ブリジェットとの秘密同盟が結ばれてからというもの、翡翠宮の環境は劇的に改善された。
中庭や廊下には、ブリジェットの実家である騎士家系から出向してきた、厳ついながらも忠誠心の高い近衛兵たちが配備され、不審な影を一切寄せ付けなくなった。
食事の調達ルートも完全に掌握し、ヴェロニカや正妻オーレリアの派閥が送り込んでくる毒物の芽は、すべて未然に摘み取られるようになった。
「エレナ様、近頃はヴェロニカ様も、お茶会でこちらを睨みつけるばかりで、具体的な手出しをしてこなくなりましたね。ブリジェット様の存在が、相当な抑止力になっているようです」
マルタが安堵の表情で、アルフレッドのために新しく仕立てた衣服を畳みながら言う。
「ええ。力ずくで私たちを排除できないと悟って、今は雌伏の時を過ごしているのでしょう。でも、油断は禁物よ。正妻オーレリア様の実家である公爵家が、このまま黙っているはずがないもの」
エレナは、机の上に広げた後宮の勢力図を見つめながら、思考を巡らせていた。
現在の状況は、
・正妻オーレリア(黄金宮)&第二側室ヴェロニカ(白銀宮):正妻派(大貴族連合)
・第一側室エレナ(翡翠宮)&第五側室ブリジェット(黒曜宮):世継ぎ防衛派
・第三側室カタリナ(紫水晶宮):静観派(常に読書をしており、派閥争いには無関心)
・第四側室フィオナ(琥珀宮):日和見派(勝った方に味方する主義)
という三つ巴、あるいは四つ巴の膠着状態にあった。
エレナ派が盛り返したことで、後宮内には一時の奇妙な安定がもたらされていた。
しかし、クインテラ王国の歪んだ法律――『五妻一子の法』がもたらす「最後のバグ」が、突如としてその安定を粉々に打ち砕くことになる。
「全夫人へ通達いたします! 本日、国王陛下のご意向により、新たな側室が入内あそばされます。皆様、直ちに中央広場へ集まり、お出迎えの準備を整えてください!」
王宮の官吏による大声の布告が、静かな後宮に響き渡った。
「新しい側室……!? そんな馬鹿な!」
翡翠宮の談話室で、お茶を飲んでいたブリジェットが、思わず机を叩いて立ち上がった。
「法律では『五人以上の妻を持つこと』とされているが、すでに正妻を含めて私たちは六人(正妻+側室五人)いるんだぞ! これ以上、妻を増やしてどうするつもりだ!?」
エレナもまた、押し寄せる不穏な予感に胸を締め付けられていた。
「法律の条文には『五人以上』としか書かれていません。つまり、上限はないのです……。まだ子どもを産んでいない、若い女性を新しく入れることで、王位継承のバランスを揺るがそうという、誰かの意図を感じます」
重苦しい空気の中、エレナたちは中央広場へと向かった。
広場にはすでに、正妻オーレリアの代理として出席したヴェロニカや、第四側室のフィオナらが集まっており、誰もが不機嫌さと戸惑いを隠せない表情で待機していた。
やがて、王宮の巨大な鉄製の城門が、重々しい音を立てて開いた。
入ってきたのは、これまでに見たこともないほど豪奢で、異国の装飾が施された白塗りの馬車だった。
馬車の扉が静かに開く。
現れたのは、一人の少女だった。
「……あっ」
フィオナが思わず小さな声を漏らす。
そこにいたのは、まだ十四、五歳ほどに見える、信じられないほど可憐であどけない少女だった。
絹糸のように細く柔らかな純白の髪が、微風に揺れている。
その肌は雪のように白く、大きな瞳は、まるで見たこともないほど澄んだ、美しいサファイアのようだった。
身に纏う薄桃色のドレスは彼女の華奢な体型を強調しており、ドロドロとした陰謀が渦巻く後宮には、およそ不釣り合いな「純真無垢な天使」そのものの姿だった。
