白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

 神聖な式場の控室に、凛とした白檀の香りが漂っている。
 鏡の中にいるのは、どこからどう見ても、完璧で、美しいはずの花嫁。
 一点の曇りもない白無垢。ふんわりと頭を包む綿帽子。プロの手によって施された、隙のない婚礼の化粧。

 ――足りないのは、隣に立つべき花婿だけ。
 もうどれくらい、同じ表情のまま鏡を見つめ続けているだろう。

「神崎様……その、まだ、新郎様と連絡がつきません」

 三度目の報告に現れたスタッフの女性は、いたたまれなそうに視線を落とし、指先をぎゅっと握りしめている。

「ご実家には?」
「お母様も、今朝まではご自宅にいらっしゃると思っていたようで……完全に寝耳に水だと、ひどく狼狽されていて……」

 鏡越しに、スタッフの怯えたような瞳をじっと見据えた。

「開始時刻まで、あとどれくらい?」
「……あと、一時間です」

 閉ざされた扉の向こうから、参列者たちの華やいだざわめきが微かに漏れ聞こえてくる。
 親族だけで五十人。前職の上司や同僚、友人たちも大勢招いた。
 受付には私たちの名前が並び、廊下には溢れんばかりの祝い花や電報が届いている。
 世界中で、私たちが一番幸せになるはずの場所。
 それなのに、主役の男がいない。

 もし遅刻なら、命を懸けてでも連絡の一本くらい入れるはずだ。
 もし事故なら、警察や病院からとっくに報せが入っている。
 スマートフォンの電源を完全に切り、家族にも会社にも行き先を告げず、結婚式の朝に忽然と姿を消す理由なんて。

 ――逃げたんだ。

 その事実がすとんと腑に落ちた瞬間、脳の奥がカッと熱くなった。
 悲しいなんて感情は、一ミリも湧いてこない。ただ、猛烈に、身体中の血が沸騰するほどの怒りが喉の奥を焼き尽くしていく。
 バタバタと騒がしい足音とともに、母が控室へ駆け込んできた。

「莉乃、大丈夫!?式場の方が、もう少し様子を見てみましょうって……」
「待たない」
「でも、拓也さんに何か不測の事態があったのかもしれないでしょう?」
「何かあったのかどうか、私がこの目で確かめてくる」

 一気に立ち上がると、ずっしりとした白無垢の重みが膝にまとわりつき、がちがちに結ばれた帯が呼吸を苦しくさせる。けれど、今の私にはそれさえも戦闘服の鎧のように思えた。

「どこへ行くの、そんな格好で!」
「あの人の家。あそこ、会社のオフィスも兼ねてるから、誰か事情を知っている人がいるかもしれない」
「莉乃、落ち着きなさい、まず着替えを――」
「着替えなんてないわよ!全部新居に送っちゃったもの。ここには帰りのワンピースが一枚あるだけ。今は、脱いでる時間さえ惜しいの」

 この結婚のために、私は五年勤めた大好きな会社を寿退社した。
 立ち上げたばかりの会社で手一杯な拓也から、「家事を支えてほしい」と頭を下げられたから。
 住んでいたアパートも先月解約して、荷物の大半は、今日から二人で暮らすはずだった新居に運び込んである。
 職も、家も、自分のキャリアも全部手放して、今日から夫婦になるつもりだった。
 その張本人が、よりによって今、この瞬間に消えたのだ。

「式場の費用は、一体どうするつもりだ」

 背後から、低く押し殺した父の声が飛んできた。
 怒鳴り散らされるよりも、その静かな怒気の方が、現実の冷酷さを突きつけてくる。

「私が、死に物狂いで何とかする」
「何とかできる金額じゃない!まずは拓也くんのご両親と話し合いを――」
「とにかく、本人を引っ張り出すのが先。お父さんたちは、ここの対応をお願い」

