正妻オーレリアの失脚によって訪れた偽りの静寂の中、第三側室カタリナは一人、夜の闇に同化していた。
彼女はもともと、華やかな後宮で目立つ存在ではなかった。
他の側室たちが美を競い、国王レオンハルトの寵愛を求めてしのぎを削る中、カタリナは常に一歩引いた場所で、静かに本を読んでいるような女性だった。
しかし、その正体はクインテラ王国のあらゆる闇に耳目を張り巡らせる、最高峰の密偵組織を束ねる長である。
カタリナが今、もっとも警戒しているのは、正妻派を失ってなお、その不気味な存在感を増し続けている第六側室・リリィだった。
リリィの宮から漂う、あの果実が腐りかけたような、甘く脳を麻痺させる独特の香気。
あれは単なる香水ではない。
かつてクインテラ王国が婚姻政策によって侵略し、滅ぼしたとされる東方の隣国に伝わる、精神を惑わす秘薬の成分が含まれていることを、カタリナの特殊な嗅覚は見抜いていた。
「あの娘はただの寵妃ではない。我が国を内側から食い破るための、猛毒の種だ」
カタリナは薄暗い自室で、男装に近い機能的な黒い夜着に身を包みながら、自らの得物である細身の短剣の刃を確かめていた。
すでに彼女の放った優秀な草(間諜)たちが、リリィの背後にある「隣国の工作員ネットワーク」の尻尾を掴みかけていた。
その本拠地は、あろうことかこの広大な王宮の地下に張り巡らされた、千年以上前の旧時代の遺構の奥深くにあるという。
後宮の侍女たちを買収し、薬物を密輸し、王の寝所にまで手を伸ばす巨大なスパイ網。
それを根絶やしにしなければ、遠からずエレナの息子アルフレッドの命だけでなく、この国そのものが崩壊する。
ブリジェットが負傷で動けない今、動けるのは自分しかいない。
カタリナは静かに息を吐くと、自らの指に、特殊な「燐光インク」が仕込まれた仕掛け指輪をはめた。
爪の先で小さな突起を押せば、目に見えない無色の液体が染み出し、特定の魔導灯の光を当てた時だけ青く浮かび上がるという、密偵専用の道具だった。
「エレナ……あなたとあの子を守ると決めたのだから、ここで立ち止まるわけにはいかないわね」
カタリナは窓から音もなく飛び降り、夜の帳へと消えた。
王宮の地下遺構は、冷たく湿った空気に満ちていた。
迷宮のように複雑に入り組んだ石造りの通路を、カタリナは足音一つ立てずに進んでいく。
壁のわずかな埃の擦れ跡、ネズミの死骸の不自然な移動、空気のわずかな流れの変化――それらすべてを脳内で地図へと変換しながら、彼女はリリィのネットワークの心臓部へと近づいていた。
やがて、通路の奥から微かな明かりと、複数の男たちの低い話し声が聞こえてきた。
カタリナは壁の窪みに身を潜め、呼吸を完全に止めて聞き耳を立てた。
話されている言葉は、クインテラ王国の公用語ではない。
独特の抑揚を持つ、あの滅ぼされた隣国の言語だった。
カタリナはその言語にも通じていた。
「……リリィ様の『懐妊』の偽装は順調だ。王宮の医師への買収も完璧に済んでいる」
「次の段階は、予定日に合わせて本物の男児を市井から密輸することだな」
「ああ、それと同時に国境の我が精鋭部隊が動く。内応する準備はできているか?」
「王宮の城門の鍵は、すでにこちらの息がかかった近衛が握っている。合図とともにすべてを開放する」
男たちの会話の内容は、カタリナの想像を遥かに超える恐ろしい国家転覆計画だった。
リリィの妊娠は完全に偽りであり、想像妊娠を引き起こす薬で周囲を欺き、その実、出産日に合わせて他人の赤ん坊をすり替えるつもりなのだ。
そしてその日こそが、隣国軍によるクーデターの決行日。
(ここまで計画が進んでいたなんて……すぐにエレナと王に伝えなければ!)
