リリィのお腹の中にある「嘘」――それは帝国の禁忌たる薬物『マトリカの毒雫』がもたらした、完璧なる偽装懐妊。
その決定的な証拠と主治医ロベルトの身柄を確保した第一側室エレナは、勝利の絵図を確実に進めるため、爪を研ぎながら「その時」を待っていた。
敵が油断し、背後の帝国ネットワークをすべて曝け出した瞬間に、この医療トリックという名の爆弾を炸裂させる。
それまでは、静かに耐える仮面を被り続けるはずだった。
しかし、歪んだ階級意識と王への狂気的な執着に塗れた「かつての絶対権力者」には、その一瞬の静寂を待つだけの理性など、すでに残されてはいなかった。
「認めない……認めない認めない認めない! あの平民の泥泥(エレナ)も、敵国の妖狐(リリィ)も! この私を、最高位公爵家の娘であるこのオーレリアを蔑ろにして、ただで済むと思うな……!」
深夜の黄金宮。
正妻オーレリアは、血走った目で暗闇を見つめていた。
右腕であったヴェロニカを処刑され、国王レオンハルトからは正妻の座を剥奪すると脅され、さらに追い打ちをかけるようにリリィが「正妻と同等の権限」を奪い取った。
大貴族としてのプライドを粉々に砕かれた彼女の精神は、すでに完全に崩壊し、暗い怨嗟の沼へと沈んでいた。
彼女の手には、実家の私兵から秘密裏に横流しされた、軍用の高濃度可燃性オイルの瓶が握られていた。
「私が産んだ娘こそが至高。あの子が産む偽りの御子など、この世に存在してはならないのよ。……フフ、アハハハハ! 燃やしてあげるわ。あの忌々しい白百合ごと、跡形もなくね!」
狂気に駆られた正妻の、文字通りの「最後の暴走」が、静まり返った後宮の夜に火を放とうとしていた。
同時刻、翡翠宮。
エレナは、カタリナが持ち込んだリリィの過去の動向データを前に、冷徹な作戦を練り直していた。
「エレナ様、ロベルト医師の身柄は、フィオナ様が手配した地下の秘密拠点で厳重に保護されていますわ。いつでも審問院へ引きずり出せます」
カタリナが淡々と報告する。
「ええ、ありがとう。あとは、リリィが『正妻と同等の権限』を使って、帝国の商会と正式な契約を交わす調印式の当日ね。全貴族が集まるあの場で、彼女の腹の中が『空っぽの毒』であることを白日の下に晒す。それが最も――」
エレナが言葉を紡ぎかけた、その瞬間だった。
窓の外から、不気味なまでの「赤い光」が差し込んできた。
続いて、夜の静寂を切り裂くような、狂乱の叫び声と金属の鐘の音が後宮全体に鳴り響く。
『火事だ――! 白百合宮が燃えているぞ――!!』
「何ですって!?」
エレナは弾かれたように立ち上がり、テラスへと飛び出た。
彼女の目に飛び込んできたのは、後宮の東側に位置する麗しき白百合宮が、天を突くような紅蓮の炎に包まれている光景だった。
パチパチと木々がはぜる不快な音が、風に乗って翡翠宮にまで届く。
「おいおい、冗談だろ!? あの雌狐の宮が丸焼けじゃないか!」
部屋へ飛び込んできたブリジェットが、大剣を握りしめながら目を見開く。
「リリィ様の宮が……? 一体誰がそんな……」
フィオナも顔を青ざめさせて立ち尽くす。
しかし、情報網の化身であるカタリナだけは、即座に懐から取り出した通信用の隠密札に耳を傾け、氷のような声で事実を告げた。
「……正妻オーレリア様よ。彼女、自ら黄金宮の侍女たちを総動員して、白百合宮の周囲に軍用オイルを撒き、退路を完全に断った上で火を放ったわ。現在、オーレリア様は松明を片手に、狂ったように笑いながら炎を見つめているそうよ」
「あの馬鹿女が……!」
ブリジェットが吐き捨てる。
「自滅するにしても、最悪のタイミングだよ! これじゃあ、せっかく私たちが掴んだリリィの『偽装妊娠』の証拠が……」