 すれ違いざま、母が縋るように私の腕を掴んだ。

「一人で行くの?」
「一人で十分。見つけたら、髪の毛引っ掴んででも引きずり回して連れてくる」

 花嫁が口にしていい台詞ではないことくらい、百も承知だ。
 けれど、今さら淑女のフリをして、涙を流しながら惨めに待ちぼうけを食らうなんて、私のプライドが絶対に許さない。
 慌てて追いかけてくるスタッフを振り切り、両手で重い裾をがばりと持ち上げて、控室を飛び出した。

 廊下にいた参列者たちが、一斉に息を呑んで振り返る。
 憐れみと好奇の混じった視線が痛いほど突き刺さり、ひそひそとした囁き声が耳の奥を引っ掻く。
 それでも、私の足は一歩もひるまなかった。

 式場の車寄せに滑り込んできたタクシーに飛び込む。
 バックミラー越しに、運転手が目を丸くして私を二度見した。

「……花嫁さん、会場はこちらですが……お間違えでは?」
「間違えていません。ちょっと、そこのマンションまで花婿を回収しに行くんです」
「――承知しました」

 事情を察してくれたのか、それ以上何も聞かずにアクセルを踏み込んでくれたことだけが、今の私にとっての救いだった。

 窓の外を、のどかな休日の景色が流れていく。
 歩道を行く家族連れやカップルが、信号待ちのタクシーの中を信じられないといった様子で覗き込んできた。綿帽子を外す心の余裕すらなく、私は膝の上で、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめた。

 拓也とは二年前、友人の食事会で出会った。
 穏やかで、優しくて、いつでも私を最優先に気遣ってくれる男だった。起業したてで寝る間もないほど忙しいはずなのに、記念日には必ず花を贈り、私の両親への挨拶も完璧にこなしてみせた。
 昨夜の電話だって、いつも通りだった。

『明日、緊張して遅刻しないでよ?』
『はは、俺が自分の結婚式に遅れるわけないだろ。莉乃こそ、目が冴えて寝不足になるなよ』

 優しく笑う、いつもの声。何一つ、不自然な点なんてなかった。
 だからこそ、許せない。
 昨夜のあの温もりまで全部、ただの演技だったというの?
 私は二年間、一体彼の何を見ていたのだろう。

 タクシーのメーターが上がるたび、式場に支払った、目が眩むような大金のことが脳裏をよぎる。
 こんな極限状態でも、数百円の増減に一喜一憂している自分がひどく滑稽で、情けなくて、奥歯を噛み締めた。
 泣き出してしまわないように、怒りという燃料を心臓にくべ続ける。

 車は都心の低層高級マンションの前で急停止した。
 一階と二階は拓也たちのオフィスで、最上階のワンフロアを彼の自宅兼役員スペースとして使っている。何度も通った場所だから、オートロックの暗証番号も暗記していた。
 支払いをしようとして、和装用のちいさな巾着バッグしか持っていないことに気づく。財布の中には、最低限の現金しか入っていない。

「あの、カードは使えますか……?」
「大丈夫ですよ、端末回しますね」

 震える手で精算を済ませ、再び裾を抱えて車外へ飛び出した。
 エントランスのガラスに、真っ白な自分の姿が映り込む。
 幸せの象徴であるはずの白無垢が、今の私には、裏切り者を討つための戦装束にしか見えなかった。

 暗証番号を叩き込み、エレベーターへ滑り込む。
 静かに上昇していく密室の中で、激しい心臓の音だけが耳の奥でうるさいほどに鳴り響いていた。

 拓也を見つけたら、まずどの面下げて私に言い訳をするつもりだろう。
 もしも、くだらない理由で逃げ出したのだとしたら、一発殴るくらいじゃ絶対に気が済まない。

 最上階に到着した瞬間、私は呼び鈴も押さず、手荒に鍵を開けて扉を押し開けた。

「拓也……っ!!」

 怒号とともにリビングへ踏み込む。
 広い部屋の中央、書類の山を抱えた長身の男が、驚いたようにこちらを振り返った。

 ――そこにいたのは、拓也ではなかった。

 大学時代からの親友であり、この会社の共同代表でもある、九条玲。
 いつも冷静沈着で、滅多に感情を崩さない彼が、白無垢姿で肩を荒く上下させている私を見て、完全に言葉を失っていた。