カタリナは極限の緊張感の中、静かに後退を開始した。
しかし、彼女がわずかに一歩を引いたその瞬間、冷たい、凍りつくような殺気が背後から立ち上った。
「あら、可愛いネズミさんが、こんなに深い穴の底まで迷い込んできてくれたのね」
鈴を転がすような、可憐で甘い声。
しかしその響きには、骨まで凍らせるような残虐な歓喜が混じっていた。
カタリナが反射的に振り返りながら短剣を抜くと、そこには松明の明かりを浴びた第六側室・リリィが立っていた。
いつものおどおどした、怯えるような少女の仮面は完全に剥ぎ取られていた。
その瞳は、暗闇の中で妖しく光る蛇のように冷酷で、底知れぬ野心と狂気に満ちていた。
「リリィ……!」
「驚いた? 第三側室のカタリナ様。あなたがただの本の虫ではないことは、最初から知っていたわ。だって、あなたの宮から放たれる『気配』だけが、他の頭の悪い女たちとは明らかに違っていたもの」
リリィが軽く指を鳴らすと、周囲の暗闇から、十数人の武装した工作員たちが音もなく現れ、カタリナを完全に包囲した。
「くっ……!」
カタリナは瞬時に状況を判断した。
正面突破は不可能。
しかし、ただで捕まるわけにはいかない。
彼女は短剣を構え、襲いかかってくる工作員たちの刃を紙一重でかわしながら、必死の抵抗を試みた。
鋭い金属音が地下遺構に響き渡る。カタリナの放った一撃が工作員の腕を切り裂いたが、多勢に無勢であり、怪我を負った腕でさらに二人の工作員に組み伏せられ、床に押しつけられた。
短剣がカタリナの手からこぼれ落ち、鈍い音を立てて転がる。
「さすがね、素晴らしい身のこなし。でも、ここまでよ」
リリィは冷ややかに見下ろし、カタリナの髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
その力は、少女のものとは思えないほど強かった。
「殺しなさい」とカタリナは低く言い放った。
「私が戻らなければ、エレナも王もすぐに異変に気づくわ」
「ふふ、殺す? とんでもない。あなたにはまだ利用価値があるわ。それに、簡単に死なせてあげるほど、私は優しくないの。この国の人間に、我が一族がどれほどの屈辱を味わわされたか、あなたにもじっくりと教えてあげる」
リリィの瞳の奥に、燃え盛るような、しかし絶対に消えない復讐の炎が見えた。
カタリナは拘束され、地下遺構のさらに深くにある、鉄格子のついた隠し牢へと引きずられていった。
工作員たちに乱暴に投げ込まれ、重い鉄の扉が閉まる。完全な暗闇が彼女を包み込んだ。
全身の打撲と切り傷が激しく痛んだが、カタリナの意識は明晰だった。
彼女は自分が長くは持たないかもしれないと悟っていた。
リリィの背後にある執念は、単なる権力欲ではなく、国を滅ぼされた者たちの呪いだ。
(エレナ……気づいて……)
カタリナは自由になる片手を必死に動かし、仕掛け指輪の突起を爪で強く押し込んだ。
指先から染み出す無色のインク。
彼女は暗闇の中、手探りで牢獄の濡れた石壁に、命の灯火を振り絞るようにして暗語を刻み始めた。
密偵の意地と、信じた友への想いだけが、彼女の指を動かしていた。
文字を刻み終えると同時に、カタリナの意識は深い疲労と痛みのせいで、闇の中へと沈んでいった。
翌朝。後宮はカタリナの突然の「失踪」に揺れていた。
第一側室であり正妻代行となったエレナの元に、カタリナの筆頭侍女が青ざめた顔で駆け込んできたのだ。
「エレナ様! カタリナ様が……カタリナ様が昨晩からお戻りになりません! お部屋の調度品には荒らされた形跡はありませんが、お気に入りの上着と、いつも身につけていらっしゃる短剣がなくなっているのです!」
