大理石の東屋で繰り広げられたあのお茶会以降、後宮の空気は一変した。
「平民上がりの大人しい女」というエレナへの評価は完全に崩れ去り、今や彼女は「我が子のために牙を剥いた危険な母親」として、全側室からマークされる存在となっていた。
しかし、言葉でどれほど圧倒しようとも、エレナとアルフレッドが置かれた物理的な危険が減ったわけではない。
むしろ、面鼻を潰された第二側室ヴェロニカと、黄金宮の奥で怨嗟の炎を燃やす正妻オーレリアの焦燥感は、エレナの予想を遥かに超える速度で彼らの行動を過激化させていった。
「エレナ様、今月の予算申請ですが、またしても内膳司(ないぜんし)から差し戻されました。『書類に不備がある』との一点張りで……。これで翡翠宮へ配給される炭と良質な油の量が、通常の三分の一に減らされてしまいます。これでは、これからの季節、夜の寒さを凌ぐことすらままなりません」
老侍女のマルタが、ため息混じりに目の前の書類の束を整理しながら告げる。
「想定内よ、マルタ。表立って暗殺に失敗したのだから、今度は兵糧攻めというわけね。じわじわと私たちの生活を困窮させ、使用人たちを動揺させて、翡翠宮の内部から崩壊を狙っているのよ」
エレナは窓の外、冷たい風に揺れる中庭を見つめながら静かに答えた。
正妻派のやり方は陰湿極まりなかった。
食事に毒を盛るという直接的な手段が警戒されていると知るや否や、彼女たちは王宮の官僚組織――その多くがオーレリアの実家である公爵家や、ヴェロニカの生家に連なる貴族たちで占められている――を動かし、翡翠宮への締め付けを強めてきたのだ。
さらに深刻なのは、人の心の離反だった。
「平民の子が次期国王になるなど、あってはならない」「いずれ正妻派に粛清されるに決まっている」という噂が後宮中に流布された結果、翡翠宮に仕えていた若い侍女や下男たちが、一人、また一人と体調不良や実家の都合を理由に辞職を申し出ていた。
「残ったのは、私と、あなたの実家からついてきた数人の忠実な者だけ……。エレナ様、本当に誰も信じられません。昨夜も、廊下を歩いていたら、聞き慣れない足音が聞こえたような気がして……」
マルタの手が小刻みに震えている。
「大丈夫よ、マルタ。私が見ているわ。アルの側には、一瞬たりとも誰も近づけさせない」
エレナの言葉は力強かったが、その目の下には濃い隈が刻まれていた。
ここ数週間、エレナはまともな睡眠をとっていなかった。
昼間はアルフレッドの教育と、運ばれてくるわずかな食材の徹底的な毒見に追われ、夜はアルフレッドのベッドのすぐ傍らに椅子を置き、小さな明かりだけを頼りに、夜通し見張りを続けているのだ。
「お母様……起きてるの?」
夜中、ふと目を覚ました五歳のアルフレッドが、眠たげな目を擦りながらベッドの中から声をかけてくる。
「ええ、アル。お母様はここにいるわ。何も心配いらないから、良い夢を見てね」
エレナは努めて優しい笑顔を作り、息子の柔らかな額を撫でた。
アルフレッドはその温もりに安心したように、すぐにまた健やかな寝息を立て始める。
その寝顔を見つめるたび、エレナの胸には冷酷な決意が満ちていく。
(この小さな命を、あんな醜い大人たちの権力闘争のために散らせてたまるものですか。私は、この子の盾になる。そのためなら、私の命など、いくらでも擦り切れて構わない)
だが、人間の肉体には限界がある。
その夜、時計の針が深夜の二時を回った頃、エレナの意識は猛烈な睡魔に襲われていた。
パチパチと音を立てて燃える蝋燭の炎が、視界の中で不自然に歪む。
(だめよ……目を閉じてはだめ……。私が眠ったら、誰がアルを……)
奥歯を噛み締め、痛気で無理やり意識を覚醒させようとした、その時だった。
カチャリ、と極めて微かな、しかし静まり返った深夜の寝室には不釣り合いな金属音が響いた。
翡翠宮の裏手にある、普段は使われていないバルコニーの窓。
その鍵が、外側から細い針金のようなもので押し開けられる音がしたのだ。
エレナの全身の毛穴が一瞬にして逆立った。
睡魔など、一吹きで消し飛ぶ。
彼女は息を殺し、ベッドの陰に身を潜めた。
手元にあるのは、護身用にとドレスの奥に隠し持っていた、果物ナイフが一丁のみ。
ゆっくりと、窓が開けられる。
滑り込んできたのは、夜の闇に紛れるような黒い衣服を身に纏った、小柄な人影だった。
その顔は目元まで布で覆われており、手元には鈍い光を放つ細身の短剣が握られている。
(刺客……! 買収された侍女が、裏門の鍵を開けたのね……!)
