最年長側室の覚醒 〜身分の低い私の息子が世継ぎですか? 必ず命を狙われるので、死に物狂いで守ってみせます〜

大御前会議での壮絶な舌戦は、第一側室エレナ陣営の圧倒的な勝利に終わった。
法律、財政、防衛、すべての面において非の打ち所のない実績を叩きつけられた保守派貴族たちは沈黙し、残された唯一の拠り所は、三ヶ月後に第六側室リリィが出産するはずの「幻の御子」のみとなった。
これにより、リリィは【大御前審判】のその日、何が何でも本物の男児を抱いて現れねばならないという、絶対の袋小路へと追い詰められたのである。

「……あの平民の泥め。よくも、よくも私をここまで追い詰めてくれたわね」

焼け落ちた白百合宮に代わり、医薬院の特別監禁室に近い一室に移されたリリィは、暗闇の中でサファイアの瞳を血走らせていた。
彼女の美しい顔は焦燥と狂気で歪み、膨らんだように見せかけた腹部を、包帯の巻かれた手でキリキリと掻きむしっている。

すでに帝国の残党工作員への指示は済んでいた。
審判の日の朝、内膳司の勝手口から、貧民街で買い叩いた、あるいは奪い取った健康な男児の赤ん坊を、食材の木箱に隠して密輸する手はずは整っている。
だが、リリィにはどうしても、今この瞬間に消し去っておかねばならない「最大の懸念」が存在した。

主治医である、ロベルト・ヴァイス医師の存在である。

(あの男、最近私の検診のたびに、指先をガタガタと震わせている。目を合わせようともしない。……間違いないわ。ロベルトはエレナの側に寝返った。私の『マトリカの毒雫』による偽装妊娠の証拠を、すでにあの女に握られているんだわ!)

リリィの脳裏に、冷酷な蛇の計算が巡る。
ロベルトの妹は帝国の療養所に人質として囲っていたはずだが、先日から本国との連絡が不自然に途絶えている。
もし、すでにエレナたちの手によって妹が救出されているのだとしたら、ロベルトをこのまま生かしておくことは、自らの首に掛けられたギロチンの紐をエレナに握らせておくも同然だった。

「生かしてはおけない。審判の前に、私の『嘘』を知る唯一の証人を、この世から消し去らねば……」

リリィはドレスの奥深く、工作員として訓練を受けた者だけが持つ秘密の仕込み隠しから、一本の小さな硝子瓶を取り出した。
中に満ちているのは、ガルディニア帝国が誇る究極の暗殺毒――『黒水仙の涙』。
無味無臭であり、口にすれば数分で心臓を狂わせ、医師ですら「急な心不全」としか診断できない、完璧な暗殺薬であった。




同時刻、翡翠宮の地下。
エレナ、カタリナ、ブリジェットの三人は、密かに保護しているロベルト医師と対峙していた。

「ロベルト、リリィの動向はどうですか?」
エレナが静かに問いかける。

ロベルトは青ざめた顔で、未だに震えが止まらない手を組み合わせた。
「は、はい……。リリィ様は、ご自身の『偽装の腹』が限界を迎えていることを察知されています。おそらく、私のことを完全に疑っている。私を見る目が、もはや人間を見るものではありません。……エレナ様、私は、私はいつ消されるか……!」

「心配いりませんわ、ロベルト医師」
カタリナが冷ややかに微笑み、彼の手元に温かいお茶を置いた。
「貴方の周りには、私の密偵とブリジェット様の私兵が影のように張り付いている。リリィが刺客を放てば、その瞬間に捕らえて、さらに罪状を重ねるだけよ」

「だが、カタリナ」
ブリジェットが腕を組み、鋭い目でロベルトを見つめた。
「刺客なら防げるが、あの女は帝国の魔女だ。身内の『毒』を使い慣れている。ロベルトが医薬院で彼女に呼び出され、直接何かを盛られたら、防ぎようがないぞ」

エレナはロベルトの怯える瞳を見つめ、深く思考した。
リリィがロベルトを消そうとするならば、それは「審判の前に自分の嘘が暴かれるのを恐れた」という、最大の裏付けになる。ならば、その敵の凶行すらも、こちらの罠として利用せねばならない。

「ロベルト。明日から、リリィ様が貴方に差し出す『食べ物』『飲み物』、あるいは『薬』には、絶対に口をつけてはなりません。すべて、衣服の袖や床に隠して捨てるフリをしなさい。そして、もし彼女が決定的な行動に出た時は――」

エレナがロベルトに、最後の「命綱」となる作戦を授けた、その翌日のことだった。

医薬院の特別室。
リリィは、ベッドの傍らに立つロベルトに向けて、かつてのような、ひどく美しく、そしてどこか哀れみを誘うような「聖女の笑み」を浮かべていた。

「ロベルト医師。貴方には、私のこの困難な妊娠を、最初からずっと支えていただきました。正妻オーレリアの襲撃から生き延びられたのも、貴方の適切な処置があったからこそですわ」

「は、はあ……。勿体無きお言葉にございます、リリィ様」
ロベルトは必死に心臓の鼓動を抑え、平伏した。彼の背中には、冷や汗が滝のように流れていた。

「これは、私の実家であるガルディニアの領地から、特別に届いた最高級の赤ワインですの。貴方のこれまでの忠誠と、三ヶ月後の審判での『完璧な証言』を期待して、私が自ら注ぎましたわ。……さあ、受け取って」