「――困るわ」
エレナの、低く、地を這うような声が室内に響いた。
ブリジェットたちがハッとしてエレナを見る。
エレナの顔は、驚きを超え、冷徹極まる戦術家のそれへと変貌していた。
「リリィが、あの嘘を暴く前にあの炎の中で死んでしまっては、絶対に困るのよ」
「どういうことだい、エレナ?」
「オーレリア様の犯行としてリリィが可哀想な『悲劇の被害者』として死ねば、彼女のお腹にいた(はずの)御子は『幻の正統なる王嗣』として、帝国によって永遠に神格化されるわ。そうなれば、クインテラ王国は『妊婦の側室を焼き殺した野蛮な国』として、帝国からの全面戦争の絶好の大義名分を与えてしまうことになる」
エレナは外套を強く掴み、自身の細い肩に羽織った。
「それだけではないわ。リリィの嘘が闇に葬られれば、陛下がこれまで耐え忍んできた孤独な偽装工作も……、すべて水の泡になる。……リリィは、私たちの手で、五体満足な状態で、審問院の断罪の席に引きずり出さなければならないの。あの女を、あんな狂気の巻き添えで死なせてたまるもんですか!」
「エレナ、まさかお前……!」
ブリジェットの顔に戦慄が走る。
「行くわよ、ブリジェット様、カタリナ様! 炎の中に飛び込んででも、あの白い蛇を引っ張り出すわ!」
紅蓮の炎が渦巻く白百合宮は、さながら現世に現れた地獄のようだった。
周囲では、駆けつけた近衛兵や内膳司の給仕たちが必死にバケツで水をかけている。
軍用オイルの激しい火力の前には、雀の涙にも満たない。
「アハハハハ! 燃えなさい! 汚れなさい! 王室の血を汚す泥め、全員灰になればいいのよ!」
宮の前庭では、髪を振り乱したオーレリアが、制止しようとする近衛兵を松明で威嚇しながら、狂った笑い声を上げていた。
彼女の背後には、完全に腰を抜かした侍女たちが座り込んでいる。
「オーレリア様、お退きなさい!」
そこへ、エレナたちが猛然と駆け込んできた。
「あら、平民のエレナ! 貴女もあの狐の後を追いたいの一!? ちょうどいいわ、この炎の中に飛び込みなさい!」
オーレリアが松明をエレナに向けようとしたが、その手首を、ブリジェットの強烈な握力が掴み取った。
「っ!?」
「うるさいよ、元・正妻様。大人しくおねんねしてな!」
ブリジェットは容赦なくオーレリアの手首を捻り上げ、松明を取り上げると、彼女の腹部に軽い打撃を与えて気絶させた。
崩れ落ちるオーレリアを近衛兵に放り投げる。
「エレナ、正面の扉は完全に崩落している! 中に入るのは自殺行為だ!」
ブリジェットが燃え盛る建物を仰ぎ見ながら叫ぶ。
「裏の隠し通路なら、まだ火の手が回っていないはずよ!」
カタリナが叫び、エレナを誘導する。
三人は煙が立ち込める建物の裏手へと回り込んだ。
窓枠からは激しい黒煙が噴き出しており、一呼吸吸うだけで肺が焼け付きそうな極限状態だった。
「ブリジェット様、あの窓を!」
「任せな!」
ブリジェットが大剣の腹を叩きつけ、燃え盛る裏窓の鉄格子を木枠ごと粉々に打ち砕いた。
「私は中に入るわ!」
エレナは、近くにあった水瓶の水を自身の外套に大量に被ると、躊躇うことなく、黒煙が渦巻く窓の中へと身を躍らせた。
「エレナ!」
「エレナ様!?」
ブリジェットとカタリナの静止の声が、炎のはぜる音にかき消される。
建物の内部は、視界が遮られるほどの煙と、肌を焼く熱波に満ちていた。
「ゲホッ……ゲホッ……! リリィ! リリィ、どこにいるの!?」
エレナは濡れた外套で口元を覆いながら、激しく咳き込みつつ、崩れ落ちる回廊を走った。
梁が燃え落ち、行く手を阻むが、彼女はそれを必死に跨ぎ越え、リリィの寝所へと向かった。