エレナは手にした書類を落としそうになった。
胸騒ぎが確信に変わる。カタリナが単なる気まぐれで姿を消すはずがない。
彼女はリリィの調査に向かい、そして何らかの罠に落ちたのだ。
「落ち着いて。カタリナの部屋の捜索は私が見るわ。他の者には、カタリナは体調を崩して静養していると伝えなさい。決して騒ぎを起こしてはならないわ」
エレナは自らカタリナの宮へと向かった。
部屋の中は一見すると完全に整理されていたが、エレナはカタリナが以前、
「もし私に万が一のことがあれば、この光を使いなさい」
と手渡してくれた、特殊な魔導灯(青い光を放つ石)を懐から取り出した。
部屋の灯りをすべて消し、薄暗い中でその魔導灯の光を床や壁に当てていく。
すると、寝台の脇の床に、うっすらと青く光る矢印の跡が浮かび上がった。
「これは……地下へ続いているのね」
エレナはマルタに数人の信頼できる近衛兵を密かに手配するよう命じ、自らその光の軌跡を追って、王宮の地下遺構へと足を踏み入れた。
地下の空気は冷たく、湿気に満ちていた。
魔導灯の青い光だけを頼りに、エレナは暗い通路を進んでいく。
壁に残されたわずかな擦れ跡や、カタリナが意図的に残したであろう小さな印を辿り、ついに彼女は工作員たちの密会場所であった広間へと辿り着いた。
そこには激しい戦闘の痕跡があり、床には血痕が残されていた。
「カタリナ……!」
エレナの心臓が早鐘を打つ。
血痕はさらに奥の狭い通路へと続いていた。
近衛兵たちに周囲を警戒させながら、エレナは最奥の隠し牢へと行き着いた。
重い鉄扉は固く閉ざされていたが、その扉の横の石壁に、魔導灯の光を当てた瞬間、エレナは息を呑んだ。
そこには、殴り書きのような、しかし整然としたカタリナの暗号文字が青々と浮かび上がっていた。
密偵組織の長であるカタリナが、エレナにだけ解読できるように教えていた特殊な暗号。
エレナは必死に頭を回転させ、その文字を心の中で読み解いていった。
『リリィの真の正体は、我が国が過去に滅ぼした隣国の王女の生き残り。彼女の目的は権力ではなく、クインテラ王国そのものを地獄に叩き落とす復讐。リリィの瞳の奥にあるのは、滅びた国の呪いだ』
「そんな……リリィが、亡国の王女……!?」
エレナの脳裏に、あの可憐で、おどおどとした少女の姿が浮かぶ。
それがすべて、自分たちを油断させ、国を内側から滅ぼすための完璧な「擬態」だったのだ。
彼女の背後にあるのは、正妻オーレリアのような私利私欲の野心ではない。
国を奪われ、家族を殺された者たちの、決して消えることのない「絶対的な怨嗟」だ。
鉄格子の奥からは何の音も聞こえない。
カタリナがこの奥に囚われているのは間違いなかったが、扉は外側から魔法の錠で固く閉ざされており、容易には開けられそうになかった。
「エレナ様、いかがいたしましたか?」
近衛兵が心配そうに声をかける。
エレナは震える手で魔導灯を握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
恐怖で足がすくみそうだったが、彼女の心の中で、平民の母親としての強固な意志がそれをねじ伏せた。
「リリィ……あなたは悲しい過去を背負っているのかもしれない。でも、その復讐のために私のアルフレッドを、この国を巻き込むというのなら……私はあなたを、絶対に許さない」
エレナはカタリナが囚われている扉を見つめ、必ず助け出すと心に誓いながら、まずはこの戦慄すべき真実を武器に変えるため、地上へと引き返していった。
新・後宮のリーダーとなったエレナと、亡国の王女リリィとの、国そのものを賭けた本当の死闘の幕が、ついに切って落とされたのだった。