リリィは、銀のトレイに乗せられた、妖しく煌めく真紅の液体が満ちたグラスを差し出した。
そのワインの奥底には、無味無臭の死神――『黒水仙の涙』が大量に混入されていることを、ロベルトは本能的に察知した。グラスを持つリリィの指先が、微かに、しかし確実に「獲物の死」を待つように強張っている。

「さあ、お飲みなさい? 私の、大切な主治医どの」
リリィのサファイアの瞳が、暗い歓喜に濡れる。

ロベルトの脳裏に、昨夜エレナから授かった言葉が蘇る。
(――ロベルト、敵が毒を差し出したら、怯えてはなりません。それを『最大の武器』に変えるのです)

「お、お召し上がり……頂きます……!」
ロベルトは震える手でグラスを受け取ると、意を決したように、それを一気に口元へと運んだ。
ゴクリ、と喉が鳴る。

それを見届けたリリィの唇が、下劣な勝者の笑みへと歪んだ。
(かかったわね、間抜けなネズミ。これで私の嘘を知る者は、この世から消え――)

しかし、その瞬間だった。
「がはっ……!? ごふっ、あ、あ、あああ――っ!?」

ロベルトは突然、血を吐き出すかのように激しく咳き込み、ワイングラスを床に叩きつけて割った。そして、自らの喉を両手でキリキリと締め付けながら、白目を剥いて床へのたうち回ったのである。

「な……っ!?」
リリィが驚愕に目を見開く。効果が早すぎる。『黒水仙の涙』は、数分かけてじわじわと心臓を止める毒のはず。なぜ、口に含んだ瞬間にこれほどの劇症を起こすのか。

「う、あ、あ……毒、毒だ……! 第六側室様が、私に……毒を……っ!」
ロベルトは口から凄まじい量の「泡(事前にエレナから渡されていた、激しい嘔吐と泡を誘発する無害な薬)」を吹き出しながら、必死の形相で特別室の重い扉を開け、廊下へと這い出た。

「待ち、待ちなさい、ロベルト――!」
リリィが叫び、ベッドから飛び起きようとしたが、時すでに遅かった。

廊下には、まるで最初からそこで待機していたかのように、第一側室エレナ、そして第三側室ブリジェットが、数十人の近衛兵を引き連れて、堂々と立ちはだかっていた。

「何事ですか、この騒ぎは!」
エレナの声が廊下に響き渡る。

「エレナ……様……! リリィ様が、私の口を封じるために、帝国の、毒ワインを……っ! 助けて、助けてください……!」
ロベルトはエレナの足元に縋り付き、そのまま計画通りに「意識を失ったフリ」をして倒れ込んだ。

「医師を呼べ! 急ぎロベルトの胃を洗浄するのだ!」
ブリジェットが怒号を上げ、近衛兵たちを部屋へと突入させる。

部屋の奥で、ベッドの上に立ち尽くすリリィは、自らが完璧にエレナの「嵌め技」に落ちたことを悟り、顔を白紙のように真っ白に変えた。床に散らばるワインの残骸、そしてロベルトが吐き出した泡。すべてが、彼女が主治医を暗殺しようとした「決定的な現場証拠」として、完全に押さえられてしまったのだ。

エレナは、部屋に入ると、床のワインの匂いをそっと嗅ぎ、冷酷な目でリリィを射抜いた。

「『黒水仙の涙』……帝国の高位工作員しか持ち得ない、恐るべき暗殺毒ですわね、リリィ様。……貴女、自分の主治医に対して、一体何を隠すために、この【最期の毒杯】を捧げたのかしら?」

「く……っ、私は、私は何も……! あの男が勝手に倒れたのですわ!」
リリィは必死に弁明しようとするが、その声は恐怖で激しく震えていた。

「言い訳は、審問院の場でじっくりと伺いますわ。……ブリジェット様、第六側室リリィを、本日より【大御前審判】の当日まで、この部屋から一歩も出さぬよう、厳重な軟禁下に置きなさい。面会は一切認めません!」

「応よ! 近衛の精鋭を24時間張り付かせる。ネズミ一匹、この女に近づけさせやしないさ!」
ブリジェットが獰猛に笑う。

リリィの「口封じ」の目論見は、エレナの先読みによって完全に粉砕され、逆に彼女は「暗殺未遂」という重大な容疑をかけられたまま、完全な孤立無援の檻へと閉じ込められることとなった。

しかし、特別室の扉が閉められ、再び一人になったリリィは、暗闇の中でガタガタと震えながらも、そのサファイアの瞳の奥の「最後の狂気」だけは、まだ消していなかった。

(まだよ……まだ私は負けていない。暗殺は失敗したけれど、私が『妊娠している』という公式の証明書は、まだ生きているわ。エレナが私を今すぐ処刑できないのは、私の『お腹の子』を傷つけたという汚名を恐れているからよ。……三ヶ月後の審判の朝、内膳司から運び込まれるあの赤ん坊さえ手に入れば、私はすべての戦況をひっくり返せる……!)

リリィが「最後の生命線」である赤ん坊すり替え計画にすべての命運を賭ける中、物語はいよいよ、第一部の最大にして最高潮の決戦へと突入していく。
そこには、リリィの想像を絶する、エレナ陣営の「完璧なる包囲網」が待ち受けているのだった。