少女は集まった側室たちの視線に怯えるように、ペコリと深く頭を下げた。その体は小刻みに震えている。
「あ、あの……新しく入内いたしました……リ、リリィと申します……。皆様、至らない点ばかりですが……どうぞ、よろしくお願いいたします……っ」
消え入りそうな、今にも泣き出しそうな声。
そのあまりの弱々しさに、張り詰めていたヴェロニカたちの緊張が、一気に弛緩していくのが分かった。
「ふん、なーんだ。ただの田舎の大貴族が、王の寵愛を狙って送り込んできたおどおどした小娘じゃない。あんなガキ、脅せばすぐに泣き出して部屋に引きこもるわよ」
ヴェロニカは扇で口元を隠しながら、小声でせせら笑った。
フィオナも「手強い敵かと思いましたが、拍子抜けですね」と退屈そうに髪を弄っている。
だが、エレナだけは、その少女――リリィから目を離すことができなかった。
(おかしい……。本当に怯えているだけなら、なぜあんなに足元が安定しているの? それに……)
リリィが頭を上げ、周囲の側室たちを一人ずつ見渡していく。その視線が、まっすぐにエレナを捉えた。
その刹那。
リリィの澄んだサファイアの瞳の奥で、何かが歪んだ。
怯えた少女の仮面の裏側に、底の知れない、ゾッとするほど冷酷で、一切の感情を排した「奈落のような闇」が、一瞬だけ、確かに見えたのだ。
リリィはすぐにまた、おどおどとした表情に戻って視線を外したが、エレナの背筋には凍りつくような戦慄が走った。
(あの娘……危険よ。ヴェロニカ様たちのような、目先の権力に目が眩んだ貴族の令嬢とは、根底にある『質』が違う……!)
そして、この「第六の側室リリィ」の入内は、その日の夜から、後宮の生態系を根本から狂わせることになる。
通常、新しい側室が入内した場合、最初の夜は王がその宮を訪れるのが慣わしだが、その後は既存の妻たちの間を順番に回るのが、後宮のパワーバランスを保つための暗黙のルールだった。
しかし、国王レオンハルトはそのルールを、完膚なきまでに踏みにじった。
入内初日の夜、レオンハルトはリリィの暮らす『白百合宮』へと赴いた。
それだけなら誰も文句は言わなかった。
だが、翌日も、その翌日も、さらにその一週間後も、レオンハルトは毎夜、取り憑かれたように白百合宮へと通い詰め、リリィを異常なまでに溺愛し始めたのだ。
「陛下が、またしても白百合宮へ……? これで連続十四夜連続ですよ!? 過去にどのような寵妃であっても、これほどの異常な寵愛は例がございません!」
マルタが動揺を隠せない様子でエレナに報告する。
後宮全体が、この異常事態に激震を隠せなかった。
あの冷徹で、法律を執行するためだけの機械のようだった国王レオンハルトが、一人の若い側室に完全に骨抜きにされている。
白百合宮の周囲からは、毎夜、異国の妖しく甘い香香が漂い、王は政務の時間すら削ってリリィの側に侍っているという噂まで流れ始めた。
この事態が意味する恐怖を、エレナは誰よりも理解していた。
クインテラ王国の法律において、まだ子どもを産んでいない側室が王の絶大な寵愛を受けること。
それは、新たな「世継ぎ」が誕生する可能性が、爆発的に高まっていることを意味する。
もし、あの可憐な顔の裏に深い闇を隠したリリィが、レオンハルトとの間に「男の子」を産んでしまったら――。
『正妻の子が娘の場合、世継ぎは【最年長側室の子】とする』という法律の解釈は、あくまで「他に適切な男児の王位継承者がいない場合」という前提に成り立つ。もし、新たな側室から純粋な王家の男児が生まれれば、大貴族たちはこぞって平民の血を引くアルフレッドを廃嫡し、その新しい御子を担ぎ上げるだろう。
昨日まで優位に立っていたエレナたちの立場は、リリィというたった一人の少女の存在によって、再び崩壊の危機に瀕していた。