彼女はもともと、華やかな後宮で目立つ存在ではなかった。
他の側室たちが美を競い、国王レオンハルトの寵愛を求めてしのぎを削る中、カタリナは常に一歩引いた場所で、静かに本を読んでいるような女性だった。
しかし、その正体はクインテラ王国のあらゆる闇に耳目を張り巡らせる、最高峰の密偵組織を束ねる長である。
カタリナが今、もっとも警戒しているのは、正妻派を失ってなお、その不気味な存在感を増し続けている第六側室・リリィだった。
リリィの宮から漂う、あの果実が腐りかけたような、甘く脳を麻痺させる独特の香気。
あれは単なる香水ではない。
かつてクインテラ王国が婚姻政策によって侵略し、滅ぼしたとされる東方の隣国に伝わる、精神を惑わす秘薬の成分が含まれていることを、カタリナの特殊な嗅覚は見抜いていた。
「あの娘はただの寵妃ではない。我が国を内側から食い破るための、猛毒の種だ」
カタリナは薄暗い自室で、男装に近い機能的な黒い夜着に身を包みながら、自らの得物である細身の短剣の刃を確かめていた。
すでに彼女の放った優秀な草(間諜)たちが、リリィの背後にある「隣国の工作員ネットワーク」の尻尾を掴みかけていた。
その本拠地は、あろうことかこの広大な王宮の地下に張り巡らされた、千年以上前の旧時代の遺構の奥深くにあるという。
後宮の侍女たちを買収し、薬物を密輸し、王の寝所にまで手を伸ばす巨大なスパイ網。
それを根絶やしにしなければ、遠からずエレナの息子アルフレッドの命だけでなく、この国そのものが崩壊する。
ブリジェットが負傷で動けない今、動けるのは自分しかいない。
カタリナは静かに息を吐くと、自らの指に、特殊な「燐光インク」が仕込まれた仕掛け指輪をはめた。
爪の先で小さな突起を押せば、目に見えない無色の液体が染み出し、特定の魔導灯の光を当てた時だけ青く浮かび上がるという、密偵専用の道具だった。
「エレナ……あなたとあの子を守ると決めたのだから、ここで立ち止まるわけにはいかないわね」
カタリナは窓から音もなく飛び降り、夜の帳へと消えた。
王宮の地下遺構は、冷たく湿った空気に満ちていた。
迷宮のように複雑に入り組んだ石造りの通路を、カタリナは足音一つ立てずに進んでいく。
壁のわずかな埃の擦れ跡、ネズミの死骸の不自然な移動、空気のわずかな流れの変化――それらすべてを脳内で地図へと変換しながら、彼女はリリィのネットワークの心臓部へと近づいていた。
やがて、通路の奥から微かな明かりと、複数の男たちの低い話し声が聞こえてきた。
カタリナは壁の窪みに身を潜め、呼吸を完全に止めて聞き耳を立てた。
話されている言葉は、クインテラ王国の公用語ではない。
独特の抑揚を持つ、あの滅ぼされた隣国の言語だった。
カタリナはその言語にも通じていた。
「……リリィ様の『懐妊』の偽装は順調だ。王宮の医師への買収も完璧に済んでいる」
「次の段階は、予定日に合わせて本物の男児を市井から密輸することだな」
「ああ、それと同時に国境の我が精鋭部隊が動く。内応する準備はできているか?」
「王宮の城門の鍵は、すでにこちらの息がかかった近衛が握っている。合図とともにすべてを開放する」
男たちの会話の内容は、カタリナの想像を遥かに超える恐ろしい国家転覆計画だった。
リリィの妊娠は完全に偽りであり、想像妊娠を引き起こす薬で周囲を欺き、その実、出産日に合わせて他人の赤ん坊をすり替えるつもりなのだ。
そしてその日こそが、隣国軍によるクーデターの決行日。
(ここまで計画が進んでいたなんて……すぐにエレナと王に伝えなければ!)
