこにもありません」
「でも……もし、あの子にそんな大金を支払う能力がない場合は、結局のところ、親である私たちのところへ請求が回ってくるのでしょう?」
母親のどこまでも自己保身に満ちた言葉に、怒りを通り越して、静かに眉を跳ね上げた。
「ご両親に法的な支払い義務が一切発生しないことは、弁護士から聞いて十分に理解しています。ですから、どこまでも拓也本人へ請求を続けます」
「だったら……私たちをわざわざこんな場所に呼び出す必要なんて、最初からなかったじゃないの」
「呼び出したのは、そちらの方でしょう?」
私の冷ややかな一言に、会議室の空気が一瞬で静まり返った。
テーブルの下で膝の震えを必死に押さえつけながら、拓也の母親の目を真っ直ぐに見つめた。
「『莉乃さんにも原因があったのではないか。今夜、きちんと説明してほしい』と、私に直々にメッセージを送りつけてきたのはあなたです。だから、こうして説明するために来ました」
「それは……」
「私が気が強いから、息子さんは他の女性と浮気をしたんですか?私が仕事を辞めたから、息子さんは会社の大金を盗んだんですか?私があなたの息子との結婚式を心から楽しみにしていたから、あいつは式場へ来なかったんですか?」
感情を押し殺し、一つずつ、淡々と問い詰めていく。
拓也の母親は、私の気迫に完全に圧され、ぐうの音も出ない様子で気まずそうに目を逸らした。
「どれ一つとして、私の責任ではありません。私は、自分の前から汚く逃げ出した人間の犯した罪まで、身代わりに背負ってあげるほど優しくはありません」
声は、最後まで一切震えなかった。
ただ、テーブルの下でぎゅっと握り締めていた爪が、手のひらの肉に深く食い込み、痛烈な痛みを訴えていた。
拓也の父親が、顔を真っ赤にして深く、深く頭を下げた。
「莉乃さん、本当に、本当に申し訳ない……。式場のキャンセル費用は、ひとまずこちらで全額立て替えさせてほしい。拓也が見つかったら、親の責任として、あの子から必ず莉乃さんに全額を返させると約束する」
「お父様、そのお気持ちだけはありがたく受け取っておきます。ですが、今後のやり取りはすべて、私の弁護士を通してください」
「莉乃……」
隣で静かに見守っていた私の父が、心配そうに小さく私の名前を呼んだ。
「大丈夫よ、お父さん。私、自分の人生の不始末は、自分自身の手できちんと終わらせたいの」
長い話し合いをようやく終え、一歩廊下へ出た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、膝からガクリと力が抜けた。
倒れそうになった私の身体を、隣にいた九条が素早い動きでがしっと肘を掴んで支えてくれた。
「おい……全然大丈夫じゃないだろうが」
「床に転んでいないんだから、セーフよ。大丈夫」
「俺がこうして掴んで支えているから転んでいないだけだ」
「……じゃあ、ありがとう」
私が珍しく素直に、弱々しく礼を言うと、私の腕を掴んでいた九条の手の力が、一瞬だけぎゅっと強くなった。
「――よく言った」
「何がよ」
「全部だ。あいつの母親に、一歩も引かずに自分の言葉で叩きつけたな」
そのぶっきらぼうな一言が、冷え切っていた私の胸の奥に、じんわりとした熱い塊となって広がっていった。
そのまま私を帰さず、ホテルの格式高いラウンジへ強引に連れていった。彼は手際よく温かい紅茶を二つ頼むと、淹れたてのカップを黙って私の目の前へと押し置いた。



