クインテラ王国の後宮という巨大な檻は、たった一人の少女の存在によって、完全にその形を変えようとしていた。
第六側室として入内した純白の髪の少女、リリィ。
彼女が『白百合宮』の主となったその日から、国王レオンハルトの行動は、これまでの冷徹な彼からはおよそ想像もつかないほどに狂い始めていた。
入内から半月が経過してもなお、王が夜を過ごすのは白百合宮のみ。
毎夜、夕刻の鐘が鳴ると同時に、王の豪奢な行列は他のすべての宮を素通りし、あの甘く妖しい香香が漂うリリィの寝所へと吸い込まれていくのだった。
この異常事態に、最も激しく動揺し、プライドを粉々に打ち砕かれたのは、黄金宮の奥に君臨する正妻オーレリアだった。
「あり得ないわ……! あのような出自も定かではない、どこの馬の骨とも知れぬ小娘に、陛下がこれほどまでに溺愛されるなど……! 側室五人の法を満たすための頭数合わせとして放り込まれた平民のエレナだけでも忌々しいというのに、今度はあの歩く不吉のような白い髪のガキですか!?」
黄金宮の謁見の間で、オーレリアは豪奢な扇を床に叩きつけ、激しい金切り声を響かせていた。
その美しい顔は怒りと嫉妬で醜く歪み、完璧に結い上げられた髪が激しい呼吸と共に小さく揺れる。
彼女にとって、自分が命がけで産んだ子が娘であり、次期国王の座がエレナの息子アルフレッドに転がり込んだだけでも許しがたい屈辱だったのだ。
そこにきて、さらに若い側室への盲目的な寵愛という二重の絶望が襲いかかっていた。
オーレリアの傍らに控える第二側室ヴェロニカも、その顔を焦燥感に染めていた。
「オーレリア様、落ち着きくださいませ。ですが……事態は深刻です。私の実家が王宮の官吏から得た情報によりますと、陛下はここ
数日、政務の合間にもリリィのために異国の高価な宝石や絹織物を大量に買い付けさせているとのこと。それだけでなく、彼女の宮に仕える使用人たちをすべて王直属の近衛に差し替え、外部からの接触を完全に遮断しているのです」
「王直属の近衛だと……!? 陛下はあの小娘を、この私以上に丁重に扱おうというのですか!?」
オーレリアの瞳に、激しい殺意の炎が灯る。
「ヴェロニカ、もうエレナとその泥の子供など構っている場合ではありません。あの平民親子は、後からいくらでも踏み潰せる。今の最優先事項は、あの白百合宮の妖狐です。もし……もしあの女が、陛下の寵愛によって男児を身籠るようなことがあれば、この後宮の、いいえ、この国の権力はすべてあの小娘に奪われてしまうわ!」
「御意にございます、正妻様。あのような不届きな小娘、早々に処理してしまいましょう」
ヴェロニカは冷酷に微笑み、懐から一つの小さな薬瓶を取り出した。中には、無色透明の液体が入っている。
「これは、我が公爵家に代々伝わる不妊の秘薬にございます。これを数滴、あの方の食事や香炉に混ぜれば、二度と子供を宿せぬ体となり、やがては王の寵愛も薄れることでしょう。幸い、私の息がかかった内膳司の者が、白百合宮へ食材を運ぶ手筈になっております」
「ふん、手ぬるいけれど……まずはその小娘の翼を捥ぐのが先決ね。やりなさい、ヴェロニカ。徹底的に、あの女を絶望の底へ突き落とすのよ」
正妻派の矛先が、一瞬にしてエレナからリリィへと切り替わった瞬間だった。
その頃、翡翠宮の静かなテラスでは、エレナがブリジェットと共に、変わりゆく後宮の風を感じていた。
「本当に、正妻派の動きがピタリと止まったわね」
エレナは、ハーブティーのカップを口元に運びながら、静かに呟いた。
「ああ。ヴェロニカの奴ら、完全にリリィに標的を変えたよ」
ブリジェットは、愛用の短剣の手入れをしながら、退屈そうに鼻を鳴らした。
「私たちの翡翠宮に仕掛けられていた細かな嫌がらせや、予算の差し戻しが、今朝になってすべて解除された。内膳司の役人どもも、急に手のひらを返したようにペコペコしやがって。要するに、あいつらは今、私らと戦う体力が残っていないのさ。リリィという巨大な脅威の前に、完全にパニックを起こしているんだよ」
「それは、私たちにとっては息を吐くための猶予になるけれど……同時に、最も不気味な状況でもあるわ」
エレナの視線は、遠くに見える白百合宮へと向けられていた。
