最年長側室の覚醒 〜身分の低い私の息子が世継ぎですか? 必ず命を狙われるので、死に物狂いで守ってみせます〜

正妻・オーレリアの理性を失った暴走によって引き起こされた「白百合宮炎上事件」は、後宮の勢力図を瞬く間に塗り替えた。
主謀者たるオーレリアはすべての地位を剥奪され、王宮最北の「開かずの塔」へと生涯幽閉。
実家である公爵家もまた連帯責任を問われ、事実上の政治的壊滅へと追い込まれた。
長年、後宮の頂点で絶対的な身分制度を盾にエレナたちを見下してきた正妻派は、自らが放った炎の中に消え去ったのである。

焼け落ちた白百合宮の瓦礫からは未だに焦げ臭い煙が立ち上っていたが、後宮には表向き、静かで穏やかな「偽りの平和」が戻ったかのように見えた。

だが、第一側室エレナ、そして彼女と固い絆で結ばれた側室陣営(ブリジェット、カタリナ、フィオナ)は知っていた。
本当の地獄は、この静寂の裏で、さらに冷徹に脈動しているということを。

「――本当に、あの時はありがとうございました」

王宮医薬院の一室。
火災による軽度の火傷と煙の吸引から回復しつつある第六側室リリィは、ベッドの上に上体を起こし、お見舞いに訪れたエレナに対して、痛々しいほどに儚げな、しかし完璧な「感謝の微笑み」を浮かべていた。
そのサファイアの瞳は潤み、煤に汚れた純白の髪は綺麗に整えられ、相変わらず非の打ち所のない「悲劇の聖女」を演じきっている。

「いいえ、リリィ様。貴女の御身と、そのお腹の中にいる『大切なお子』が無事で、本当に安心いたしましたわ」
エレナもまた、非の打ち所のない慈愛に満ちた笑みを浮かべ、リリィの枕元に、フィオナが手配した最高級の滋養強壮に効く果物を置いた。

二人の視線が交差する。その数秒の沈黙の間に、バチバチと火花が散るような激しい心理戦が繰り広げられていた。

リリィの胸中は、かつてないほどの警戒と焦燥で埋め尽くされていた。

(あの平民の魔女……! 私を助けたのは『お腹の子のため』などではない。私の妊娠が、帝国の秘薬『マトリカの毒雫』による『偽装(想像妊娠)』であることに、気づいているからだわ。私がこのまま炎で死ねば、お腹の子は『幻の正統なる王嗣』として神格化される。それを防ぐために、敢えて私を生かし、審問院の場で私の嘘を暴いて、私と帝国を同時に処刑台へ送るつもりなんだわ……!)

リリィは布団の中で、包帯が巻かれた自らの指先を白くなるまで握りしめていた。
彼女に残された時間は少なかった。
いくら薬物で完璧な妊娠の兆候を維持し、買収したロベルト医師に偽りの診断書を書かせ続けようとも、人間の身体は欺けない。
十ヶ月が経過したその時、お腹から「何も生まれない」という事実だけは、いかなる工作を以てしても隠し通すことはできないのだ。

(ロベルトの様子もおかしい……。あいつ、私の目を盗んで何かを怯えている。もしや、すでにエレナ側に寝返ったの? ……だとしたら、私の『次の手』を打つのは、今しかないわ)

リリィのサファイアの瞳の奥に、ぞっとするほど冷酷な「蛇の光」が灯る。

「お姉様、私、お腹の子のために、しばらくは医薬院のこの静かな部屋で療養に専念いたしますわ。お茶会などには顔を出せませんが、どうかお許しくださいね」

「ええ、当然ですわ、リリィ様。お腹のお子を最優先になさってください」

エレナは優雅に一礼し、医薬院の部屋を後にした。

廊下に出た瞬間、エレナの顔から笑みが完全に消え去った。
待ち受けていた第三側室カタリナが、影の中から音もなく寄り添う。

「エレナ様、リリィの様子は?」

「完全に、私を警戒しているわ。彼女は、私が彼女の『嘘』を掴んでいることを確信している。……カタリナ様、ロベルト医師の監視は万全ですか?」

「ええ。フィオナ様の秘密の邸宅で、ブリジェットの実家から派遣された私兵たちが24時間体制で護衛しているわ。リリィや帝国の工作員が彼を口封じに暗殺することは不可能よ」