「エレナ、あいつはただの小娘じゃない」
深夜、翡翠宮の裏部屋に忍び込んできたブリジェットが、苦渋に満ちた表情で言った。
「私の部下に白百合宮の様子を探らせたんだが、驚いたよ。王宮の最高峰の護衛兵たちですら、リリィの部屋の周囲に近づくことすら許されない。王の直属の隠密が、鉄壁の布陣で彼女を守っている。ヴェロニカの派閥が仕掛けようとした嫌がらせも、実行に移される前に、関わった者が全員、秘密裏に王宮から『消されて』いるんだ」
「陛下が、そこまでして彼女を守っている……」
エレナは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
レオンハルトは、アルフレッドが暗殺されかけた時でさえ「息子を死なせるな」と冷たく突き放すだけだった。
それなのに、なぜリリィに対してだけは、これほどまでに盲目的で、過保護なまでの行動をとるのか。
エレナは窓を開け、夜の闇の向こうにたたずむ、妖しい光を放つ白百合宮を見つめた。
風に乗って、あの甘い、脳を麻痺させるような異国の香りが、翡翠宮にまで届いているような気がした。
「リリィ……あなたの一体何が、陛下をそこまで狂わせるの?」
その時、白百合宮の最上階の窓から、一人の人影がこちらを見下ろしているのが見えた。
遠目であっても分かる、あの純白の髪。
リリィは、暗闇の中で、じっとエレナの暮らす翡翠宮を見つめていた。
その表情は窺い知れなかったが、エレナには分かった。
あの少女は、楽しんでいるのだ。
この後宮のすべての人間が、自分の存在に怯え、狂っていく様を。
正妻派との泥沼の戦いを制し、ようやく掴みかけた平穏。
しかし、それらはすべて、この「第六の爆弾」によって、より凄惨で、より巨大な国家規模の陰謀劇へと巻き込まれていく序曲に過ぎなかった。
エレナはベッドで無邪気に眠るアルフレッドの手を、溢れんばかりの力で握りしめた。
「負けない……。どんな化け物が相手でも、私は絶対に、あなたを渡さない」
覚醒した魔女エレナの前に、今、真の絶望と狂気を孕んだ「天使の皮を剥いだ悪魔」が立ちはだかろうとしていた。
物語は、誰も予測できない混沌へと、深く突き進んでいく。
中庭や廊下には、ブリジェットの実家である騎士家系から出向してきた、厳ついながらも忠誠心の高い近衛兵たちが配備され、不審な影を一切寄せ付けなくなった。
食事の調達ルートも完全に掌握し、ヴェロニカや正妻オーレリアの派閥が送り込んでくる毒物の芽は、すべて未然に摘み取られるようになった。
「エレナ様、近頃はヴェロニカ様も、お茶会でこちらを睨みつけるばかりで、具体的な手出しをしてこなくなりましたね。ブリジェット様の存在が、相当な抑止力になっているようです」
マルタが安堵の表情で、アルフレッドのために新しく仕立てた衣服を畳みながら言う。
「ええ。力ずくで私たちを排除できないと悟って、今は雌伏の時を過ごしているのでしょう。でも、油断は禁物よ。正妻オーレリア様の実家である公爵家が、このまま黙っているはずがないもの」
エレナは、机の上に広げた後宮の勢力図を見つめながら、思考を巡らせていた。
現在の状況は、
・正妻オーレリア(黄金宮)&第二側室ヴェロニカ(白銀宮):正妻派(大貴族連合)
・第一側室エレナ(翡翠宮)&第五側室ブリジェット(黒曜宮):世継ぎ防衛派
・第三側室カタリナ(紫水晶宮):静観派(常に読書をしており、派閥争いには無関心)
・第四側室フィオナ(琥珀宮):日和見派(勝った方に味方する主義)
という三つ巴、あるいは四つ巴の膠着状態にあった。
エレナ派が盛り返したことで、後宮内には一時の奇妙な安定がもたらされていた。
