君だけは、癒やせない。

 あの日から、不思議と朝が少しだけ楽になった。

 会社へ向かう電車の中でも、以前ほど重苦しい気持ちにならない。

「白石さん、おはようございます!」

 後輩が元気よく声を掛けてくる。

「おはよう。」

 自然と笑顔で返事をすると、後輩が目を丸くした。

「あれ? なんか今日、雰囲気違いますね。」

「そう?」

「うん。最近ずっと疲れてる感じだったのに、今日はちゃんと笑ってる。」

 その言葉に、美月は少し驚いた。

 自分では何も変わっていないと思っていた。

 けれど、昼休みに窓ガラスへ映る自分を見ると、確かに以前より表情が柔らかい気がする。

 思い浮かんだのは、一人の男性だった。

『今日は頑張らなくていいですよ。』

 たった一言。

 それだけなのに、心のどこかが軽くなっていた。

「……何考えてるんだろ。」

 小さく苦笑すると、スマートフォンが震える。

 親友の麻衣からだった。

『元気?』

『うん』

『どうだった?』

 何のことか分かっている。

『優しい人だった』

 送信すると、すぐ返信が来た。

『でしょ?』

『また会いたくなった?』

 美月の指が止まる。

 画面を見つめたまま、小さくため息をついた。

『……少しだけ』

『少しじゃないでしょ(笑)』

 図星だった。

 ◇

 一方その頃。

 蓮は店の控室にいた。

「今日も満枠。」

 店長の九条翼が予約表を見ながら笑う。

「相変わらず人気だな。」

「ありがとうございます。」

 蓮は穏やかに頭を下げた。

「午後は三件か。」

「はい。」

「無理すんなよ。」

「慣れてます。」

 そう答える蓮の表情は柔らかい。

 だが、その笑顔は仕事の始まりを告げるスイッチでもあった。

 最初の客は二十代後半の女性。

 仕事の人間関係に悩んでいた。

「私、向いてないのかな……。」

 蓮は静かに話を聞く。

 途中で否定もしない。

 無理に励まさない。

「頑張りすぎる人ほど、自分を責めてしまうんですよ。」

 その言葉だけで、女性は涙ぐんだ。

「ありがとうございます。」

「少し楽になりました。」

 蓮は微笑む。

「また疲れたら、いつでも。」

 次の客。

 その次の客。

 相手が変わっても、蓮の態度は変わらない。

 誰にでも優しい。

 誰にでも寄り添う。

 だからこそ、予約が途切れない。

 仕事を終えて控室へ戻ると、同僚の天音悠が缶コーヒーを差し出した。

「はい。」

「ありがとう。」

「ほんと不思議。」

 悠は笑う。

「俺だったら途中で疲れちゃう。」

「蓮って、どうして誰にでもあんな優しくできるの?」

 蓮は缶を開けながら答える。

「仕事だから。」

 短い返事。

 悠は肩をすくめる。

「その割に、時々仕事じゃない顔してるけど。」

 蓮は何も答えなかった。

 ◇

 その夜。

 自宅でテレビを眺めていても、内容が頭に入らない。

 美月は無意識にスマートフォンを手に取っていた。

 検索履歴には『神崎蓮』。

 プロフィールページを開く。

 レビューが次々と表示される。

『一緒にいるだけで癒やされました』

『また会いたいです』

『本当に優しい人』

 どれも同じような感想だった。

「……みんなに優しいんだ。」

 当然だ。

 仕事なのだから。

 それなのに胸が少しだけ痛む。

 特別じゃない。

 私だけじゃない。

 そう分かっているのに、蓮の笑顔を思い出してしまう。

 気づけば予約画面を開いていた。

「また会いたい……。」

 迷う。

 何度も閉じては開く。

 十分ほど悩んだ末、美月は予約ボタンを押した。

 画面に表示される『予約が確定しました』の文字。

 思わず笑みがこぼれる。

「……楽しみ。」

 ◇

 数日後。

 二度目の待ち合わせ。

「こんにちは。」

 蓮は前回と変わらない笑顔で立っていた。

「こんにちは。」

「今日はカフェ巡りですね。」

「はい。」

 二人は商店街を歩きながら、一軒目のカフェへ入る。

 注文を終えると、蓮がメニューを見て言った。

「ブラックコーヒーで大丈夫ですか?」

「……覚えてたんですか?」

「もちろん。」

 蓮は笑う。

「前回もブラックでしたから。」

 美月は驚く。

 一度しか会っていないのに。

 さらに蓮は店内を見回し、

「窓側にしましょう。」

「エアコンの風、苦手でしたよね。」

 思わず目を見開く。

「そんなことまで?」

「少し肩をすくめていたので。」

 観察していたのだ。

 それも自然に。

「すごい……。」

 蓮は照れくさそうに笑う。

「仕事柄、人を見ることが多いので。」

 二人はゆっくりと話をした。

 好きな映画。

 休日の過ごし方。

 子どもの頃の思い出。

 笑う回数が前回より増えていることに、美月自身も気づいていた。

 カフェを出たあと、小さな雑貨店へ立ち寄る。

 猫の置物を見つけ、美月は思わず立ち止まった。

「猫、好きなんです。」

「そうなんですね。」

「でもマンションだから飼えなくて。」

 残念そうに笑う美月を見て、蓮は少しだけ目を細めた。

「いつか飼えるといいですね。」

「うん。」

 その笑顔を見た瞬間。

 蓮の胸がわずかに痛んだ。

 ――近づきすぎるな。

 心の中で自分に言い聞かせる。

 ◇

 帰り道。

 夕暮れの街を並んで歩く。

「神崎さん。」

「はい?」

「どうして、そんなに優しいんですか?」

 蓮は少しだけ空を見上げた。

 答えは決まっている。

「仕事ですから。」

 その一言に、美月の笑顔が少しだけ曇る。

 しまった、と蓮は思う。

 少し間を置いて続けた。

「でも。」

 美月が顔を上げる。

「また会えたことは、本当に嬉しかったですよ。」

 営業なのか、本音なのか。

 美月には分からなかった。

 それでも、その言葉だけで十分だった。

「……ありがとうございます。」

 駅前で別れる。

「今日はありがとうございました。」

「こちらこそ。」

 蓮が軽く手を振る。

 美月も振り返した。

 姿が見えなくなったあと、小さくつぶやく。

「好きになっちゃ、駄目なのに。」

 その想いは、もう止められそうになかった。

 ◇

 深夜。

 蓮は静かな部屋へ帰宅した。

 照明をつける。

 家具は必要最低限。

 生活感のない部屋だった。

 テーブルの上には茶色い封筒が置かれている。

 差出人はない。

 蓮は無言で封を切った。

 中から一枚の写真が滑り落ちる。

 写っていたのは、美月だった。

 駅前を歩く姿。

 誰かに撮られた写真。

 裏返す。

 そこには短く書かれていた。

 **『次の依頼対象』**

 蓮の表情から、すべての温かさが消えた。

「……ふざけるな。」

 低く押し殺した声が部屋に響く。

 写真を握り締める指先に力が入る。

 窓の外では、静かに雨が降り始めていた。