寝室の扉を蹴り開けると、そこには、立ち込める煙の中でベッドの傍らに倒れ込み、意識を失いかけているリリィの姿があった。
彼女の純白のドレスは煤で汚れ、あの傲慢だったサファイアの瞳は、死の恐怖に怯えるように微かに開いているだけだった。
「エレ、ナ……様……? なぜ、……私を、殺しに……?」
リリィは、掠れた声で呟いた。
彼女の脳裏には、エレナが自分を亡き者にするために、正妻と手を組んで火を放ったのではないかという疑念があったのだろう。
「勘違いしないで、リリィ」
エレナはリリィの細い身体を強引に引き起こし、自らの肩に担ぎ上げた。
「貴方をこんなところで死なせはしないわ。貴方の犯した大罪は、あの冷たい地下牢の、剥き出しの処刑台の上で、すべて清算してもらうんだから!」
「く……ふふ……恐ろしい、人……」
リリィはそう呟くと、完全に意識を失い、エレナの胸の中に崩れ落ちた。
「くっ、重い……!」
平民の育ちとはいえ、一人の大人の身体を担いで炎の中を走るのは、エレナの華奢な肉体には限界に近い苦行だった。
天井から燃え盛る木片が落ち、エレナの頬をかすめて赤い血が滲む。
足元が崩れ、崩落の危機が迫る中、エレナは我が子アルフレッドの顔を思い浮かべ、歯を食いしばって前へと進んだ。
「ブリジェット様――!!」
エレナが最後の力を振り絞って、裏窓の境界へと辿り着き、叫んだ。
「エレナ!! よくやった!」
暗闇から伸びてきたブリジェットの逞しい腕が、まずリリィの身体を引っ張り上げ、続いてエレナの身体を、崩壊寸前の建物から力任せに引き抜いた。
その直後、ズガァァァン!! という凄まじい轟音と共に、白百合宮の屋根が完全に崩れ落ち、猛烈な火柱が夜空へと突き抜けた。
間一髪の脱出だった。
泥と煤、そして血に塗れたエレナは、草の上に大の字に倒れ込み、激しく新鮮な空気を肺に吸い込んだ。
その隣では、ブリジェットがリリィの生存(脈拍)を確認し、ホッと胸を撫で下ろしている。
翌朝。
白百合宮は、黒く焦げた瓦礫の山と化していた。
国王レオンハルトの迅速な命令により、この未曾有の不祥事を引き起こした正妻オーレリアは、即座にすべての地位を剥奪され、王宮の最北端にある「開かずの塔」へと生涯幽閉の身となることが決定した。
彼女の実家である公爵家もまた、王宮防衛義務を怠り、かつ王嗣(の偽物だが)の命を狙った連帯責任として、厳しい財政制裁と監視下に置かれることとなった。
正妻派は、自らの狂気によって、事実上の壊滅を迎えたのだ。
しかし、一命を取り留めたリリィは、医薬院の特別室で目を覚ました時、自身のベッドの傍らに立つエレナを見つめ、そのサファイアの瞳の奥の「警戒の光」を、これまで以上に鋭く、凶悪に尖らせていた。
「……お命を救っていただき、感謝いたしますわ、エレナ様」
リリィは、包帯を巻かれた手で布団を握りしめ、冷たい微笑みを浮かべた。
「お礼には及ばないわ、リリィ様。貴方の身体(のお腹の子)が、無事で本当に良かったわ」
エレナもまた、完璧な「側室の微笑み」を浮かべて返し、リリィのの手元をじっと見つめた。
命を救われたことで、リリィはエレナという存在の「真の恐ろしさ(ただの平民ではなく、自らの目的のために命すら賭ける怪物)」を完全に理解した。
そして同時に、エレナが自らの『偽装妊娠』に気づいているからこそ、生かしたのだという確信をも抱いたはずだった。
正妻オーレリアの失脚によって、後宮の盤面はさらにシンプルに、そしてさらに先鋭化していく。
火災を生き延び、自らの「嘘」が暴かれる時間の猶予が残り少ないことを悟ったリリィは、この偽装妊娠を本物にするための、さらに薄汚く、冷酷極まる「次なる罠」――【赤ん坊のすり替え計画】へと、その細い手を伸ばし始めるのであった。