しかし、クインテラ王国の歪んだ法律――『五妻一子の法』がもたらす「最後のバグ」が、突如としてその安定を粉々に打ち砕くことになる。
「全夫人へ通達いたします! 本日、国王陛下のご意向により、新たな側室が入内あそばされます。皆様、直ちに中央広場へ集まり、お出迎えの準備を整えてください!」
王宮の官吏による大声の布告が、静かな後宮に響き渡った。
「新しい側室……!? そんな馬鹿な!」
翡翠宮の談話室で、お茶を飲んでいたブリジェットが、思わず机を叩いて立ち上がった。
「法律では『五人以上の妻を持つこと』とされているが、すでに正妻を含めて私たちは六人(正妻+側室五人)いるんだぞ! これ以上、妻を増やしてどうするつもりだ!?」
エレナもまた、押し寄せる不穏な予感に胸を締め付けられていた。
「法律の条文には『五人以上』としか書かれていません。つまり、上限はないのです……。まだ子どもを産んでいない、若い女性を新しく入れることで、王位継承のバランスを揺るがそうという、誰かの意図を感じます」
重苦しい空気の中、エレナたちは中央広場へと向かった。
広場にはすでに、正妻オーレリアの代理として出席したヴェロニカや、第四側室のフィオナらが集まっており、誰もが不機嫌さと戸惑いを隠せない表情で待機していた。
やがて、王宮の巨大な鉄製の城門が、重々しい音を立てて開いた。
入ってきたのは、これまでに見たこともないほど豪奢で、異国の装飾が施された白塗りの馬車だった。
馬車の扉が静かに開く。
現れたのは、一人の少女だった。
「……あっ」
フィオナが思わず小さな声を漏らす。
そこにいたのは、まだ十四、五歳ほどに見える、信じられないほど可憐であどけない少女だった。
絹糸のように細く柔らかな純白の髪が、微風に揺れている。
その肌は雪のように白く、大きな瞳は、まるで見たこともないほど澄んだ、美しいサファイアのようだった。
身に纏う薄桃色のドレスは彼女の華奢な体型を強調しており、ドロドロとした陰謀が渦巻く後宮には、およそ不釣り合いな「純真無垢な天使」そのものの姿だった。
少女は集まった側室たちの視線に怯えるように、ペコリと深く頭を下げた。その体は小刻みに震えている。
「あ、あの……新しく入内いたしました……リ、リリィと申します……。皆様、至らない点ばかりですが……どうぞ、よろしくお願いいたします……っ」
消え入りそうな、今にも泣き出しそうな声。
そのあまりの弱々しさに、張り詰めていたヴェロニカたちの緊張が、一気に弛緩していくのが分かった。
「ふん、なーんだ。ただの田舎の大貴族が、王の寵愛を狙って送り込んできたおどおどした小娘じゃない。あんなガキ、脅せばすぐに泣き出して部屋に引きこもるわよ」
ヴェロニカは扇で口元を隠しながら、小声でせせら笑った。
フィオナも「手強い敵かと思いましたが、拍子抜けですね」と退屈そうに髪を弄っている。
だが、エレナだけは、その少女――リリィから目を離すことができなかった。
(おかしい……。本当に怯えているだけなら、なぜあんなに足元が安定しているの? それに……)
リリィが頭を上げ、周囲の側室たちを一人ずつ見渡していく。その視線が、まっすぐにエレナを捉えた。
その刹那。
リリィの澄んだサファイアの瞳の奥で、何かが歪んだ。
怯えた少女の仮面の裏側に、底の知れない、ゾッとするほど冷酷で、一切の感情を排した「奈落のような闇」が、一瞬だけ、確かに見えたのだ。
リリィはすぐにまた、おどおどとした表情に戻って視線を外したが、エレナの背筋には凍りつくような戦慄が走った。
(あの娘……危険よ。ヴェロニカ様たちのような、目先の権力に目が眩んだ貴族の令嬢とは、根底にある『質』が違う……!)