「正妻オーレリア様やヴェロニカ様が、リリィをあのおどおどした少女のままだと思っているなら、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。ブリジェット様、例の不妊薬の件はどうなったの?」
ブリジェットは短剣を鞘に収めると、顔を真剣なものに変えてエレナに身を寄せた。
「お前の予想通りさ、エレナ。ヴェロニカが内膳司を使って、リリィのスープに不妊薬を混入させようとした。だが……結果は無惨なものだったよ。薬を盛ろうとした料理人と、それを指示したヴェロニカの配下の侍女が、今日の未明に、王宮の裏庭で『心臓麻痺』の死体となって発見された」
「心臓麻痺……? 証拠も残さずに?」
「ああ。表向きは急病死だが、私の実家のツテで死体を調べさせたところ、首の裏に極めて細い、針で刺したような痕跡があったそうだ。おそらく、王の直属の隠密が手を下したんだろう。レオンハルト陛下は、リリィに危害を加えようとする者を、一切の容赦なく、そして表沙汰にすることなく闇から闇へと葬り去っている」
エレナは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
あの冷徹な王レオンハルトが、一人の側室を守るために、そこまで徹底的に手を汚している。
それは、単なる「美しい女への溺愛」という言葉だけで片付けられるものではなかった。
そこには、もっと別の、後宮の住人には窺い知れない「冷酷な意思」が存在しているように思えてならなかった。
「お母様、見て! 新しい絵の具で、お星様を描いたよ!」
そこへ、部屋の奥からアルフレッドが無邪気な声を上げて走ってきた。
その小さな手には、青と黄色で彩られた不格好な夜空の絵が握られている。
「まあ、アル、とても上手に描けましたね」
エレナは我が子を抱き寄せ、その柔らかな髪に顔を埋めた。
アルフレッドの体温を感じるたび、彼女の心には「何があってもこの子を守る」という魔女の炎が再燃する。
(正妻派がリリィへの攻撃に失敗し続ければ、いずれ彼らはさらに過激な手段に出る。そして、リリィという少女がそれをただ黙って見過ごすはずがない。あのサファイアの瞳の奥にある闇が動き出したとき、後宮は本当の地獄になるわ……)
その予感は、数日後に早くも現実のものとなった。
ヴェロニカは、不妊薬の混入に失敗したばかりか、自身の優秀な手下を失ったことで、完全に正気を失いかけていた。
彼女は公爵家の権力を背景に、今度はより直接的な「嫌がらせ」を白百合宮に仕掛けたのだ。
リリィが中庭を散歩する時間を見計らい、わざと彼女のドレスに泥水を撥ねるよう下男に命じたり、彼女の宮への給水を一時的に止めるよう手配したりと、幼稚でありながらも執拗な攻撃を繰り返した。
しかし、それらの試みは、すべて王の「鉄壁の守り」によって、驚くべき速度で、かつ冷酷に叩き潰されていった。
泥水を撥ねようとした下男は、その日のうちに「足を滑らせて階段から転落した」として下半身不随の重傷を負い、後宮から追放された。給水を止めようとした役人は、過去の汚職の証拠を突如として突きつけられ、一族もろとも極刑に処された。
白百合宮の周囲で起きるすべての出来事が、まるで目に見えない巨大な刃によって、リリィに近づく悪意をことごとく切り裂いていくかのようだった。
「ひっ……ああ、そんな……どうして、どうしてあの小娘に触れることすらできないの!? 陛下は一体、何を考えていらっしゃるの!?」
白銀宮の自室で、ヴェロニカは届く報告の数々に恐怖し、ガタガタと震えていた。
彼女がどれほど権力を振るおうとも、王の持つ絶対的な暴力の前には、公爵家の威光など微々たるものに過ぎなかった。
後宮全体の空気が、じわじわと狂い始めていた。
これまでは、女たちの陰謀と、それに伴う適度な泥仕合が後宮の日常だった。
しかし今や、リリィという存在に触れようとした者は、例外なく、そして完璧に破滅させられる。
その異常な光景に、第四側室のフィオナは完全に自室に引きこもり、第三側室のカタリナは、ただ不気味なほどに静かに読書を続けていた。
そして、エレナもまた、この狂い出した天秤の行く末を、冷徹な目で見つめ続けていた。
(レオンハルト陛下……あなたは本当に、あのリリィという少女に心を奪われてしまったのですか? それとも……この狂乱の裏には、私たちがまだ気づいていない、もっと恐ろしい真実が隠されているの?)