カタリナは極限の緊張感の中、静かに後退を開始した。
しかし、彼女がわずかに一歩を引いたその瞬間、冷たい、凍りつくような殺気が背後から立ち上った。
「あら、可愛いネズミさんが、こんなに深い穴の底まで迷い込んできてくれたのね」
鈴を転がすような、可憐で甘い声。
しかしその響きには、骨まで凍らせるような残虐な歓喜が混じっていた。
カタリナが反射的に振り返りながら短剣を抜くと、そこには松明の明かりを浴びた第六側室・リリィが立っていた。
いつものおどおどした、怯えるような少女の仮面は完全に剥ぎ取られていた。
その瞳は、暗闇の中で妖しく光る蛇のように冷酷で、底知れぬ野心と狂気に満ちていた。
「リリィ……!」
「驚いた? 第三側室のカタリナ様。あなたがただの本の虫ではないことは、最初から知っていたわ。だって、あなたの宮から放たれる『気配』だけが、他の頭の悪い女たちとは明らかに違っていたもの」
リリィが軽く指を鳴らすと、周囲の暗闇から、十数人の武装した工作員たちが音もなく現れ、カタリナを完全に包囲した。
「くっ……!」
カタリナは瞬時に状況を判断した。
正面突破は不可能。
しかし、ただで捕まるわけにはいかない。
彼女は短剣を構え、襲いかかってくる工作員たちの刃を紙一重でかわしながら、必死の抵抗を試みた。
鋭い金属音が地下遺構に響き渡る。カタリナの放った一撃が工作員の腕を切り裂いたが、多勢に無勢であり、怪我を負った腕でさらに二人の工作員に組み伏せられ、床に押しつけられた。
短剣がカタリナの手からこぼれ落ち、鈍い音を立てて転がる。
「さすがね、素晴らしい身のこなし。でも、ここまでよ」
リリィは冷ややかに見下ろし、カタリナの髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
その力は、少女のものとは思えないほど強かった。
「殺しなさい」とカタリナは低く言い放った。
「私が戻らなければ、エレナも王もすぐに異変に気づくわ」
「ふふ、殺す? とんでもない。あなたにはまだ利用価値があるわ。それに、簡単に死なせてあげるほど、私は優しくないの。この国の人間に、我が一族がどれほどの屈辱を味わわされたか、あなたにもじっくりと教えてあげる」
リリィの瞳の奥に、燃え盛るような、しかし絶対に消えない復讐の炎が見えた。
カタリナは拘束され、地下遺構のさらに深くにある、鉄格子のついた隠し牢へと引きずられていった。
工作員たちに乱暴に投げ込まれ、重い鉄の扉が閉まる。完全な暗闇が彼女を包み込んだ。
全身の打撲と切り傷が激しく痛んだが、カタリナの意識は明晰だった。
彼女は自分が長くは持たないかもしれないと悟っていた。
リリィの背後にある執念は、単なる権力欲ではなく、国を滅ぼされた者たちの呪いだ。
(エレナ……気づいて……)
カタリナは自由になる片手を必死に動かし、仕掛け指輪の突起を爪で強く押し込んだ。
指先から染み出す無色のインク。
彼女は暗闇の中、手探りで牢獄の濡れた石壁に、命の灯火を振り絞るようにして暗語を刻み始めた。
密偵の意地と、信じた友への想いだけが、彼女の指を動かしていた。
文字を刻み終えると同時に、カタリナの意識は深い疲労と痛みのせいで、闇の中へと沈んでいった。
翌朝。後宮はカタリナの突然の「失踪」に揺れていた。
第一側室であり正妻代行となったエレナの元に、カタリナの筆頭侍女が青ざめた顔で駆け込んできたのだ。
「エレナ様! カタリナ様が……カタリナ様が昨晩からお戻りになりません! お部屋の調度品には荒らされた形跡はありませんが、お気に入りの上着と、いつも身につけていらっしゃる短剣がなくなっているのです!」