後宮の衛兵すらも正妻派に買収されているのか、あるいは見回りの時間をずらされたのか。
いずれにせよ、今この部屋には、エレナと、何も知らずに眠るアルフレッド、そして目の前の暗殺者しかいない。
刺客は足音を一切立てず、まっすぐにアルフレッドのベッドへと近づいていく。
その短剣が、無防備な少年の胸元へと掲げられた。
「やめなさい!!」
エレナは叫ぶと同時に、ベッドの陰から飛び出し、刺客の腕へと体当たりを敢行した。
「なっ……!?」
刺客は驚愕の声を上げたが、そこは訓練されたプロだった。
すぐに体勢を立て直し、エレナの華奢な体を容赦なく蹴り飛ばす。
「うぐっ……!」
床に激しく打ち付けられ、エレナの手から果物ナイフが滑り落ちる。
「お母様……? ひっ、だれ……!?」
騒ぎに気づいたアルフレッドが目を覚まし、恐怖に顔を歪めて悲鳴を上げた。
「アル、逃げて! 外へ!!」
エレナは痛む体に鞭打ち、刺客の足に縋り付こうとした。
しかし、刺客は冷酷な目でエレナを見下ろし、短剣を彼女の喉元へと振り下ろす――。
(ここまでなの……? 私は、アルを守れずに……!)
エレナが絶望に目を閉じた、まさにその瞬間だった。
――ガシャァァァァン!!!
寝室の頑丈な木製の扉が、まるで紙細工のように激しく踏み破られ、木片が四方に飛び散った。
「何事だ!?」
刺客が驚愕して振り返る。
暗闇の向こうから現れたのは、巨大な、人の身の丈ほどもある大剣を軽々と片手で肩に担いだ、一人の女性だった。
寝間着代わりの薄い絹のガウンを羽織っただけの姿でありながら、その佇まいは戦場に君臨する死神そのもの。
第五側室、ブリジェットだった。
「夜中にネズミが一匹、随分とコソコソと動き回ってくれるじゃないか」
ブリジェットは蜂蜜色の瞳を不気味に光らせると、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「邪魔をするなっ!」
刺客はエレナを諦め、素早い動きでブリジェットの懐へと飛び込み、短剣を突き出そうとする。
「遅いよ、鈍間」
ブリジェットはフッと鼻で笑うと、担いでいた大剣を、信じられない速度で水平に振り抜いた。
風を切り裂く轟音。大剣の「腹」の部分が、刺客の胴体を正確に捉える。
――ドゴォォォン!!
