君だけは、癒やせない。

 パソコンの画面に映る時計は、午後九時二十三分。

 オフィスの照明はまだ明るく、キーボードを打つ音だけが静かに響いていた。

「白石さん、この資料もお願いできますか?」

 隣の席の後輩が申し訳なさそうに資料を差し出す。

 白石美月は顔を上げ、いつものように笑った。

「うん、いいよ。」

「すみません……!」

「気にしないで。」

 そう言って資料を受け取る。

 本当は今日中に終わらせなければならない仕事が、まだ山ほど残っていた。

 でも断れない。

 頼られるのは嫌いじゃない。

 ――いや。

 断り方が分からないだけなのかもしれない。

「白石。」

 今度は上司に呼ばれる。

「急だけど、このデータもまとめておいて。」

「分かりました。」

 返事をした瞬間、同僚が苦笑した。

「また頼まれてる。」

「美月さん、便利屋じゃないんだから。」

 冗談めかした言葉に、美月は笑って肩をすくめる。

「大丈夫だよ。」

 その言葉は、もう癖になっていた。

 大丈夫。

 疲れていない。

 平気。

 自分に言い聞かせるように何度も繰り返してきた。

 ようやく仕事が終わり、席を立ったのは午後十時を過ぎてからだった。

 化粧室で鏡を見る。

 少し乱れた髪を整え、口角を上げてみる。

「……よし。」

 笑えている。

 そう思った、その時だった。

「白石さん。」

 後ろから声を掛けられ、美月は振り向く。

 同期の佐藤だった。

「ちゃんと笑えてる?」

「え?」

「最近さ、ずっと無理してるように見える。」

 一瞬、言葉が出なかった。

「そんなことないよ。」

「ならいいけど。」

 佐藤はそれ以上何も言わず、先に会社を出ていく。

 一人になった化粧室で、美月は鏡を見つめた。

「……笑えてる、よね。」

 返事はない。

 静かな鏡だけが、自分を映していた。

 ◇

 二日後。

 久しぶりの休日だった。

 駅前のカフェで待っていたのは、大学時代からの親友・麻衣。

「お疲れさま!」

「久しぶり。」

 二人はランチを食べながら近況を話す。

 仕事のこと。

 学生時代の友人のこと。

 他愛ない話で笑い合う。

 けれど、麻衣はふと真顔になった。

「美月。」

「ん?」

「また無理してるでしょ。」

「してないよ。」

「嘘。」

 即答だった。

「顔見れば分かる。」

 美月は苦笑する。

「そんなに分かりやすい?」

「分かりやすい。」

 麻衣はスマートフォンを取り出した。

「ねぇ、これ知ってる?」

 画面には男性のプロフィールが表示されている。

 神崎蓮。

 デートセラピスト。

 予約数No.1。

「デートセラピスト?」

「うん。」

「恋人代行みたいなもの?」

「違う違う。」

 麻衣は笑いながら首を振る。

「一緒にご飯食べたり、水族館に行ったり、話を聞いてもらったりするサービス。」

「癒やしが目的なんだって。」

 美月は少し戸惑う。

「知らない男の人と二人きりなんて……。」

「だからこそ。」

 麻衣は優しく微笑んだ。

「美月、自分のこと大事にしなよ。」

 その言葉が胸に残った。

 ◇

 数日後。

 会社帰り。

 駅のホームで電車を待ちながら、美月はスマートフォンを開いた。

 神崎蓮。

 プロフィールをもう一度見る。

 レビューには同じような言葉が並んでいた。

『自然と笑えました。』

『安心して泣けました。』

『また会いたいです。』

 そんなに違うものなのだろうか。

 気付けば予約ボタンを押していた。

 食事コース。

 二時間。

 予約完了。

「……予約、しちゃった。」

 小さく笑う。

 少しだけ、胸が軽くなった気がした。

 ◇

 当日。

 待ち合わせは駅前広場。

 約束の十分前に着いた美月は、人混みの中で何度も時間を確認していた。

「やっぱり帰ろうかな……。」

 そう思った時。

「白石さん。」

 低く穏やかな声。

 振り向くと、一人の男性が立っていた。

 黒のジャケットに白いシャツ。

 落ち着いた雰囲気がよく似合っている。

「初めまして。」

 柔らかな笑みを浮かべる。

「神崎蓮です。」

「は、初めまして……。」

 思わず緊張する。

 写真で見たよりも優しい人だった。

「緊張してます?」

「少しだけ……。」

「大丈夫ですよ。」

 蓮は穏やかに笑う。

「今日は楽しみましょう。」

 その笑顔だけで、不思議と肩の力が抜けた。

 ◇

 二人は近くのカフェへ向かった。

 注文を済ませても、蓮は無理に話題を振らない。

 沈黙さえ心地いい。

「お仕事は忙しいですか?」

「……はい。」

 それだけ答えると、蓮は静かにうなずいた。

「最近、ちゃんと眠れてます?」

「え?」

「少し疲れているように見えたので。」

 驚いた。

 家族にも気付かれなかったことだった。

「分かるんですか?」

「少しだけ。」

 蓮は照れたように笑う。

「人を見る仕事なので。」

 美月は少しずつ仕事の話を始めた。

 残業。

 頼まれる仕事。

 断れない性格。

 気付けば止まらなくなっていた。

 最後まで蓮は口を挟まない。

 否定もしない。

 ただ、静かに聞いてくれる。

 話し終えると、蓮は優しく言った。

「今日まで、本当によく頑張りましたね。」

 その一言だった。

 胸の奥で張っていた糸が切れる。

 涙がこぼれた。

「ご、ごめんなさい……。」

「謝らなくていいですよ。」

 蓮は慌てることもなく、小さく笑う。

「泣けるってことは、それだけ頑張ってきた証拠です。」

 美月は涙を拭いた。

「僕の前では、無理に笑わなくても大丈夫。」

 その言葉が、誰よりも嬉しかった。

 ◇

 二時間はあっという間だった。

 駅前まで送り届けてもらい、別れの時間が来る。

「今日はありがとうございました。」

「こちらこそ。」

「また疲れた時は、いつでも。」

 営業の言葉だと分かっている。

 それでも嬉しかった。

「……はい。」

 帰り道。

 美月は自然と笑っていた。

「また会いたいな。」

 その気持ちに気付き、自分で少し驚く。

 ◇

 一方その頃。

 蓮は駅前で美月の背中を見送っていた。

 姿が見えなくなった瞬間。

 スマートフォンが震える。

 画面には『非通知』。

 蓮は小さく息をつき、電話に出た。

「……俺だ。」

 数秒の沈黙。

「了解。」

「今から向かう。」

 さっきまで浮かべていた優しい笑顔は、跡形もなく消えていた。

 瞳は冷たく、声にも感情はない。

 ネクタイを少し緩めると、人通りの少ない路地へ歩き出す。

 その背中は、美月と笑い合っていた青年とは別人だった。

 ――彼には、誰にも知られてはいけない、もう一つの顔があった。