カタリナは翡翠色の瞳を細め、さらに低い声で続けた。

「けれど、リリィはまだ諦めていない。彼女、今朝早く、医薬院の窓から自らの髪の毛を仕込んだ特殊な『伝書鳥』を放ったわ。私の密偵がそれを撃ち落として解読したのだけれど……その内容が、あまりにも悍ましいものだったの」

カタリナが懐から取り出したのは、暗号で埋め尽くされた薄い羊皮紙の断片だった。

「リリィは、帝国側の残党ネットワークに対して、ある『特殊な物資』の密輸を要求しているわ。……いえ、物資ではない。彼女が要求しているのは、『リリィの出産予定日と完全に一致するタイミングで生まれる、健康な人間の男児の赤ん坊』よ」

「――っ!」

エレナは思わず息を呑み、胸元を強く押さえた。身体の内側から、冷たい戦慄がせり上がってくるのを感じる。

「妊娠が偽装なら、本当の出産日に、本物の赤ん坊をどこからか調達してくればいい……。彼女は、後宮の厳重な警戒網を潜り抜け、外部から赤ん坊を密入国させて、『出産の瞬間に、自分の子としてすり替える』計画を立て始めているのよ」

「なんという……なんという恐ろしいことを……!」

エレナの細い肩が、激しい怒りと嫌悪で震えた。
我が子アルフレッドの命と王位を脅かすために、罪もない他人の赤ん坊を誘拐、あるいは買い取り、帝国の操り人形(偽りの王子)として仕立て上げようというのだ。
それは、母親として、そして人間として、決して許されざる究極の冒涜であった。

「リリィ……貴女の底なしの悪意、本当に骨の髄まで腐りきっているわね」

エレナは強く拳を握りしめ、爪が皮膚を破るほどの力で耐えた。

「赤ん坊の密輸ルートは、おそらく王宮の西側、物資の搬入口である『内膳司の勝手口』か、あるいは正妻派が失脚して管理が杜撰になった『地下の貯蔵庫ルート』のどちらかよ」

カタリナが冷静に分析する。

「フィオナ様の財力でルートを封鎖することはできるけれど、あまり早くに動くと、リリィが計画を察知して別のルートに切り替えるか、あるいは暗殺などの強硬手段に出る可能性があるわ。……エレナ様、どうなさる?」

エレナはゆっくりと深呼吸をし、自らの感情を冷徹な「戦略」へと昇華させた。
ここで怯んでは、リリィの思う壺だ。
敵が最悪の犯罪に手を染めようとしているならば、その「すり替えの瞬間」こそが、リリィとガルディニア帝国の息の根を完全に止める、絶対の罠(チェックメイト)となる。

「カタリナ様。リリィには、予定通り計画を進めさせなさい。私たちは、その赤ん坊がどこから、誰の手によって運ばれてくるのか、その『密輸ルート』の全容を完全に把握するのよ。そして……」

エレナは、窓の外に広がる、夕日に赤く染まった王宮を見つめた。
「出産のその日、彼女が『これが陛下の御子です』と、偽物の赤ん坊を抱き抱えて勝ち誇ったその瞬間に、すべての証拠と、赤ん坊の本当の親の証言、そしてロベルト医師の告発を叩きつける。それによって、リリィをただの『不届きなスパイ』としてではなく、『王室の血統を穢した、弁明の余地なき国家逆逆の怪物』として、全世界の前で断罪するわ」

「御意、エレナ様。貴女のその冷徹な知恵に、どこまでもついていきましょう」

カタリナは深く一礼し、再び影の中へと消えていった。

翡翠宮の自室に戻ったエレナは、すやすやと眠る我が子アルフレッドを抱きしめた。

「アル……私の愛しい子。母上が、必ず貴方の一生を守ってみせるわ。あの白い蛇の毒牙が、貴方の未来に触れることなど、絶対に許さない」

リリィが仕掛けた、後宮史上最も邪悪な「赤ん坊すり替え計画」。
エレナ陣営がその裏をかくための潜伏調査を始める。
しかし、そんな中、物語はさらなる混迷を見せる。
開かずの塔に幽閉されたはずの正妻・オーレリア、そして彼女の背後にいる「建国以来の大貴族たち」が、自らの滅亡を前に、エレナの息子アルフレッドの「平民の血」を全否定する、最悪の法廷闘争という名の【幽閉先からの呪い】を解き放とうとしていた。

後宮の戦火は、側室同士の暗殺劇から、国を揺るがす「法律と世論の戦い」へと、その形を変えていくのだった。