「がはっ……!?」
凄まじい衝撃音と共に、刺客の体は宙を舞い、寝室の壁に激しく激突してそのまま崩れ落ちた。
骨が砕ける嫌な音が響く。
刺客は一歩も動けなくなり、口から血を吐いてその場で気絶した。
信じられない光景を前に、エレナは床に座り込んだまま、呆然とブリジェットを見上げるしかなかった。
大剣を一振りしただけで、熟練の暗殺者を一撃で無力化してしまったのだ。
「ふぅ……。やっぱり後宮の支給品の大剣は、軽すぎて手応えがないね。実家から持ってきた愛剣なら、今のの一撃で真っ二つにできたんだが」
ブリジェットはつまらなそうに息を吐くと、大剣を床に突き立て、エレナの元へと歩み寄ってきた。
そして、床にへたり込むエレナに、無骨だが温かい手を差し伸べた。
「怪我はないかい、エレナ」
「あ……は、はい……。ブリジェット様、どうしてここに……?」
エレナはその手を借りて立ち上がりながら、困惑の声を上げた。
深夜の翡翠宮、それも他宮の側室が許可なく立ち入るなど、本来であれば大問題になるはずだ。
「言っただろう? 私は、お前のような度胸のある女が気に入ったんだ。お茶会でヴェロニカにあれだけ言い返す女が、まさか夜の警備を他人に丸投げしているはずがないと思ってね。翡翠宮の周りを見張らせていたら、案の定、正妻派の息がかかった衛兵が不自然に動いていた。だから、裏口からお邪魔したのさ」
ブリジェットはそう言って、怯えて泣いているアルフレッドに近づくと、その頭をガシガシと乱暴に、しかし優しく撫でた。
「おい、ちびっ子。怖い思いをさせたな。だが安心しな、このブリジェット様がいる限り、どんな奴が来ようが全員叩き斬ってやるからさ」
「……うん。お姉ちゃん、強いね……」
アルフレッドは涙を拭いながら、ブリジェットの圧倒的な強さに憧れを抱くような目を向けた。
エレナはその光景を見て、深く頭を下げた。
「ブリジェット様……本当に、ありがとうございました。もしあなたが来なければ、私たち親子は今頃……」
「礼なんていいさ。それより、エレナ」
ブリジェットは真剣な表情になり、気絶した刺客を見下ろした。
「これでハッキリしただろう。お前がどれだけ警戒しようが、敵は手段を選ばない。買収、暗殺、事故の偽装……これからさらに激化する。お前のその『知恵』と『覚悟』は本物だが、今の翡翠宮には、圧倒的な『武力』が足りない」
エレナは唇を噛み締めた。
その通りだった。自分とマルタだけでは、物理的な暴力に対抗する術がない。
「だからさ、提案がある」
ブリジェットはニカッと白い歯を見せて笑った。
「私と、同盟を結ばないかい?」
「同盟……ですか?」
「ああ。私の実家は代々、王家に仕える武闘派の騎士家系だ。だが、私の代で後宮に放り込まれ、毎日ドレスを着て、女同士のネチネチした陰口の言い合いに付き合わされている。ヘドが出るほど退屈してたんだよ。だけど、お前は違う。我が子を守るために、国中の貴族を敵に回す覚悟がある」
ブリジェットはエレナの目をまっすぐに見つめた。
「お前がその知恵で、この腐った後宮の頂点に立つというなら、私はお前の『盾』であり『剣』になってやる。私の息がかかった信頼できる近衛兵を、明日から翡翠宮の警備に就かせよう。飯の仕入れルートも、私の実家の商会経由に切り替えさせる。そうすれば、毒物の混入も防げる」
これ以上ない、破格の提案だった。
孤立無援、四面楚歌の状況で、喉から手が出るほど欲しかった「頼れる味方」。
それも、後宮最強の武力を持つ第五側室からの申し出だ。
エレナに迷いはなかった。彼女はブリジェットの目を真っ直ぐに見返し、深く、静かに頷いた。
「喜んで、その同盟をお受けいたします、ブリジェット様。私の知恵のすべてを賭けて、あなたを二度と退屈させないと誓いましょう。そして……私たちの手で、この後宮のルールを書き換えるのです」
「ハハッ! いいね、最高だ!」
ブリジェットは嬉しそうにエレナの肩を叩いた。
この深夜の襲撃事件は、表向きには「気の狂った下男の暴走」として片付けられたが、後宮の裏社会における権力バランスは決定的に変化した。
エレナの防衛網は、ブリジェットという強力な盾を得て、難攻不落の要塞へと進化を始めたのである。
「平民上がりの大人しい女」というエレナへの評価は完全に崩れ去り、今や彼女は「我が子のために牙を剥いた危険な母親」として、全側室からマークされる存在となっていた。