その決定的な証拠と主治医ロベルトの身柄を確保した第一側室エレナは、勝利の絵図を確実に進めるため、爪を研ぎながら「その時」を待っていた。
敵が油断し、背後の帝国ネットワークをすべて曝け出した瞬間に、この医療トリックという名の爆弾を炸裂させる。
それまでは、静かに耐える仮面を被り続けるはずだった。
しかし、歪んだ階級意識と王への狂気的な執着に塗れた「かつての絶対権力者」には、その一瞬の静寂を待つだけの理性など、すでに残されてはいなかった。
「認めない……認めない認めない認めない! あの平民の泥泥(エレナ)も、敵国の妖狐(リリィ)も! この私を、最高位公爵家の娘であるこのオーレリアを蔑ろにして、ただで済むと思うな……!」
深夜の黄金宮。
正妻オーレリアは、血走った目で暗闇を見つめていた。
右腕であったヴェロニカを処刑され、国王レオンハルトからは正妻の座を剥奪すると脅され、さらに追い打ちをかけるようにリリィが「正妻と同等の権限」を奪い取った。
大貴族としてのプライドを粉々に砕かれた彼女の精神は、すでに完全に崩壊し、暗い怨嗟の沼へと沈んでいた。
彼女の手には、実家の私兵から秘密裏に横流しされた、軍用の高濃度可燃性オイルの瓶が握られていた。
「私が産んだ娘こそが至高。あの子が産む偽りの御子など、この世に存在してはならないのよ。……フフ、アハハハハ! 燃やしてあげるわ。あの忌々しい白百合ごと、跡形もなくね!」
狂気に駆られた正妻の、文字通りの「最後の暴走」が、静まり返った後宮の夜に火を放とうとしていた。
同時刻、翡翠宮。
エレナは、カタリナが持ち込んだリリィの過去の動向データを前に、冷徹な作戦を練り直していた。
「エレナ様、ロベルト医師の身柄は、フィオナ様が手配した地下の秘密拠点で厳重に保護されていますわ。いつでも審問院へ引きずり出せます」
カタリナが淡々と報告する。
「ええ、ありがとう。あとは、リリィが『正妻と同等の権限』を使って、帝国の商会と正式な契約を交わす調印式の当日ね。全貴族が集まるあの場で、彼女の腹の中が『空っぽの毒』であることを白日の下に晒す。それが最も――」
エレナが言葉を紡ぎかけた、その瞬間だった。
窓の外から、不気味なまでの「赤い光」が差し込んできた。
続いて、夜の静寂を切り裂くような、狂乱の叫び声と金属の鐘の音が後宮全体に鳴り響く。
『火事だ――! 白百合宮が燃えているぞ――!!』
「何ですって!?」
エレナは弾かれたように立ち上がり、テラスへと飛び出た。
彼女の目に飛び込んできたのは、後宮の東側に位置する麗しき白百合宮が、天を突くような紅蓮の炎に包まれている光景だった。
パチパチと木々がはぜる不快な音が、風に乗って翡翠宮にまで届く。
「おいおい、冗談だろ!? あの雌狐の宮が丸焼けじゃないか!」
部屋へ飛び込んできたブリジェットが、大剣を握りしめながら目を見開く。
「リリィ様の宮が……? 一体誰がそんな……」
フィオナも顔を青ざめさせて立ち尽くす。
しかし、情報網の化身であるカタリナだけは、即座に懐から取り出した通信用の隠密札に耳を傾け、氷のような声で事実を告げた。
「……正妻オーレリア様よ。彼女、自ら黄金宮の侍女たちを総動員して、白百合宮の周囲に軍用オイルを撒き、退路を完全に断った上で火を放ったわ。現在、オーレリア様は松明を片手に、狂ったように笑いながら炎を見つめているそうよ」
「あの馬鹿女が……!」
ブリジェットが吐き捨てる。
「自滅するにしても、最悪のタイミングだよ! これじゃあ、せっかく私たちが掴んだリリィの『偽装妊娠』の証拠が……」
「――困るわ」