そして、この「第六の側室リリィ」の入内は、その日の夜から、後宮の生態系を根本から狂わせることになる。
通常、新しい側室が入内した場合、最初の夜は王がその宮を訪れるのが慣わしだが、その後は既存の妻たちの間を順番に回るのが、後宮のパワーバランスを保つための暗黙のルールだった。
しかし、国王レオンハルトはそのルールを、完膚なきまでに踏みにじった。
入内初日の夜、レオンハルトはリリィの暮らす『白百合宮』へと赴いた。
それだけなら誰も文句は言わなかった。
だが、翌日も、その翌日も、さらにその一週間後も、レオンハルトは毎夜、取り憑かれたように白百合宮へと通い詰め、リリィを異常なまでに溺愛し始めたのだ。
「陛下が、またしても白百合宮へ……? これで連続十四夜連続ですよ!? 過去にどのような寵妃であっても、これほどの異常な寵愛は例がございません!」
マルタが動揺を隠せない様子でエレナに報告する。
後宮全体が、この異常事態に激震を隠せなかった。
あの冷徹で、法律を執行するためだけの機械のようだった国王レオンハルトが、一人の若い側室に完全に骨抜きにされている。
白百合宮の周囲からは、毎夜、異国の妖しく甘い香香が漂い、王は政務の時間すら削ってリリィの側に侍っているという噂まで流れ始めた。
この事態が意味する恐怖を、エレナは誰よりも理解していた。
クインテラ王国の法律において、まだ子どもを産んでいない側室が王の絶大な寵愛を受けること。
それは、新たな「世継ぎ」が誕生する可能性が、爆発的に高まっていることを意味する。
もし、あの可憐な顔の裏に深い闇を隠したリリィが、レオンハルトとの間に「男の子」を産んでしまったら――。
『正妻の子が娘の場合、世継ぎは【最年長側室の子】とする』という法律の解釈は、あくまで「他に適切な男児の王位継承者がいない場合」という前提に成り立つ。もし、新たな側室から純粋な王家の男児が生まれれば、大貴族たちはこぞって平民の血を引くアルフレッドを廃嫡し、その新しい御子を担ぎ上げるだろう。
昨日まで優位に立っていたエレナたちの立場は、リリィというたった一人の少女の存在によって、再び崩壊の危機に瀕していた。
「エレナ、あいつはただの小娘じゃない」
深夜、翡翠宮の裏部屋に忍び込んできたブリジェットが、苦渋に満ちた表情で言った。
「私の部下に白百合宮の様子を探らせたんだが、驚いたよ。王宮の最高峰の護衛兵たちですら、リリィの部屋の周囲に近づくことすら許されない。王の直属の隠密が、鉄壁の布陣で彼女を守っている。ヴェロニカの派閥が仕掛けようとした嫌がらせも、実行に移される前に、関わった者が全員、秘密裏に王宮から『消されて』いるんだ」
「陛下が、そこまでして彼女を守っている……」
エレナは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
レオンハルトは、アルフレッドが暗殺されかけた時でさえ「息子を死なせるな」と冷たく突き放すだけだった。
それなのに、なぜリリィに対してだけは、これほどまでに盲目的で、過保護なまでの行動をとるのか。
エレナは窓を開け、夜の闇の向こうにたたずむ、妖しい光を放つ白百合宮を見つめた。
風に乗って、あの甘い、脳を麻痺させるような異国の香りが、翡翠宮にまで届いているような気がした。
「リリィ……あなたの一体何が、陛下をそこまで狂わせるの?」
その時、白百合宮の最上階の窓から、一人の人影がこちらを見下ろしているのが見えた。
遠目であっても分かる、あの純白の髪。
リリィは、暗闇の中で、じっとエレナの暮らす翡翠宮を見つめていた。
その表情は窺い知れなかったが、エレナには分かった。
あの少女は、楽しんでいるのだ。
この後宮のすべての人間が、自分の存在に怯え、狂っていく様を。
正妻派との泥沼の戦いを制し、ようやく掴みかけた平穏。
しかし、それらはすべて、この「第六の爆弾」によって、より凄惨で、より巨大な国家規模の陰謀劇へと巻き込まれていく序曲に過ぎなかった。
エレナはベッドで無邪気に眠るアルフレッドの手を、溢れんばかりの力で握りしめた。
「負けない……。どんな化け物が相手でも、私は絶対に、あなたを渡さない」
覚醒した魔女エレナの前に、今、真の絶望と狂気を孕んだ「天使の皮を剥いだ悪魔」が立ちはだかろうとしていた。
物語は、誰も予測できない混沌へと、深く突き進んでいく。