しかし、言葉でどれほど圧倒しようとも、エレナとアルフレッドが置かれた物理的な危険が減ったわけではない。
むしろ、面鼻を潰された第二側室ヴェロニカと、黄金宮の奥で怨嗟の炎を燃やす正妻オーレリアの焦燥感は、エレナの予想を遥かに超える速度で彼らの行動を過激化させていった。
「エレナ様、今月の予算申請ですが、またしても内膳司(ないぜんし)から差し戻されました。『書類に不備がある』との一点張りで……。これで翡翠宮へ配給される炭と良質な油の量が、通常の三分の一に減らされてしまいます。これでは、これからの季節、夜の寒さを凌ぐことすらままなりません」
老侍女のマルタが、ため息混じりに目の前の書類の束を整理しながら告げる。
「想定内よ、マルタ。表立って暗殺に失敗したのだから、今度は兵糧攻めというわけね。じわじわと私たちの生活を困窮させ、使用人たちを動揺させて、翡翠宮の内部から崩壊を狙っているのよ」
エレナは窓の外、冷たい風に揺れる中庭を見つめながら静かに答えた。
正妻派のやり方は陰湿極まりなかった。
食事に毒を盛るという直接的な手段が警戒されていると知るや否や、彼女たちは王宮の官僚組織――その多くがオーレリアの実家である公爵家や、ヴェロニカの生家に連なる貴族たちで占められている――を動かし、翡翠宮への締め付けを強めてきたのだ。
さらに深刻なのは、人の心の離反だった。
「平民の子が次期国王になるなど、あってはならない」「いずれ正妻派に粛清されるに決まっている」という噂が後宮中に流布された結果、翡翠宮に仕えていた若い侍女や下男たちが、一人、また一人と体調不良や実家の都合を理由に辞職を申し出ていた。
「残ったのは、私と、あなたの実家からついてきた数人の忠実な者だけ……。エレナ様、本当に誰も信じられません。昨夜も、廊下を歩いていたら、聞き慣れない足音が聞こえたような気がして……」
マルタの手が小刻みに震えている。
「大丈夫よ、マルタ。私が見ているわ。アルの側には、一瞬たりとも誰も近づけさせない」
エレナの言葉は力強かったが、その目の下には濃い隈が刻まれていた。
ここ数週間、エレナはまともな睡眠をとっていなかった。
昼間はアルフレッドの教育と、運ばれてくるわずかな食材の徹底的な毒見に追われ、夜はアルフレッドのベッドのすぐ傍らに椅子を置き、小さな明かりだけを頼りに、夜通し見張りを続けているのだ。
「お母様……起きてるの?」
夜中、ふと目を覚ました五歳のアルフレッドが、眠たげな目を擦りながらベッドの中から声をかけてくる。
「ええ、アル。お母様はここにいるわ。何も心配いらないから、良い夢を見てね」
エレナは努めて優しい笑顔を作り、息子の柔らかな額を撫でた。
アルフレッドはその温もりに安心したように、すぐにまた健やかな寝息を立て始める。
その寝顔を見つめるたび、エレナの胸には冷酷な決意が満ちていく。
(この小さな命を、あんな醜い大人たちの権力闘争のために散らせてたまるものですか。私は、この子の盾になる。そのためなら、私の命など、いくらでも擦り切れて構わない)
だが、人間の肉体には限界がある。
その夜、時計の針が深夜の二時を回った頃、エレナの意識は猛烈な睡魔に襲われていた。
パチパチと音を立てて燃える蝋燭の炎が、視界の中で不自然に歪む。
(だめよ……目を閉じてはだめ……。私が眠ったら、誰がアルを……)
奥歯を噛み締め、痛気で無理やり意識を覚醒させようとした、その時だった。
カチャリ、と極めて微かな、しかし静まり返った深夜の寝室には不釣り合いな金属音が響いた。
翡翠宮の裏手にある、普段は使われていないバルコニーの窓。
その鍵が、外側から細い針金のようなもので押し開けられる音がしたのだ。
エレナの全身の毛穴が一瞬にして逆立った。
睡魔など、一吹きで消し飛ぶ。
彼女は息を殺し、ベッドの陰に身を潜めた。
手元にあるのは、護身用にとドレスの奥に隠し持っていた、果物ナイフが一丁のみ。
ゆっくりと、窓が開けられる。
滑り込んできたのは、夜の闇に紛れるような黒い衣服を身に纏った、小柄な人影だった。
その顔は目元まで布で覆われており、手元には鈍い光を放つ細身の短剣が握られている。
(刺客……! 買収された侍女が、裏門の鍵を開けたのね……!)