エレナの、低く、地を這うような声が室内に響いた。
ブリジェットたちがハッとしてエレナを見る。
エレナの顔は、驚きを超え、冷徹極まる戦術家のそれへと変貌していた。
「リリィが、あの嘘を暴く前にあの炎の中で死んでしまっては、絶対に困るのよ」
「どういうことだい、エレナ?」
「オーレリア様の犯行としてリリィが可哀想な『悲劇の被害者』として死ねば、彼女のお腹にいた(はずの)御子は『幻の正統なる王嗣』として、帝国によって永遠に神格化されるわ。そうなれば、クインテラ王国は『妊婦の側室を焼き殺した野蛮な国』として、帝国からの全面戦争の絶好の大義名分を与えてしまうことになる」
エレナは外套を強く掴み、自身の細い肩に羽織った。
「それだけではないわ。リリィの嘘が闇に葬られれば、陛下がこれまで耐え忍んできた孤独な偽装工作も……、すべて水の泡になる。……リリィは、私たちの手で、五体満足な状態で、審問院の断罪の席に引きずり出さなければならないの。あの女を、あんな狂気の巻き添えで死なせてたまるもんですか!」
「エレナ、まさかお前……!」
ブリジェットの顔に戦慄が走る。
「行くわよ、ブリジェット様、カタリナ様! 炎の中に飛び込んででも、あの白い蛇を引っ張り出すわ!」
紅蓮の炎が渦巻く白百合宮は、さながら現世に現れた地獄のようだった。
周囲では、駆けつけた近衛兵や内膳司の給仕たちが必死にバケツで水をかけている。
軍用オイルの激しい火力の前には、雀の涙にも満たない。
「アハハハハ! 燃えなさい! 汚れなさい! 王室の血を汚す泥め、全員灰になればいいのよ!」
宮の前庭では、髪を振り乱したオーレリアが、制止しようとする近衛兵を松明で威嚇しながら、狂った笑い声を上げていた。
彼女の背後には、完全に腰を抜かした侍女たちが座り込んでいる。
「オーレリア様、お退きなさい!」
そこへ、エレナたちが猛然と駆け込んできた。
「あら、平民のエレナ! 貴女もあの狐の後を追いたいの一!? ちょうどいいわ、この炎の中に飛び込みなさい!」
オーレリアが松明をエレナに向けようとしたが、その手首を、ブリジェットの強烈な握力が掴み取った。
「っ!?」
「うるさいよ、元・正妻様。大人しくおねんねしてな!」
ブリジェットは容赦なくオーレリアの手首を捻り上げ、松明を取り上げると、彼女の腹部に軽い打撃を与えて気絶させた。
崩れ落ちるオーレリアを近衛兵に放り投げる。
「エレナ、正面の扉は完全に崩落している! 中に入るのは自殺行為だ!」
ブリジェットが燃え盛る建物を仰ぎ見ながら叫ぶ。
「裏の隠し通路なら、まだ火の手が回っていないはずよ!」
カタリナが叫び、エレナを誘導する。
三人は煙が立ち込める建物の裏手へと回り込んだ。
窓枠からは激しい黒煙が噴き出しており、一呼吸吸うだけで肺が焼け付きそうな極限状態だった。
「ブリジェット様、あの窓を!」
「任せな!」
ブリジェットが大剣の腹を叩きつけ、燃え盛る裏窓の鉄格子を木枠ごと粉々に打ち砕いた。
「私は中に入るわ!」
エレナは、近くにあった水瓶の水を自身の外套に大量に被ると、躊躇うことなく、黒煙が渦巻く窓の中へと身を躍らせた。
「エレナ!」
「エレナ様!?」
ブリジェットとカタリナの静止の声が、炎のはぜる音にかき消される。
建物の内部は、視界が遮られるほどの煙と、肌を焼く熱波に満ちていた。
「ゲホッ……ゲホッ……! リリィ! リリィ、どこにいるの!?」
エレナは濡れた外套で口元を覆いながら、激しく咳き込みつつ、崩れ落ちる回廊を走った。
梁が燃え落ち、行く手を阻むが、彼女はそれを必死に跨ぎ越え、リリィの寝所へと向かった。
寝室の扉を蹴り開けると、そこには、立ち込める煙の中でベッドの傍らに倒れ込み、意識を失いかけているリリィの姿があった。