夜、翡翠宮の窓から見える白百合宮は、今夜も妖しく、そして美しく輝いていた。
そこから漂う甘い香りは、まるで後宮全体の理性を狂わせる毒煙のように、静かに、確実に、すべての夫人たちの心を蝕んでいくのだった。
エレナはアルフレッドの寝顔を見守りながら、迫り来る第二の嵐に備え、自らの知恵をさらに研ぎ澄ますことを心に誓った。
第六側室として入内した純白の髪の少女、リリィ。
彼女が『白百合宮』の主となったその日から、国王レオンハルトの行動は、これまでの冷徹な彼からはおよそ想像もつかないほどに狂い始めていた。
入内から半月が経過してもなお、王が夜を過ごすのは白百合宮のみ。
毎夜、夕刻の鐘が鳴ると同時に、王の豪奢な行列は他のすべての宮を素通りし、あの甘く妖しい香香が漂うリリィの寝所へと吸い込まれていくのだった。
この異常事態に、最も激しく動揺し、プライドを粉々に打ち砕かれたのは、黄金宮の奥に君臨する正妻オーレリアだった。
「あり得ないわ……! あのような出自も定かではない、どこの馬の骨とも知れぬ小娘に、陛下がこれほどまでに溺愛されるなど……! 側室五人の法を満たすための頭数合わせとして放り込まれた平民のエレナだけでも忌々しいというのに、今度はあの歩く不吉のような白い髪のガキですか!?」
黄金宮の謁見の間で、オーレリアは豪奢な扇を床に叩きつけ、激しい金切り声を響かせていた。
その美しい顔は怒りと嫉妬で醜く歪み、完璧に結い上げられた髪が激しい呼吸と共に小さく揺れる。
彼女にとって、自分が命がけで産んだ子が娘であり、次期国王の座がエレナの息子アルフレッドに転がり込んだだけでも許しがたい屈辱だったのだ。
そこにきて、さらに若い側室への盲目的な寵愛という二重の絶望が襲いかかっていた。
オーレリアの傍らに控える第二側室ヴェロニカも、その顔を焦燥感に染めていた。
「オーレリア様、落ち着きくださいませ。ですが……事態は深刻です。私の実家が王宮の官吏から得た情報によりますと、陛下はここ
数日、政務の合間にもリリィのために異国の高価な宝石や絹織物を大量に買い付けさせているとのこと。それだけでなく、彼女の宮に仕える使用人たちをすべて王直属の近衛に差し替え、外部からの接触を完全に遮断しているのです」
「王直属の近衛だと……!? 陛下はあの小娘を、この私以上に丁重に扱おうというのですか!?」
オーレリアの瞳に、激しい殺意の炎が灯る。
「ヴェロニカ、もうエレナとその泥の子供など構っている場合ではありません。あの平民親子は、後からいくらでも踏み潰せる。今の最優先事項は、あの白百合宮の妖狐です。もし……もしあの女が、陛下の寵愛によって男児を身籠るようなことがあれば、この後宮の、いいえ、この国の権力はすべてあの小娘に奪われてしまうわ!」
「御意にございます、正妻様。あのような不届きな小娘、早々に処理してしまいましょう」
ヴェロニカは冷酷に微笑み、懐から一つの小さな薬瓶を取り出した。中には、無色透明の液体が入っている。
「これは、我が公爵家に代々伝わる不妊の秘薬にございます。これを数滴、あの方の食事や香炉に混ぜれば、二度と子供を宿せぬ体となり、やがては王の寵愛も薄れることでしょう。幸い、私の息がかかった内膳司の者が、白百合宮へ食材を運ぶ手筈になっております」
「ふん、手ぬるいけれど……まずはその小娘の翼を捥ぐのが先決ね。やりなさい、ヴェロニカ。徹底的に、あの女を絶望の底へ突き落とすのよ」
正妻派の矛先が、一瞬にしてエレナからリリィへと切り替わった瞬間だった。
その頃、翡翠宮の静かなテラスでは、エレナがブリジェットと共に、変わりゆく後宮の風を感じていた。
「本当に、正妻派の動きがピタリと止まったわね」
エレナは、ハーブティーのカップを口元に運びながら、静かに呟いた。
「ああ。ヴェロニカの奴ら、完全にリリィに標的を変えたよ」
ブリジェットは、愛用の短剣の手入れをしながら、退屈そうに鼻を鳴らした。
「私たちの翡翠宮に仕掛けられていた細かな嫌がらせや、予算の差し戻しが、今朝になってすべて解除された。内膳司の役人どもも、急に手のひらを返したようにペコペコしやがって。要するに、あいつらは今、私らと戦う体力が残っていないのさ。リリィという巨大な脅威の前に、完全にパニックを起こしているんだよ」
「それは、私たちにとっては息を吐くための猶予になるけれど……同時に、最も不気味な状況でもあるわ」
エレナの視線は、遠くに見える白百合宮へと向けられていた。
「正妻オーレリア様やヴェロニカ様が、リリィをあのおどおどした少女のままだと思っているなら、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。ブリジェット様、例の不妊薬の件はどうなったの?」