後宮の衛兵すらも正妻派に買収されているのか、あるいは見回りの時間をずらされたのか。
いずれにせよ、今この部屋には、エレナと、何も知らずに眠るアルフレッド、そして目の前の暗殺者しかいない。
刺客は足音を一切立てず、まっすぐにアルフレッドのベッドへと近づいていく。
その短剣が、無防備な少年の胸元へと掲げられた。
「やめなさい!!」
エレナは叫ぶと同時に、ベッドの陰から飛び出し、刺客の腕へと体当たりを敢行した。
「なっ……!?」
刺客は驚愕の声を上げたが、そこは訓練されたプロだった。
すぐに体勢を立て直し、エレナの華奢な体を容赦なく蹴り飛ばす。
「うぐっ……!」
床に激しく打ち付けられ、エレナの手から果物ナイフが滑り落ちる。
「お母様……? ひっ、だれ……!?」
騒ぎに気づいたアルフレッドが目を覚まし、恐怖に顔を歪めて悲鳴を上げた。
「アル、逃げて! 外へ!!」
エレナは痛む体に鞭打ち、刺客の足に縋り付こうとした。
しかし、刺客は冷酷な目でエレナを見下ろし、短剣を彼女の喉元へと振り下ろす――。
(ここまでなの……? 私は、アルを守れずに……!)
エレナが絶望に目を閉じた、まさにその瞬間だった。
――ガシャァァァァン!!!
寝室の頑丈な木製の扉が、まるで紙細工のように激しく踏み破られ、木片が四方に飛び散った。
「何事だ!?」
刺客が驚愕して振り返る。
暗闇の向こうから現れたのは、巨大な、人の身の丈ほどもある大剣を軽々と片手で肩に担いだ、一人の女性だった。
寝間着代わりの薄い絹のガウンを羽織っただけの姿でありながら、その佇まいは戦場に君臨する死神そのもの。
第五側室、ブリジェットだった。
「夜中にネズミが一匹、随分とコソコソと動き回ってくれるじゃないか」
ブリジェットは蜂蜜色の瞳を不気味に光らせると、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「邪魔をするなっ!」
刺客はエレナを諦め、素早い動きでブリジェットの懐へと飛び込み、短剣を突き出そうとする。
「遅いよ、鈍間」
ブリジェットはフッと鼻で笑うと、担いでいた大剣を、信じられない速度で水平に振り抜いた。
風を切り裂く轟音。大剣の「腹」の部分が、刺客の胴体を正確に捉える。
――ドゴォォォン!!