彼女の純白のドレスは煤で汚れ、あの傲慢だったサファイアの瞳は、死の恐怖に怯えるように微かに開いているだけだった。
「エレ、ナ……様……? なぜ、……私を、殺しに……?」
リリィは、掠れた声で呟いた。
彼女の脳裏には、エレナが自分を亡き者にするために、正妻と手を組んで火を放ったのではないかという疑念があったのだろう。
「勘違いしないで、リリィ」
エレナはリリィの細い身体を強引に引き起こし、自らの肩に担ぎ上げた。
「貴方をこんなところで死なせはしないわ。貴方の犯した大罪は、あの冷たい地下牢の、剥き出しの処刑台の上で、すべて清算してもらうんだから!」
「く……ふふ……恐ろしい、人……」
リリィはそう呟くと、完全に意識を失い、エレナの胸の中に崩れ落ちた。
「くっ、重い……!」
平民の育ちとはいえ、一人の大人の身体を担いで炎の中を走るのは、エレナの華奢な肉体には限界に近い苦行だった。
天井から燃え盛る木片が落ち、エレナの頬をかすめて赤い血が滲む。
足元が崩れ、崩落の危機が迫る中、エレナは我が子アルフレッドの顔を思い浮かべ、歯を食いしばって前へと進んだ。
「ブリジェット様――!!」
エレナが最後の力を振り絞って、裏窓の境界へと辿り着き、叫んだ。
「エレナ!! よくやった!」
暗闇から伸びてきたブリジェットの逞しい腕が、まずリリィの身体を引っ張り上げ、続いてエレナの身体を、崩壊寸前の建物から力任せに引き抜いた。
その直後、ズガァァァン!! という凄まじい轟音と共に、白百合宮の屋根が完全に崩れ落ち、猛烈な火柱が夜空へと突き抜けた。
間一髪の脱出だった。
泥と煤、そして血に塗れたエレナは、草の上に大の字に倒れ込み、激しく新鮮な空気を肺に吸い込んだ。
その隣では、ブリジェットがリリィの生存(脈拍)を確認し、ホッと胸を撫で下ろしている。
翌朝。
白百合宮は、黒く焦げた瓦礫の山と化していた。
国王レオンハルトの迅速な命令により、この未曾有の不祥事を引き起こした正妻オーレリアは、即座にすべての地位を剥奪され、王宮の最北端にある「開かずの塔」へと生涯幽閉の身となることが決定した。
彼女の実家である公爵家もまた、王宮防衛義務を怠り、かつ王嗣(の偽物だが)の命を狙った連帯責任として、厳しい財政制裁と監視下に置かれることとなった。
正妻派は、自らの狂気によって、事実上の壊滅を迎えたのだ。
しかし、一命を取り留めたリリィは、医薬院の特別室で目を覚ました時、自身のベッドの傍らに立つエレナを見つめ、そのサファイアの瞳の奥の「警戒の光」を、これまで以上に鋭く、凶悪に尖らせていた。
「……お命を救っていただき、感謝いたしますわ、エレナ様」
リリィは、包帯を巻かれた手で布団を握りしめ、冷たい微笑みを浮かべた。
「お礼には及ばないわ、リリィ様。貴方の身体(のお腹の子)が、無事で本当に良かったわ」
エレナもまた、完璧な「側室の微笑み」を浮かべて返し、リリィのの手元をじっと見つめた。
命を救われたことで、リリィはエレナという存在の「真の恐ろしさ(ただの平民ではなく、自らの目的のために命すら賭ける怪物)」を完全に理解した。
そして同時に、エレナが自らの『偽装妊娠』に気づいているからこそ、生かしたのだという確信をも抱いたはずだった。
正妻オーレリアの失脚によって、後宮の盤面はさらにシンプルに、そしてさらに先鋭化していく。
火災を生き延び、自らの「嘘」が暴かれる時間の猶予が残り少ないことを悟ったリリィは、この偽装妊娠を本物にするための、さらに薄汚く、冷酷極まる「次なる罠」――【赤ん坊のすり替え計画】へと、その細い手を伸ばし始めるのであった。