ブリジェットは短剣を鞘に収めると、顔を真剣なものに変えてエレナに身を寄せた。
「お前の予想通りさ、エレナ。ヴェロニカが内膳司を使って、リリィのスープに不妊薬を混入させようとした。だが……結果は無惨なものだったよ。薬を盛ろうとした料理人と、それを指示したヴェロニカの配下の侍女が、今日の未明に、王宮の裏庭で『心臓麻痺』の死体となって発見された」
「心臓麻痺……? 証拠も残さずに?」
「ああ。表向きは急病死だが、私の実家のツテで死体を調べさせたところ、首の裏に極めて細い、針で刺したような痕跡があったそうだ。おそらく、王の直属の隠密が手を下したんだろう。レオンハルト陛下は、リリィに危害を加えようとする者を、一切の容赦なく、そして表沙汰にすることなく闇から闇へと葬り去っている」
エレナは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
あの冷徹な王レオンハルトが、一人の側室を守るために、そこまで徹底的に手を汚している。
それは、単なる「美しい女への溺愛」という言葉だけで片付けられるものではなかった。
そこには、もっと別の、後宮の住人には窺い知れない「冷酷な意思」が存在しているように思えてならなかった。
「お母様、見て! 新しい絵の具で、お星様を描いたよ!」
そこへ、部屋の奥からアルフレッドが無邪気な声を上げて走ってきた。
その小さな手には、青と黄色で彩られた不格好な夜空の絵が握られている。
「まあ、アル、とても上手に描けましたね」
エレナは我が子を抱き寄せ、その柔らかな髪に顔を埋めた。
アルフレッドの体温を感じるたび、彼女の心には「何があってもこの子を守る」という魔女の炎が再燃する。
(正妻派がリリィへの攻撃に失敗し続ければ、いずれ彼らはさらに過激な手段に出る。そして、リリィという少女がそれをただ黙って見過ごすはずがない。あのサファイアの瞳の奥にある闇が動き出したとき、後宮は本当の地獄になるわ……)
その予感は、数日後に早くも現実のものとなった。
ヴェロニカは、不妊薬の混入に失敗したばかりか、自身の優秀な手下を失ったことで、完全に正気を失いかけていた。
彼女は公爵家の権力を背景に、今度はより直接的な「嫌がらせ」を白百合宮に仕掛けたのだ。
リリィが中庭を散歩する時間を見計らい、わざと彼女のドレスに泥水を撥ねるよう下男に命じたり、彼女の宮への給水を一時的に止めるよう手配したりと、幼稚でありながらも執拗な攻撃を繰り返した。
しかし、それらの試みは、すべて王の「鉄壁の守り」によって、驚くべき速度で、かつ冷酷に叩き潰されていった。
泥水を撥ねようとした下男は、その日のうちに「足を滑らせて階段から転落した」として下半身不随の重傷を負い、後宮から追放された。給水を止めようとした役人は、過去の汚職の証拠を突如として突きつけられ、一族もろとも極刑に処された。
白百合宮の周囲で起きるすべての出来事が、まるで目に見えない巨大な刃によって、リリィに近づく悪意をことごとく切り裂いていくかのようだった。
「ひっ……ああ、そんな……どうして、どうしてあの小娘に触れることすらできないの!? 陛下は一体、何を考えていらっしゃるの!?」
白銀宮の自室で、ヴェロニカは届く報告の数々に恐怖し、ガタガタと震えていた。
彼女がどれほど権力を振るおうとも、王の持つ絶対的な暴力の前には、公爵家の威光など微々たるものに過ぎなかった。
後宮全体の空気が、じわじわと狂い始めていた。
これまでは、女たちの陰謀と、それに伴う適度な泥仕合が後宮の日常だった。
しかし今や、リリィという存在に触れようとした者は、例外なく、そして完璧に破滅させられる。
その異常な光景に、第四側室のフィオナは完全に自室に引きこもり、第三側室のカタリナは、ただ不気味なほどに静かに読書を続けていた。
そして、エレナもまた、この狂い出した天秤の行く末を、冷徹な目で見つめ続けていた。
(レオンハルト陛下……あなたは本当に、あのリリィという少女に心を奪われてしまったのですか? それとも……この狂乱の裏には、私たちがまだ気づいていない、もっと恐ろしい真実が隠されているの?)
夜、翡翠宮の窓から見える白百合宮は、今夜も妖しく、そして美しく輝いていた。
そこから漂う甘い香りは、まるで後宮全体の理性を狂わせる毒煙のように、静かに、確実に、すべての夫人たちの心を蝕んでいくのだった。
エレナはアルフレッドの寝顔を見守りながら、迫り来る第二の嵐に備え、自らの知恵をさらに研ぎ澄ますことを心に誓った。