「がはっ……!?」
凄まじい衝撃音と共に、刺客の体は宙を舞い、寝室の壁に激しく激突してそのまま崩れ落ちた。
骨が砕ける嫌な音が響く。
刺客は一歩も動けなくなり、口から血を吐いてその場で気絶した。
信じられない光景を前に、エレナは床に座り込んだまま、呆然とブリジェットを見上げるしかなかった。
大剣を一振りしただけで、熟練の暗殺者を一撃で無力化してしまったのだ。
「ふぅ……。やっぱり後宮の支給品の大剣は、軽すぎて手応えがないね。実家から持ってきた愛剣なら、今のの一撃で真っ二つにできたんだが」
ブリジェットはつまらなそうに息を吐くと、大剣を床に突き立て、エレナの元へと歩み寄ってきた。
そして、床にへたり込むエレナに、無骨だが温かい手を差し伸べた。
「怪我はないかい、エレナ」
「あ……は、はい……。ブリジェット様、どうしてここに……?」
エレナはその手を借りて立ち上がりながら、困惑の声を上げた。
深夜の翡翠宮、それも他宮の側室が許可なく立ち入るなど、本来であれば大問題になるはずだ。
「言っただろう? 私は、お前のような度胸のある女が気に入ったんだ。お茶会でヴェロニカにあれだけ言い返す女が、まさか夜の警備を他人に丸投げしているはずがないと思ってね。翡翠宮の周りを見張らせていたら、案の定、正妻派の息がかかった衛兵が不自然に動いていた。だから、裏口からお邪魔したのさ」
ブリジェットはそう言って、怯えて泣いているアルフレッドに近づくと、その頭をガシガシと乱暴に、しかし優しく撫でた。
「おい、ちびっ子。怖い思いをさせたな。だが安心しな、このブリジェット様がいる限り、どんな奴が来ようが全員叩き斬ってやるからさ」
「……うん。お姉ちゃん、強いね……」
アルフレッドは涙を拭いながら、ブリジェットの圧倒的な強さに憧れを抱くような目を向けた。
エレナはその光景を見て、深く頭を下げた。
「ブリジェット様……本当に、ありがとうございました。もしあなたが来なければ、私たち親子は今頃……」
「礼なんていいさ。それより、エレナ」
ブリジェットは真剣な表情になり、気絶した刺客を見下ろした。
「これでハッキリしただろう。お前がどれだけ警戒しようが、敵は手段を選ばない。買収、暗殺、事故の偽装……これからさらに激化する。お前のその『知恵』と『覚悟』は本物だが、今の翡翠宮には、圧倒的な『武力』が足りない」
エレナは唇を噛み締めた。
その通りだった。自分とマルタだけでは、物理的な暴力に対抗する術がない。
「だからさ、提案がある」
ブリジェットはニカッと白い歯を見せて笑った。
「私と、同盟を結ばないかい?」
「同盟……ですか?」
「ああ。私の実家は代々、王家に仕える武闘派の騎士家系だ。だが、私の代で後宮に放り込まれ、毎日ドレスを着て、女同士のネチネチした陰口の言い合いに付き合わされている。ヘドが出るほど退屈してたんだよ。だけど、お前は違う。我が子を守るために、国中の貴族を敵に回す覚悟がある」
ブリジェットはエレナの目をまっすぐに見つめた。
「お前がその知恵で、この腐った後宮の頂点に立つというなら、私はお前の『盾』であり『剣』になってやる。私の息がかかった信頼できる近衛兵を、明日から翡翠宮の警備に就かせよう。飯の仕入れルートも、私の実家の商会経由に切り替えさせる。そうすれば、毒物の混入も防げる」
これ以上ない、破格の提案だった。
孤立無援、四面楚歌の状況で、喉から手が出るほど欲しかった「頼れる味方」。
それも、後宮最強の武力を持つ第五側室からの申し出だ。
エレナに迷いはなかった。彼女はブリジェットの目を真っ直ぐに見返し、深く、静かに頷いた。
「喜んで、その同盟をお受けいたします、ブリジェット様。私の知恵のすべてを賭けて、あなたを二度と退屈させないと誓いましょう。そして……私たちの手で、この後宮のルールを書き換えるのです」
「ハハッ! いいね、最高だ!」
ブリジェットは嬉しそうにエレナの肩を叩いた。
この深夜の襲撃事件は、表向きには「気の狂った下男の暴走」として片付けられたが、後宮の裏社会における権力バランスは決定的に変化した。
エレナの防衛網は、ブリジェットという強力な盾を得て、難攻不落の要塞へと進化を始めたのである。