エレナは手にした書類を落としそうになった。
胸騒ぎが確信に変わる。カタリナが単なる気まぐれで姿を消すはずがない。
彼女はリリィの調査に向かい、そして何らかの罠に落ちたのだ。
「落ち着いて。カタリナの部屋の捜索は私が見るわ。他の者には、カタリナは体調を崩して静養していると伝えなさい。決して騒ぎを起こしてはならないわ」
エレナは自らカタリナの宮へと向かった。
部屋の中は一見すると完全に整理されていたが、エレナはカタリナが以前、
「もし私に万が一のことがあれば、この光を使いなさい」
と手渡してくれた、特殊な魔導灯(青い光を放つ石)を懐から取り出した。
部屋の灯りをすべて消し、薄暗い中でその魔導灯の光を床や壁に当てていく。
すると、寝台の脇の床に、うっすらと青く光る矢印の跡が浮かび上がった。
「これは……地下へ続いているのね」
エレナはマルタに数人の信頼できる近衛兵を密かに手配するよう命じ、自らその光の軌跡を追って、王宮の地下遺構へと足を踏み入れた。
地下の空気は冷たく、湿気に満ちていた。
魔導灯の青い光だけを頼りに、エレナは暗い通路を進んでいく。
壁に残されたわずかな擦れ跡や、カタリナが意図的に残したであろう小さな印を辿り、ついに彼女は工作員たちの密会場所であった広間へと辿り着いた。
そこには激しい戦闘の痕跡があり、床には血痕が残されていた。
「カタリナ……!」
エレナの心臓が早鐘を打つ。
血痕はさらに奥の狭い通路へと続いていた。
近衛兵たちに周囲を警戒させながら、エレナは最奥の隠し牢へと行き着いた。
重い鉄扉は固く閉ざされていたが、その扉の横の石壁に、魔導灯の光を当てた瞬間、エレナは息を呑んだ。
そこには、殴り書きのような、しかし整然としたカタリナの暗号文字が青々と浮かび上がっていた。
密偵組織の長であるカタリナが、エレナにだけ解読できるように教えていた特殊な暗号。
エレナは必死に頭を回転させ、その文字を心の中で読み解いていった。
『リリィの真の正体は、我が国が過去に滅ぼした隣国の王女の生き残り。彼女の目的は権力ではなく、クインテラ王国そのものを地獄に叩き落とす復讐。リリィの瞳の奥にあるのは、滅びた国の呪いだ』
「そんな……リリィが、亡国の王女……!?」
エレナの脳裏に、あの可憐で、おどおどとした少女の姿が浮かぶ。
それがすべて、自分たちを油断させ、国を内側から滅ぼすための完璧な「擬態」だったのだ。
彼女の背後にあるのは、正妻オーレリアのような私利私欲の野心ではない。
国を奪われ、家族を殺された者たちの、決して消えることのない「絶対的な怨嗟」だ。
鉄格子の奥からは何の音も聞こえない。
カタリナがこの奥に囚われているのは間違いなかったが、扉は外側から魔法の錠で固く閉ざされており、容易には開けられそうになかった。
「エレナ様、いかがいたしましたか?」
近衛兵が心配そうに声をかける。
エレナは震える手で魔導灯を握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
恐怖で足がすくみそうだったが、彼女の心の中で、平民の母親としての強固な意志がそれをねじ伏せた。
「リリィ……あなたは悲しい過去を背負っているのかもしれない。でも、その復讐のために私のアルフレッドを、この国を巻き込むというのなら……私はあなたを、絶対に許さない」
エレナはカタリナが囚われている扉を見つめ、必ず助け出すと心に誓いながら、まずはこの戦慄すべき真実を武器に変えるため、地上へと引き返していった。
新・後宮のリーダーとなったエレナと、亡国の王女リリィとの、国そのものを賭けた本当の死闘の幕が、ついに切って落とされたのだった。



